vision:ⅩⅧ 忍び寄る闇~心に根付く負の感情~
いつから笑えなくなっただろう?
いつから楽しいと感じなくなってしまったのだろう?
気付いたときには
もう何も感じなくなってしまっていた。
過去の罪への罰なのか。
どうしようもなく、溢れる涙を
止める術を私は知らない。
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溜め込んでいた感情を一気に吐き出すかのように、溢れる涙を止められずにいた。
仮宥愛は何も言わず、ただ傍にいてそっと頭を撫でてくれている。
その優しさが、今は痛いほどに辛く、哀しくて。
いっそ突き放してくれた方が良かったなんて、そう思っている自分が、惨めに思えて。
ここに来る前は、これほどまでに感情のまま涙を流すことなんて無かったのに。
いつの間に、私はこんなにも弱くなってしまったのだろう?
ここへ来てから、私は変わった。
誰かに、こんな風に弱さを見せたりなんてこと、以前は絶対にしなかった。
少しでも弱さを見せれば、面倒な奴だと思われるのが嫌で、感情的にならないようにしていたのに。
優しさなんて、結局は同情で、『可哀想だから』と言っては寄ってくる害虫と同じ。
恩を売って借りを作って、利用しようと企んでいるだけだって、そう思っていた。
だって、実際にそうだったから。
『あの日』以降、言い寄ってきた親戚も、友人だからと手を差し伸べてきた子達も、皆が裏の顔を持っていたことを知って、誰も信じられなかった。
だから私は、皆を突き放し、一人地域の保護シェルターに身を置くようにしたのだ。
「………」
ひとしきり泣いて、少しずつ落ち着いてきた私は、ゆっくりと息を吐くと、俯いたまま仮宥愛に話しかけた。
「………仮宥愛さんは、いつも優しいですよね……」
「………どうしました、千紗都さん?」
「………本当に、優しくて、暖かくて、強くて………すごいですよね」
「そんなことないですよ。私はそんなにすごいと呼ばれるほど、出来た人間ではありません」
「でも、皆から慕われてて、それにちゃんと応えてて。………見返りも求めたりしないから………」
「え?」
「………こんなにも優しくするのに、何の見返りも求めないから。やっぱり仮宥愛さんはすごいよ。私が出会った人の中で、一番すごい人だよ」
「千紗都さん………」
「どうして、誰かにそんな風に何も求めずに優しく出来るんですか………?どうして、仮宥愛さんはいつも、笑っていられるんですか………?どうして、………?」
「………」
俯いたままの私に、今、仮宥愛がどんな表情をしているのかは分からない。
きっとまた呆れたように、考えて、また優しく微笑むんだろう。
そう思っていたら、不意に頬に仮宥愛の両手が当てられて、そのまま顔を上げさせられた。
「どうして千紗都さんは、そこまで自分を卑下したがるのですか?」
そう言われて、ようやく仮宥愛の表情をみて、私は思わず息を呑んだ。
その時の仮宥愛の表情は、真剣で、それでいて少し怒ってる感じがして。
けれど、その瞳には哀しみの色も含んでいて。
言いようのない想いが、感じられて。
「………」
思わず、私は視線を逸らした。
仮宥愛は小さく溜息を吐き、目を伏せて言った。
「そうやって、全ての物事から目を逸らして、逃げ続けていたって、何の解決にも成りませんよ。それくらい分かっているのでしょう?」
「………ええ、分かってますよ。逃げたって、結局は何も変わらないことくらい。………でも、今の私には、逃げることしか出来ないんです………」
「………」
「………」
互いに無言のまま、視線も合わせないままで。
嘘でも良いから、私のことを、叱責して欲しかった。
でも、どうしてだろう?
仮宥愛には、本当は違うんだって言いたくて。
―――胸が、痛い………。
この感情はなんなのか?
自分のことなのに、自分がわからない。
もどかしい。
歯がゆい。
そんな感情が、私を襲っていて。
これがいったい何を意味しているのか。
私には、検討もつかなかった。
これも、嘆きの雨の影響なのか?
もしそうなら、この気持ちに理由なんて要らないだろう。
けれど、私にはそう思えない理由があった。
自分が起こした行動が、周りを巻き込んでしまうのは、コレが初めてではないから。
だからこそ、尚更苦しく感じて、でも上手く言葉に出来なくて。
でも、その感情はいつまでも私にまとわりつくように、離れなくて。
消してしまえたら、どんなに楽だろうか?
