落とし物
日比谷野あやめ
落とし物
落とし物
俺には昔から、本当は自分の過失ではないのに、そのことを伝えずに物事をその場の空気に任せてしまう癖があった。状況をうまく説明できない、場を混乱させたくない、様々な理由はあれど、その最たるものは「人を信用してないから」というものだった。人は見たものしか信用できない。人は聞いたことでしか判断出来ない。それは自分もそうであるという自覚があるから益々人を信用しなくなった。でも、たまには信用してみるのも良かったのかもしれない。俺は、空き家の屋根裏部屋でテレビを見ながらふとそんなことを考えた。
ことの発端は1ヶ月前に遡る。こんな状況に陥る前、俺は料理人だった。料理人といっても高級料理店などではなく、ただの和食チェーンの、しかし料理長だった。働きの割に給料も待遇も良くはなかったが、今思えばあんな仕事にも俺は誇りをもっていた。クビになった訳だが。不景気によるリストラだった。料理人最後の日、俺は自分の調理道具を持って帰った。鍋や計量カップ、それに包丁などそこそこの重量があった。大きなカバンを抱えながら電車を乗り継ぎ、地元の駅に着いた時、俺は1人の女性が何やら焦っている様子を捉えた。若い女だった。白地に赤の斑らが浮かんだワンピースを着ている茶髪のロングヘアで、それに、「一体何が入るのか?」と疑問に思うくらい小さいハンドバッグを持っていた。そしてもっと異様だったのは、そのハンドバッグの中身を必死に掻き回していることだった。いかんせんバッグが小さすぎるため、掻き回すよりかは、引っ掻くの方が正しいかもしれなかった。女は微かな声で「ない……ない……ない……!」と呟いてる。呟きはやがて話し声になり、話し声はやがて叫び声になった。田舎の夜でなければとうにギャラリーが出来ているほどの異様さだった。駅のロータリーには俺と彼女しかいなかった。
「あぁ、ない!ない!ない!!!!どうしよう……。あれがないと……あれがないと……!私……!!!!」女の甲高い声がこれでもかと言わんばかりに上擦っていく。苦しそうに身をかがめて、捩らせ、彼女の手は胸の辺りの生地をギュッと握りしめた。動きがだんだん静かになった時、彼女と目が合ってしまった。ずっと見つめていたので、目が合うのは時間の問題だったが、なぜだか見つかってしまったと思った。
「あ、あの……」
俺は声をかけながら彼女に近づいた。彼女は片目から涙を流していた。悲しくて泣いているというよりかは、興奮のしすぎで反射的に飛び出した涙に思えた。
「どうかされたんですか?」
俺が声をかけると、彼女はふと顔を上げた。そして一言。
「落としてしまったんです。命」
それだけだった。彼女は胸に手を当てたまま倒れた。ほんの一瞬の出来事で何も理解できなかった。落とした?命を?どういうことだ?「命を落とした」という言葉は人が亡くなった時によく使われるが、それは「命」という物質があるわけではない。ただのものの例えだろう。
「……あの、本当に大丈夫ですか?」
本当に死んでいることはないだろう。あれだけ興奮していたのだ。きっと、貧血かなんかを起こしたに違いない。そうだ、きっと「命の母」を探していたに違いない。たしかそう言う薬があったはずだ。それを言い切れなかったのだ。とりあえず、彼女を抱き起こそうとする。すると自分が大荷物だということに気がついた。何か身動きする度に料理道具が地面に散らばっていく。彼らは解放の時をずっと待っていたのだ。俺は一旦邪魔になりそうな荷物だけ置いて、また彼女の身体に触れ、うつ伏せに倒れた彼女の身体を起こした。
