第7話 三橋を殺した人

 その日は、それ以降詳しい話はなかった。本当は最初に聴くつもりで行った一番の目的である、殺された三橋という男の写真を見せたところ、女将もお美紀ちゃんも、声を揃えて、

「前によく来られていたお客さんで、そこに座っているのをよく見かけた気がしていました。いつも一人で来られていて、いつも難しい顔をされているんですよ。どうもそこに座る人は、結構難しい顔されている人が多いようで、最近はよく昨日のお客さんがよくそこに座られていましたね」

 と女将がいうと、今度はお美紀ちゃんが思い出したように、口を挟んだ。

「あ、いいですか?」

 というお美紀ちゃんに辰巳刑事が、

「はい、どうぞ」

 と、話を振ってあげると、

「そのお客様がですね。この間、殺されたという三橋さんのことだと思うんだけど、前にこの席によく座っていた人、最近は来ないようだね?」

 と聞かれたことがあったんですが、

「ええ、お客さんはその人と顔見知りなんですか? と聞いてみると、いや、自分はその人の部下だと言っていたんですよ。確かに一見老けて見えましたけど、年齢的にはまだ二十代だったんではないかと思ったんです。そういえば、三橋さんという人もまだ三十代前半だったんでしょう? 見た目は中年男性という雰囲気だったので、あの人の会社の人というのは、皆老けて見えるのかって思ったほどだったんですよ」

 と、お美紀ちゃんは言った。

 その話を訊きながら、長谷川巡査の表情が少し歪んできたのを感じた。ひょっとすると歯を食いしばっていたのかも知れない。

――長谷川巡査は、何にそんなに憤っているんだろう?

 それに気づいた辰巳刑事はそう感じていた。

「こんなことを言ってはいけないのかも知れないですが。このあたりのお客というのは、正直、程度はよくない人が多いと思っています。普段はブスッとしていて、愛想もくそもないんですが、酒が入ると、愚痴ばかりこぼしている人が多いような気がします。私も何度か、女将さんから電話を受けて、喧嘩の仲裁に来たこともありましたよ。その時はたいてい、今私が座っている席の客は絡んでいるんです。最初に絡んだのは相手からがほとんどなんだそうですが、それだけ他の客を怒らせるような態度を取るということでしょうから、罪としては重いと思っています」

 と長谷川巡査がいうと、

「じゃあ、その中に、今回の被害者である三橋氏も含まれていたのかな?」

 と清水警部補が聞くと、

「ええ、名前に憶えがありますし、この男の顔も覚えています。しかも一度だけではなく何度かあった気がするんですよ」

 と言った。

「しかし、何のためにそんなに絡むんだろうな?」

 と辰巳刑事が聞くと、

「どうやら、これはウワサでしかないんですが、このあたりに一人の酔っ払いをターゲットにした裏風俗のようなものがあるらしいです。店の中でわざと喧嘩を吹っ掛けて、相手がむしゃくしゃしているところに、言葉巧みにオンナを紹介するなどと言って、優しい言葉を掛けるんですよ。それも、ある程度男の方も留飲が下がってきていて、寂しさがこみあげてくるんでしょうね。だから、男の方もついつい甘い言葉に乗ってしまう。お金が少々かかったとしても、こんなむしゃくしゃした思いを抱えて帰るなんて嫌だということなんでしょうね。そんな男たちをカモにしている集団があるようなんですよ。この店にもいるようです」

 と長谷川巡査がいうと、

「君はそれを署に報告はしたかね?」

「ええ、しましたけど、信じられないということで、証拠もないので、話は却下されました。そんなもんですよ」

 と投げやりになったのか、そう長谷川巡査は言った。

――これがあの長谷川巡査なのか?

 と感じたが、それも警察組織の悪いところを証明しているようなものだ。

 それを考えると、三人の上司は、やるせない気持ちにさせられたのだ。

「長谷川巡査を叱責することは我々にはできない」

 と、皆が感じたことだろう。

 いくら警察組織が縦社会であるとはいえ、確かに長谷川巡査が嫌気がさすのも分からなくもない。きっと自分たちが長谷川巡査の立場であれば、同じことを感じであろう、

 だが、門倉本部長は違った。

 もちろん、他の二人も違うのだが、気持ちとして一番強く持っているのは門倉本部長だった。

 門倉本部長は、清水警部補も同じではあったが、叩き上げということで、あまり出世には興味もなく、二人とも、ごく最近まではまだ刑事だったという意識があるくらいだ。

 元々二人とも、もっと早く警部補鳴り、警部に昇格していてもよかったのだが、二人が望まないというのもあった。

「現場でしっかりと仕事をさせてもらう」

 というのが、刑事時代の自分たちのモットーだったのだ。

 しかし、ある事件で、明らかに犯人が分かっているにも関わらず、上から圧力がかかって、せっかくの犯人を逃してしまったことがあった。理不尽な和解が成立し、明らかに悪質な犯罪であり、証拠もあったことから、裁判になれば、実刑は免れないというはずだったのに、寸前になって、捜査終了のお達しがあったのだ。

