第33話 夏が始まる

 太陽がゆっくりと沈んでゆき、夜が近づいてくる。

 午後7時を間近に、辺りはどんどん暗くなって提灯の灯りがよく映えるようになっていた。


“秋葉と歩いてると、視線がめちゃくちゃ集まるな……。”


 普段から人目を惹く容姿をしている秋葉だが、特に今日の夏らしい浴衣姿が、清楚な彼女によく似合っている。

 道行く人が秋葉に向ける視線が、必然的に春也にも向けられていた。

 しかし、秋葉自身はまるで気にしていないようで、春也との屋台巡りを楽しんでいる。

 あるいは、もはや春也しか見えていないと言ってもいいのかもしれない。


 ただそれと同時に、どうにも2人きりになる状況は作り出せない。

 想いを伝えるチャンスをなかなか捕まえられずに、2人とも悶々とした気持ちも抱えているのだった。

 そんなこんなしているうちに、あっという間に花火開始の時間が近づいてくる。


「もう少しで始まるよね?」

「うん。そろそろ戻る?」


 秋葉は少し考えてから、観覧席とは逆の方向を指差して言った。


「始まる前にトイレに行っておきたいかも。花火、一発も見逃したくないし」

「確かに。俺も行っておこうかな」


 観覧席の反対方向には、公衆トイレがある。

 さらには仮設トイレも臨時で設置されていて、この大量の人出に対応している。

 しかし、始まる前にトイレに行っておこうという考えはみんな同じのようで、トイレには行列ができていた。


「うわぁ……これ、花火までに順番まわって来ないよね……」

「男子トイレはギリ行けそうな気もするけどね。女子トイレは無理かも」

「来る途中、駅の方にもあったよね?」

「あー、あったかも」

「ここに並んだら絶対に間に合わなそうだし……。イチかバチか、あっちに行ってみない?」

「オッケー。あっちが空いてれば、行って戻ってきてもここより早そうだしね」


 春也と秋葉はごった返すトイレに別れを告げて、どんどん人が少なくなっていく方へ歩いて行く。

 そして目的の場所に到着すると、幸いにも行列ができているようなことはなかった。

 それどころか全く人気がない。


「これなら間に合いそうだね」

「だね」


 街灯がぼんやりと照らす互いの顔に笑顔を浮かべて、2人はグーサインを出し合う。

 そしてそれぞれのトイレに分かれて入った。

 こういう場合、たいていは男の方が早く用を済ませるものである。

 春也も先にトイレを済ませて、女子トイレからは少し離れた場所で待つことにした。

 しかし、5分待っても秋葉が出てこない。


“おかしいな……。先客はいないはずなのに……。”


 ちょっと心配になった春也は、女子トイレの方に近づいて様子をうかがう。

 すると裏手の方から、何か物音が聞こえてくるような気がした。


“まさか……!”


 春也は急いで裏手にまわる。

 そこでは、いかにもろくでもなさそうな男2人が、秋葉のことを取り囲んでいた。


「ねーねー。俺らと花火観ようよ」

「ひとりじゃ寂しいじゃん?」

「あ、あの……ひとりじゃないです。やめてください」


 男たちは猫なで声で優しく見せているが、どうにも威圧感がある。

 秋葉はそれに押されて思うように声が出せないようで、必死に絞り出した抵抗も震えていた。


 実はこの場所、花火大会の時も通常時も問わず、あまり治安がよろしくないことで有名な場所である。

 だからトイレも空いていたのだが、この祭りに初めてきた2人が知っているはずもなかった。


“助けて……春也……!”


 そう叫びたい気持ちでいっぱいなのに、恐怖で大きな声が出ない。

 男たちはにやにや笑いながら、秋葉の肩に手を置いた。

 ふと、春先のショッピングモールでの記憶がよみがえる。

 あの時のように、春也に助けてほしい。

 誰かじゃなくて、春也に助けてほしい。


“春也……!”


 声にならない分、必死に心の中で願う。

 その祈りに応えるかのように、人影が駆け寄ってくる。


「秋葉!」


 春也の呼びかけに反応して、男たちがぱっと振り向いた。

 一転して睨みをきかせる相手にも、春也は動じない。


「人の彼女に何してんですか?」


 あの時と同じセリフを、意図せずに春也が発した。

 案の定、男たちの睨みが強くなる。

 しかし春也はそんなことを気にせず、真ん中の秋葉にそっと手を伸ばした。

 春先と全く同じように。


“春也……!”


