第4回 細かすぎて伝わらないBBCドラマ

 原作を読みつつ、BBCドラマ版「鏡は横にひび割れて」もちょこちょこ再視聴しています。そうすると、すでに何回も観ているドラマなのに、新たな発見や気づきがあって驚きます。


 ドラマのオープニングは、ミス・マープルの長年の友ミセス・バントリーの帰還。蒸気機関車で駅に降り立った彼女が、改札口を出てタクシーに乗り込む。そんなシーンです。

 駅前にタクシーが停車しているのを見た彼女は、タクシー・ドライバーと会話を交わします。字幕では「セント・メアリー・ミードまで」と出るだけですが、明らかに他にも何か言っています。BGMが台詞に被さってよく聞き取れず、それほど重要なことではないのだろうと以前は注意を払っていなかった場面ですが、今回、画面でタクシーを目にした自分の中で何かがクリックしました。


 タクシーに乗り込んだミセス・バントリーは、かつて自宅ホームだった広大なお屋敷ゴシントン・ホールではなく、こぢんまりとして、夫に先立たれた寡婦の一人暮らしに適した小屋ロッジへ向かうのですが、巻き戻して改札からタクシーに乗り込む前のシーンを、音量を少し上げて再生してみました。


 相変わらず全ては聞き取れませんが、どうにかこうにか「インチ」と聞き取れる語をミセス・Bは二度口にしています。しかしその後何回再生を繰り返しても、聞き取れたのはそれだけ。うーん、せめてこの軽快なBGMがなければなあ。

 しかし、インチとタクシーについては、原書でハイライトした記憶がありました。さっそく該当箇所を参照しました。


 原作では、ドラマよりもよぼよぼしてしまっているミス・マープル、Chapter 3では海外旅行から帰宅したミセス・Bの家に遊びに行ってお茶とゴシップを楽しみますが、甥が雇った世話役に怒られるので、そろそろ家に帰らなければ、と長年の友人に告げます。ミス・マープルほどではないにしても地獄耳のミセス・B、ミス・マープルが付き添いなしで出かけて転んでしまったことを知っています。二人の間では、こんな会話が交わされます:


‘I’d better be going back now, I suppose.’

‘You didn’t walk all the way here, did you?’

‘Of course not. I came in Inch.’


 最後の台詞、来るときは「(徒歩ではなく)インチで来た」のだから、帰りも当然インチで帰るという意味なんですが、そもそも「インチ」とは何か。

 セント・メアリ・ミードの住民の間では「インチ」と言えば「タクシー」を意味することがこの後説明されます:


In days very long past, Mr Inch had been the proprietor of two cabs, which met trains at the local station and . . .


 あ、懐かしい。イギリスではタクシーのことをcabって言うんですよね。

 かなり昔、ミスター・インチなる人物がタクシーを二台所有して、駅前で待機して送迎ビジネスをしていたんですね。ドラマのオープニングでミセス・Bが拾ったのが、まさしくそのインチ氏のタクシーなのでは。


 嬉しくなってドラマに戻り、もう一度そのシーンを再生してみました。さらに何度も。すると、先ほどはほとんど聞き取ることができなかった会話を、おおむね聞き取ることができました。不思議。

 改札を出て、タクシーが丁度良く待ち構えているのを見つけたミセス・Bは、嬉しそうにこう言います:


‘Ah, Inch. How brilliant. Mary Mead, please Inch. Thank you so much.’


 この一連の台詞、字幕だと「セント・メアリー・ミードまで」と行先を告げる部分しかピックアップされていませんが、最初のAh, Inch.のInchは、恐らく「タクシー」を発見した喜びの声です。「ああ、タクシーだわ」みたいな(あ、うっかり訳してしまった。まあ短いのはいいでしょう)。そして、Mary Mead, please Inch. と行き先を告げた後に続く Inchは、タクシーの所有者兼運転手のインチ氏への呼びかけだと思います(この台詞において、St. Mary MeadのSt. の部分も口にしているかもしれないのですが、何回聞いても聞き取れないので、Mary Meadと省略していると判断しました)。

 原作には、ミセス・Bが駅からタクシーで帰宅するという場面はありません。


 原作では、初代インチ氏のあとを息子の若インチ氏が継ぎましたが、彼はあまり優秀ではなかったようです:


To keep up with the times, young Inch abandoned horse vehicles for motor cars. He was not very good with machinery and in due course a certain Mr Bardwell took over from him. The name Inch persisted.


 原作のMirror Crack’dの時代には既にタクシー会社はインチ一族ではない別の人物に引き継がれているのですが、それでも古くからの住民は皆タクシーを「インチ」と呼ぶと。興味深い。

 それはさておき、ちょっと気になったくだりがあります:


. . . young Inch abandoned horse vehicles for motor cars . . . 


 え……馬? 二代目インチが馬で引く乗り物をやめて自動車にした?


 最初に出てきた初代インチ氏が始めた送迎ビジネスについてのくだりを思い出してください:


In days very long past, Mr Inch had been the proprietor of two cabs...


 かなり昔という前置きがあるにもかかわらず、わたしは単純にタクシー(ロンドンのイメージでブラック・キャブ、黒塗りのオースチン)を想像していましたが、ここで言及されているcabsは、horse vehicles、つまり、馬車。 


 それって完全にヴィクトリア朝じゃないですか!


 シャーロック・ホームズのドラマ――現代に時代設定された最新ドラマ『シャーロック』ではなくて――で描かれる19世紀ロンドン、石畳の街並みを馬車が行き来するあの時代の話なんですね、初代インチ氏が商売を始めたのは。そして父親の会社を引き継いだ若インチ氏が、自動車を導入したと。ロンドンのような大都会とセント・メアリ・ミードではずいぶん様相が異なったはずですが、1930年頃に65~70歳として颯爽と推理小説界に降臨したミス・マープル、生まれは19世紀の後半と推定されます。


 ミス・マープルは老婦人の姿でこの世に生まれ落ちた探偵みたいに思っていたので、前回紹介したミス・マープルの伝記本を読むまでは、彼女にも少女時代や若かりし頃があるとことをほとんど意識していなかった気がします。だから、原作の方にhorse vehicles云々出てきた時に驚いてハイライトしておきました。書籍を汚すことなくマーキングしてメモを書き込んだり、そのハイライト部分をまとめて表示できるので、Kindleのデバイスはなかなか優秀です。

 お陰でドラマ内の英会話を聞き取るリスニング能力もちょっとアップしました。



=====

この第4回エッセイ中で、ミス・マープルの本拠地ホームであるSt. Mary Meadの表記が「セント・メアリー・ミード」とある時はドラマの字幕からの引用だからで、「セント・メアリ・ミード」と記すときは、小説(和訳)の表記に倣っています。


英語表記でのSt Mary Meadは原書の表記でSt. Mary Meadは伝記の表記です。んー、アガサさん、Mrとかにも省略記号「.」ピリオドを打たないんですねえ。うーん、作者がそういう書き方をするのなら、それで統一しちゃいたいような。


でも、ネイティブの英語の先生から、「(この種のことは)ネイティブがやるのは間違いじゃないけど、外国人のあなたがやったら間違いだと思われるよ」って言われて、なるほどねえーって納得してしまったんですよね。

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