 犯人と目されていたのは、大臣候補の息子で、警察関係者にお強いパイプを持っているという財界のドンだったのだ。

 その息子を検挙したにも関わらず、無罪放免にしなければいけないうやるせなさ、その時に門倉刑事は感じた。

「警察では上に行かなければ、やりたいことはできないんだ」

 という結論である。

 その結論は頭の中では分かっているつもりだったが、どこか我々の世界とは関係ないという意識があった。しかし、こうなってしまうと、もう甘いことはいってられない。犯人を逮捕するだけでも、権力がいるということになるのを理解したことで、それからの門倉刑事は変わった。

「何が何でも上に行ってやる」

 という意識から、元々はその器だったのだから、正しい器に収まったというだけのことなのに、門倉刑事は何とか自分の本質を失わないようにすることが一番難しいと思っていたので、そればかり気を付けていた。

 今では警部に昇進し、そのうちに、警視も視野に入ってくるだろう。

 そうなると、警察署長も夢ではなくなり。管理官などもありである。

 可能性を考えると今まで見えてこなかったことが見えてくるようになる。門倉警部は、今は本部長としてそのキャリアを重ねていくことが大切であった。

 清水警部補もそんな門倉本部長の背中を絶えず見ていた。

 最初は、

「出世などほとんど考えていなかった門倉刑事が、どうして急に」

 とは思ったが。気持ちは同じだった清水刑事にも同じ思いがこみ上げてきていた。

「自分は門倉刑事ほどは優秀ではないので、門倉さんの背中が見えなくならないように、必死に追いかけて行こう」

 という思いを強く持っていた。

 そのおかげで、警部補に昇進し、現場の指揮を自分が取ることができるようになった。何と言っても、自分の後ろについていてくれるのが門倉本部長なので、これほどここ六酔いものはないわけである。

 辰巳刑事は、まだそこまで考えてはいなかった。自分のことで精いっぱいで、現場にて自分で最高の力を出す。どれだけだった。

 清水警部補はそんな辰巳刑事を頼もしく思っていた。

 自分にもつい最近まで同じような感覚があったのだと思うと、自分が辰巳刑事を支えてあげなければいけないと思う。

「辰巳君は、自分で感じたことを私にちゃんと報告し、それを私が承認してから、しっかりと行動するんだよ」

 といつも言っているが。これは暴走を止めるためであった。

 得てして、自分の若い頃もそうであったが、矛盾や理不尽なことに対して、必要以上に怒りがこみあげてくる。そうなると、見えてくるはずおものが見えてこなくなり、せっかくの捜査が、水泡に帰してしまうことになりかねない。それをどうしても防ぐ必要がある。いつも清水警部補が考えていることだった。

 その日は、そのまま事件のことを話題にすることはなく、適当な時間で引き揚げた。

 長谷川巡査は、朝が早いということで、午後九時前に帰ったが、後の三人は十時くらいまでいて、事件の話題に触れることはなかった。

 ちなみに長谷川巡査が来た時は、いつも今日くらいの時間に帰るということであり、別に三人に気を遣ったわけではなかった。

 長谷川巡査は、結構上司に気を遣っているように思われがちだが、冷静に考えてみると、そこまで気を遣っているわけではない。さりげない気の遣い方をする人で、それが相手を気持ちよくさせるのだろう。

「長谷川巡査のような人が、巡査にもっとたくさんいれば、本当に治安のいい街が作れるんだろうけどな」

 と、門倉本部長がしみじみ言ったが、それは他の二人も反対意見があるわけでもなく、全面的に納得だった。

 その日は長谷川巡査の意外な面を見ることになり、想像もつかない一日になってしまったが、見たくない部分ではなかった。これが事件の糸口になればという気持ちもないではなかったが、結び付くわけもないというのが、本音であった。

 翌日、さっそく朝から捜査j会議が開始された。

 辰巳刑事の方からは、これと言った報告はなかったが、山崎刑事の方からの報告があるということだったので、まずは山崎刑事の方から状況を訊くことになった。

「まずは、被害者である三橋晴信が浮気をしていたという相手が判明しました。経理部の女性で、松岡結子という女性だそうです。年齢は三十歳で、経理部に所属しているということです。ただ、この女性、実は殺された三橋以外にも男がいるらしく、どうやらとんでもない女性のようです」