硬い。氷のように硬い。この数分の間に彼女の体はマネキンのようになっていた。脈を確かめる。ない。心臓の音を確かめる。ない。ない。ない。ない。ない。何度も何度も確認する。彼女の脈拍の代わりに、俺の鼓動が早まっていく。まるで、彼女の心臓も動かそうとしているかのようだった。本当にそういう機能があってほしかった。何度も脈と心音を確認した。嘘だ。信じられない。彼女は死んでいた。
「あの〜、どうかされましたか?」
いきなり声をかけられて、今度は俺が無い「命」を落としてしまうかと思った。いつのまにか、俺の背後には警察官が立っていた。
「じ、実は……」
「え!?女性が倒れてるじゃないですか!大丈夫ですか?」
俺の言葉を最後まで聞かず、警察官は彼女へ歩み寄った。なんだかいけすかない奴だ。
「あらあら、酒の飲み過ぎかね〜」と呑気なことを言いながら、彼女を揺さぶっている。
「そんなことして、起きる訳ないじゃないですか」
「どうして?」
「どうしてって……彼女、死んでしまっているんです。何か興奮した様子だったので、声をかけたら突然倒れてしまって……」
「えぇ!死んでるって、そんなまさか」
警察官が彼女の首に触れた。
「……ほら、ね?」と言うために、俺は身を屈めた。その時、俺の足に何かがあたり、微かにカシャン……という音が鳴った。
「ん?なんだ?君、これは……」
警察官の目が、小さい金属音に反応して動く。ロータリーのオレンジ色の光に反射して、刃が綺麗に輝いていた。刃渡30センチの包丁だった。
「あ、あぁ、これは、その、俺、実は」
俺は慌てた。今思うと慌てる必要などなくて、自分の状況を冷静に説明すれば良いだけだった。それだけなのに、俺にはそれがうまく出来なかった。「料理人」「クビになって」「仕事道具」「持って帰ってきた」などという単語が口の端からぽとりぽとりとこぼれ落ちた。警察官は俺の言葉を聞いているのかいないのか、彼女と包丁を見比べている。彼女の胸元には、ぎゅっと握りしめた影響からか、赤いまだら模様がちょうど来ていた。一つ一つ丁寧に染めたものなのだろう。縁がじんわりと広がって、まるで、まるで……。
違う!俺じゃない!誰もそんなことを言っていないのに、いや、誰かがそう言った!俺の仕業だって、俺が彼女を殺したんだって、俺を化け物を見るかのような目で見ている!違う、違うんだ!俺はやってない、いや、お前が彼女を殺したんだろう、そうだろう……。頭の中の観衆が俺を一瞬のうちに証言台へと押し上げてしまう。
「ち、違う、おれ、俺は!」
「ちょっと君!?待ちなさい!」
俺は必死に走った。あんなに大切にしていた道具たちも、人の話をまるで聞かない警察官も、深夜のロータリーも、コンビニ前で座り込んでいるヤンキーも、数々の信号機も、全てを置き去りにした。誰も傷つけずに、一夜にして俺は殺人犯になったのだ。
最近は空き家の屋根裏に潜んでいる。ここがどこかもわからない。食料は屋根裏に積んであった非常食で賄っていた。しかし、それももう尽きようとしている。俺は次の一手を考えなければならない。俺は普通に外に出ることにした。よくよくかんがえてみれば、というか考えなくても簡単な話だ。全ては「警察官に人殺しを疑われたかもしれない」という俺の早とちりなのだ。ただ、俺は刃物を持って逃げただけ。何も問題はない。すぐに逃げてしまったので、少しは疑われるかもしれないが、俺の元職場に証言して貰えれば、俺が刃物を所持していた正当性も証明されるのだ。それにたとえ警察官が俺を疑っていたとしても、彼女の死体をよく検めれば、外傷が全くないことが分かるだろう。そうだ、堂々と街に出よう。家に帰ろう。懐かしの我が家へ!