 秋葉の瞳に春也の優しくも強い目が映り、それがじんわりと涙で滲んでいく。


“あの時と同じ目だ……。”


 すでに助け出されたかのような安心感に包まれる秋葉だが、ここは前回と違って本当に人気のない場所。

 ナンパしてきた男たちも、そう簡単に獲物を離そうとはしない。


「やめろよ。警察呼ぶぞ」

「呼べばいいだろ。来る前にお前ボコって、彼女連れて逃げるだけだわ」


 強気に出た男たち。

 しかしそこへ、自転車の走ってくる音がした。

 よく見ると、制服に身を包んだ警察官が近づいてきている。

 といっても、あくまでパトロールをしているだけで、この状況には気付いていないのだが。

 しかしナンパ男たちにとっては、警察が近づいているというだけで十分だった。

 ここで春也に大声を出されたら、それで一巻の終わりだからだ。


「ちっ」

「運が良かったな!」


 捨て台詞を吐いて、男たちはこの場を去っていく。


“良かった……。”


 春也はそっと秋葉の肩を抱いて、トイレの裏側から移動させる。

 人気のない公園の真ん中あたりまで、2人は無言のまま歩いた。

 まだ体が震えている秋葉は、ぐっと春也の腕を掴んでいる。


「ありがとう。また、助けてくれて」


 ふと足を止めて、秋葉が春也の顔を見上げながら言った。


「どういたしまして。本当に良かった。怖かったよね」


 返事をしてから、秋葉の言葉が春也の心に引っかかる。


“……また?”


 海の家が倒れた時も、春也は秋葉のことを守っている。

 でも彼女が言ったのは、その時のことではない。

 秋葉の言葉と、そしてさっきあった出来事が、春也にも大学入学前の日のことを思い出させる。


 ナンパされていた女の子を見かけたこと。

 後先考えずに彼氏のフリをして飛び込んだこと。

 何とか彼女を助け出して彼女の肩を抱きながら人混みまで誘導したこと。


“あの時のお団子ヘアの女の子。あの顔は……”


 春也は自分を見上げる秋葉の顔を、まじまじと見つめた。


“そうか。あの時の女の子が……”


「俺たち、大学に入る前に出会ってたんだ……」

「やっと気付いてくれた……」


 春也と秋葉はまっすぐに見つめ合う。

 2人きり。周りには誰もいない。

 いつの間にか、お互いに待ち望んでいた状況ができあがっていた。


「秋葉……」

「春也……」


 2人の中にあったはじまりの記憶が、赤い糸で結び合わされ繋がる。


「どうしても伝えたいことがあるんだ」


 秋葉の方が先に春也に心を奪われていたように。

 今回も一瞬だけ早く秋葉が口を開く。


“好きだって伝える……。”


 秋葉はひとつ深呼吸すると、まっすぐに春也の顔を見つめた。

 これでもかというくらいに、鼓動がうるさい。

 それでも、絶対に離れたり逃げたりはしない。


「あの時に助けてもらって、名前も聞けなくてずっと後悔してて。だけど大学で再会できて、でも春也は覚えてないみたいで。春也に変な顔をされるのが怖くて、ちゃんと言い出せなかった」

「……そうだったんだ」

「うん。でもね、レンタル彼氏をきっかけに春也と仲良くなれて、すごく嬉しかったし楽しかった。あと、春也が他の子とバイトでデートしてるのがちょっぴり嫌だった。そこで気付いたんだ」


“言うよ。今から伝えるよ。”


 秋葉は一度目を閉じる。

 そして再び目を開けた時、そこには春也の少し赤らんだ優しい顔があった。

 大好きになった顔が、しっかりと秋葉を見つめている。

 秋葉は小さく息を吐いて、ずっと伝えたかった想いを告げた。


「大好きなんだ、春也のこと」

「……っ」


 春也はもう止まらない鼓動に身を任せて、目を逸らすことなく口を開く。


「俺も秋葉といるとすごく楽しいし、幸せな気持ちになれるんだ。秋葉と一緒に出かけられるってだけで嬉しくなるし、出かけ終わった後はもっと一緒にいたいって思う。俺も大好きなんだ、秋葉のこと」

「春也……」

「彼氏のフリじゃなくて、ただの友達でもなくて、それにレンタル彼氏でもなくて、本当の彼氏として秋葉のそばにいたい」


“好きだって秋葉が先に言ったから。この言葉は俺が先に伝える。”


「秋葉、俺と付き合ってください」

「……っ!!!!」


 春也が秋葉に向けて右手を差し出す。

 それを秋葉は握り返してから、ぐっと自分の方に引き寄せた。

 そして春也の身体をぎゅっと抱きしめる。


「はい……! ずっとそばにいてね……!」

「約束するよ」


 春也は優しく秋葉を抱きしめ返した。


「いつまでもそばにいる」

「うん、いつまでも」


 抱きしめ合った2人は、赤くなった顔で見つめ合う。

 少しぎこちなくもありながら、ちょっとずつその距離が縮まっていく。


「秋葉」

「春也」


 初めてのデートの時のように、互いの名前を呼び合って。

 それから2人はそっとキスをする。


“幸せ……。”

“幸せ……。”


 そんな2人を照らすように、夜空に大輪の花火が咲いた。

 夏が始まった合図がした。

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