けれど、消してしまったら、もう二度と、取り戻せない感じがして。
そんな矛盾する気持ちが、私の内側を襲って。
また、胸が痛む気がした。
そんなことを話している間に、壁越しに聞いていた結翔の姿は消えていた。
結翔は一度医務室へと戻り、一緒に休んでいた狼犬の様子を見ていた。
解毒剤の御陰で、瘴気を吐き出せて、今は穏やかに眠っている。
そっと、結翔が狼犬を撫でると、一瞬だけ反応を示すも、起きる気配は見せない。
すっかり安心しきっているのか、結翔に触れられて、気持ちよさそうに寝息を立てている。
「………」
そんな狼犬の様子を見ながら、結翔はぼんやりと何処かを見つめて。
そして、胸に手を当て、その手をぎゅっと強く握りしめた。
僅かだが、先ほどの会話で千紗都の感情が流れ込んできたようで、結翔は戸惑っていた。
この感情を、結翔は知っていた。
それは結翔自身にも、過去に経験したことのある感情で。
そして同時に、結翔の中で封印していた、過去の出来事を思い起こさせる感情でもあった。
「………」
目を伏せ、流れ込んできた感情と、自身の感情を切り離そうとして。
でもなぜか、そうすることを拒もうとする想いがあって、切り離せなくて。
このままでは感情に飲み込まれて、どれが自分の感情なのか分からなくなってしまうのに、どうして出来ないのだろうと、結翔も自身の想いが揺らいでいるのを感じて。
矛盾する感情の揺れに、大きく息を吐いて。
ゆっくりと目を開けて、安らかに眠っている狼犬の姿を見て、少しだけ目を細め、そして握っていた手をさらにきつく握りしめた。
―――このままでは、ダメだ。
―――でも、どうしても抗うことが、出来ない。
―――今の自分には、逃げることしか、まだ出来ないから………。
そう思って居るのは、結翔も同じだったのだと、私は未だ知らなかった。
それから暫くして、気持ちを切り替えようと、ゆっくりと深呼吸をして。
顔を上げようとした瞬間、従者の一人が慌ただしく駆けてきた。
「すみません、仮宥愛様。美彩様がまた発作を起こしてます。すぐに来ていただけますか?」
「美彩さんが?分かりました、すぐに行きます。………では千紗都さん、私は失礼しますね。何かあれば、またいつでも話を聞きますので」
「………はい」
「では、失礼します。………行きましょう」
そう言って仮宥愛は儒者の人と一緒に、美彩さんの部屋へと向かった。
「………」
一人残された私は、どうしようかと考えて。
美彩のことは心配だが、今の自分に出来ることはないと分かっているから、様子を見に行ったとしても、足手まといになるだけだと思い、動けずにいた。
だから尚更、自分が非力だと思ってしまう。
何の取り柄も、特技もなく、ただ其処に存在するだけの、謂わば、どうでもいい存在。
そんな風に思ってしまう。
「………っ」
先ほどあれほどの涙を流したのに、まだ枯れはしてないのか、わき上がる感情にまた涙が溢れてくる。
ここへ来てから、私は心が脆くなってしまったのだろうか?
こんなにも感情を露わにさせても、良いことなんてないのに。
むしろ、感情を露わにして、周りを振り回すことが、嫌だった。
―――もう、あんなことは二度としたくないのに………。
頭ではそう思っていても、心は言うことを聞かなくて。
私は、一人廊下の隅で、また涙を流していた。
駆け付けた仮宥愛は美彩の部屋を見て、状況を把握し、すぐに処置に回った。
発作が起きているときは、美彩の部屋には誰も入れないようにと告げていたので、被害は最小限で済んでいるものの、実際部屋の中は悲惨な状況だった。
たくさん置かれた植物が異様に蔦を伸ばし、部屋中を覆いつくし、まるで美彩を守るように蔦のゆりかごが作られて、その中で美彩が頭を抱えていた。
「いや………、ダメ………。もう、やめて………」
そう繰り返し呟く美彩は、無意識に力を暴走させ、近づくものをすべて敵と見做し、植物が攻撃的になっていた。
仮宥愛は慎重に美彩の部屋に入ると、瞬時に蔦が襲いかかり、防御壁を作ってそれを躱すが、美彩はまだ悪夢の中にいるのか、仮宥愛の存在に気付いていない。
「美彩さん!聞こえますか!返事をしてください!!」
仮宥愛は美彩に呼びかけるが、返事はなく、美彩は同じ言葉をくり返して呟いているだけだった。
「美彩さん!!」
「………いや………いやっ………、やめて……っ」
「くっ………美彩さん!」
このままでは、美彩の体力が持たない。