勢いよく立ち上がった矢先、玄関の扉が開かれる音がした。
「おーい、誰かいるのか?」
「本当にこんなところにいるんですか?」
「確かに物音がしたんです……」
1人じゃない。玄関先に複数いる。屋根裏の窓から外をそっと伺うと、地元の警察官と近所の人らしき人が数人、玄関の外に立っている。俺の勇気は一気に萎んでしまった。数分前まであんなに清々しい気持ちだったのに。せめて1人だけだったなら少しは勇気を持てたのに。
俺はまた屋根裏に座り込んだ。
「ん?今影が動いたぞ!?」
「誰かいるのか?」
まずい!いや、何も拙くはない。いつかはこうなる運命だったのだ。俺は悪いことをしていない。ただ、刃物を落として逃げた男だ。いつまでもこうしている場合ではない、早く出ていかなければ。でも、身体が動かない。筋肉が、伸び縮みしないのだ。普段から俺の言いなりになっている癖に、こういう時だけ一致団結して俺の動きを阻むのはやめろ!唯一従順だった腕の筋肉が伸びて、前太ももを、ふくらはぎを叩く。足音が迫ってくる。もうおしまいなのか?いや、おしまいってなんだ?しっかり一から説明すればいいだろう?そんなの無理だ!子供の頃からそうだ!何かを説明しようとして、それを真面目に聞いてくれる大人なんかいたか?他人の言葉を、目下の言葉を、聞いてくれる他人など俺の周りにはいなかった。そうだ、全て俺の周りの人間が悪いんだ!俺の話を聞いてくれなかったから、俺は今こんなくだらないことで命を落とそうとしている!肩に何かが触れた。大きくてゴツゴツとした手だ。
「お兄さん、こんなところで何をしているんだ?」
俺は屋根裏から飛び出していた。両足から痺れが走り、膝から下が無くなったように地面に転げる。這いつくばっている場合ではない。早く起き上がらなくては、とにかく体を起こすと、まさか俺が飛び降りるとは思っていなかったのか、警察官は口を開けてその場に突っ立っている。俺は精一杯の力で足を立てると、家の前の坂を駆け降りた。いつの日かと同じように、木造の古民家を、老人を、漁師を、猫を置き去りにしていく。俺はいつの間にか港に出ていた。このまま行けば、海に飛び込む羽目になるだろう。俺の身体はスピードを落とすことはない。後ろから、あの警察官が追いかけてきているのだ!
「ちょっと君!?待ちなさい!」
ほら、あの声が聞こえる。それに、今更正直に言ったって何になると言うのだろう。俺は「何もしていないのに、勝手に怯えて逃げ出した狂人」として警察に笑われるだろう。もう道はないのだ。あの時、もし女に出会わなければ。もし、女に声をかけなければ。もし、自分が料理人でなかったら。もし、自分の料理道具を持ち帰っていなかったら。言葉をもたない俺は、こんな形でしか「落とし前」をつけられないのだ。
ある田舎の駅のロータリー。白地に赤のワンピースを着た茶髪の女がハンドバッグを必死に漁っている。
「ない、ない、ない、ない!どうしよう、私、私、あれがないと……!」
彼女の声は壊れかけのバイオリンのように上擦って響く。焦りのあまり、チューブマンのように身体をくねらせる彼女を見かねた男性が声をかけた。
「あ、あの……」
「どうかされたんですか?」
女が動きを止め、顔を上げる。その片目からは興奮のあまり、涙が滲み出ていた。
「落としてしまったんです、命」
彼女は倒れた。しかし、そんなことはお構いなしに、男性は地面に落ちていたポケットティッシュを拾った。
「あの、もしかして、これじゃないですか?」
しばらく沈黙が続いた後、彼女はゆっくりと顔を上げ、そして微笑んだ。
「あぁ、それです!どこに落ちてたんですか?」
「え、そこに落ちてましたけど」
「そうなんですか!?全然気づかなかった!ありがとうございます」
満面の笑みで男性からティッシュを両手で受け取り、それを大切そうに胸に当てた。まるで、ティッシュが自分の赤ん坊であるかのように。
「こんなところにあったんだ、私の命」
落とし物 日比谷野あやめ @hibiyano_ayame
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