そう直感的に感じた仮宥愛は、強硬手段に出ようと手を翳し、風の力を集中させていたが、途中であることに気付いた。
「あれは………!」
美彩の傍に、人の形をした小さな何かが寄り添っているのが見えた。
それは、美彩の持つ精霊の力の主・Nomides(ノーミーデス)だった。
小さなノーミーデスはまるで美彩を守るかのように、力を使い植物たちを操り、枝葉を盾の形にして周囲を覆わせ、蔦を槍のように鋭く尖らせてこちらに向けている。
明らかに警戒している。
その姿は、まるで我が子を守ろうとする母親の姿にも似ていて。
仮宥愛は腕を下ろし、敵意はないことを示し、同時に自身も同じように、精霊の力の主・sylph(シルフ)を呼び出した。
『………』
シルフの姿を見たノーミーデスは、じっと相手を見つめている。
仮宥愛は、自身に敵意は全くないが、彼女を解放して欲しいと、その意思を伝えるために、シルフの力を借りてそよ風を吹きかけた。
その風の暖かさと、込められた想いを感じ取り、ノーミーデスは仮宥愛をじっと見つめたまま、警戒を緩めた。
「………ありがとうございます」
仮宥愛は二つの精霊達に感謝の礼を述べると、深くお辞儀して、「そちらへ行ってもよろしいですか?」と問うと、ノーミーデスは植物たちを移動させて、道を作るとそのまま姿を消した。
「ありがとうございます。………美彩さん、大丈夫ですか?」
「………っ………かな、め、さん………?」
「はい、ここにいます。動けますか?」
「………すみ、ません………。私、また………」
「大丈夫ですよ。ゆっくり、呼吸を整えてください」
少しだけ正気を取り戻した美彩は、まだ息が絶え絶えに話し、それでもゆっくりと体を起こした。
大きく息を吐いて、吸って、吐いてと深呼吸を繰り返して、ようやく美彩は落ち着いてきたようで、仮宥愛は背中をさすりながら、話しかけた。
「今日はまた随分と大荒れでしたね。精霊主の姿を顕現させていましたよ」
「精霊主が………?そうでしたか………すみません、自覚がなくて」
「………何か不安なことでもありましたか?」
「………あの、仮宥愛さん。先ほど嘆きの雨が降りましたよね?誰か雨に当たってしまった方はいますか?」
「それなら、結翔と千紗都さん、あと、森で遭遇した狼犬が1匹いますね。今は薬を与えてあるので、大丈夫ですが………どうかしましたか?」
「結翔君と、千紗都さんですか………。たぶんどちらかに深く侵蝕されてる可能性があります。さっきから植物たちが異様にざわついてて、私も胸騒ぎが治まらなくて………」
「そうでしたか………。念のため、様子を見ておきますね」
「ありがとうございます」
そう言って、仮宥愛は持っていた安定剤を渡すと、美彩はそれを飲み、またベッドに横になった。
それにしても、結翔か千紗都、どちらかが深く侵蝕されている可能性があるというのは、確かに心配だった。
結翔は護符を施しているので恐らく大丈夫だろう。
だとすると、千紗都がそうかもしれない。
先ほどの状態からして、状況は深刻かも知れない。
そう思って、仮宥愛はすぐに戻って様子を見てくると告げ、美彩の部屋を出た。
―――何をしているのだろう?
ふと、私はそんなコトを考えていた。
ここへ来て、いろんな事を知って、一緒に遊んで楽しんだりして。
でも、心の何処かで、本当はずっと不安だった。
―――私、ここにいても良いのかな?
先ほどの感情が、またぶり返してくるような気がして。
だけど、本当に自分は今、なにをして、どうしたいのかが、はっきりと分かっていない。
元の世界へ帰りたいという想いはあるのに、何処かで、ずっとこの世界に居たいという想いも無いわけでもなくて。
―――私の居場所は、何処に在るんだろう………?
そう考え始めると、どうしても答えが知りたくて。
誰かに縋りたくて、でも、誰にも迷惑を掛けたくなくて。
そんな矛盾した感情が、心の中で渦を巻いていって。
気付けば私は、目の前が真っ暗に感じていて。
(あれ………?何だろう、この感じ………。前にも、何処かであったような………)
立ち止まり、頭に手を当てて、ゆっくりと息を吐いて。
目を開けると、ちょうど結翔が医務室から出てくるのが見えて。
声を掛けようと、駆け寄ろうとした。
でも、なぜか急に息が苦しくなって、動けなくて。
手を伸ばそうと、腕を上げようとして、そのまま私は意識を失った。
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