 という報告をした。

「じゃあ、被害者の三橋は裏切られていた可能性があるというわけかな?」

 と辰巳刑事が聞くと、

「裏切られていたというよりも、どっちもどっちですね。松岡結子は結婚をしていないですからね。ただ、今のところ松岡結子が付き合っている男性と言われているのは、被害者の三橋を含めると三人だそうです。彼女は、これまでにもとっかえひっかえだったようで、絶えず三人を相手にしていたという話ですね。つまり、一人と別れると、別の男性を物色し、仲良くなるというわけですね」

「そんなに男好きのするタイプなのか?」

 と清水警部補が聞くと、

「いえ、美人は美人のようですが、彼女は容姿に惹かれるというよりも、甘え上手なところがあって、最初はそんなに気にしていなかった男も、飲み会などで彼女から甘えられてしまうと、コロッと引っかかってしまうそうです。女性が母性本能を擽られる感覚に似ているんでしょうかね」

 と、山崎刑事は答えた。

「他の二人というのは分かっているのかい?」

 と清水警部補が聞くと、山崎刑事は手元の手帳を見ながら答えた。

「ええ、一人は彼女と同じ経理部の課長で、小田切おさむという男です。どうやら、奥さんが恐妻家のようで、癒しを求めていたところ、うまい具合に結子に引っかかったというわけですね。結子という女は決して、相手の家庭に入り込むことはしません、彼女は相手の男性を愛しているというよりも、自分の寂しさを紛らわすために、男と付き合っているような女性です。ある意味男性側としても、詮索もしてこないし、愛情の押し売りもしてこないので、これほどありがたい女性はないのでしょうね。だから、奥さんに対しても、自分の存在が分からないようにしているし、それが彼女も浮気を楽しむことに繋がるのだから、割り切っていると言ってもいいでしょうね」

 と山崎刑事がいうと、

「それじゃあ、愛憎の縺れからこの女が三橋を殺したということはないだろうね」

 と清水警部補が聞くと、

「ええ、それはないと思います。だけど、三橋との間に何か予想もしていなかったトラブル。例えば結子がいきなり別れ話を持ち出したか何かで、逆上した三橋が結子に詰め寄ったり、凶器を持ち出して脅したりなんかしたとすれば、話がこじれて、揉みあうか何かしている間に、間違って刺し殺してしまったというようなことはないとも言えません」

 と山崎刑事がいうと、

「サバイバルナイフのようなもので刺しているんでしょう? だったら、衝動的な殺人というよりも、計画的と言ってもいいんじゃないですか? しかも死体を動かした後もあるわけなので、衝動的な犯罪なら、そこまで一人の頭では考えつかないでしょうね。そういう意味では、共犯がいたのではないかとも思うんですが、ちょっと危険な考えでしょうかね?」

 と、辰巳刑事が言った。

「共犯がいたというのは、面白い考えだね。それだと衝動的な殺人という理屈の、一つ理由になるぁも知れないな」

 と清水警部補は付け加えた。

「彼女が浮気をしていたと言われるもう一人ですが、今度は打って変わって営業部の新人なんです。それも、殺された三橋の直属の部下に当たる人であって、よくも、浮気相手の後輩にこんなにも簡単に手を出せるなと思うほどですね」

「それはありなんじゃないかな? 却って近い人間の方が目につきにくいということもあるからね。だけど、一歩間違えれば修羅場になりかねない。そんな関係かも知れないね」

 と辰巳刑事が言ったが、

「いや、逆にオトコ同士でけん制し合うということもあるんじゃないかな? 男性二人とも、彼女の浮気癖を知っているとして、お互いに自分のものにしたいという意識を持っていれば、自分に対してかかってくる重圧を、男性二人が微妙な距離を保ってくれることで自分は安全圏にいることができる。そんな風に考えているとすれば、相当頭のいい計算高い女ということになるね」

 と、清水警部補は言った。

「本当にオンナというのは恐ろしいな。どこの会社にもそんな魔性の女がいるんじゃないかと思うと、女は信用できなくなっちまう」

 と、辰巳刑事は、本当に嫌気がさしているかのように言った。

「その新人の男性の名前は?」

「斉藤祐也というそうです。年齢は二十三歳だそうなので、大学を卒業してすぐですね。きっと女の方から、甘えるような言葉を言ったんでしょうね」

 と言って、斎藤の写真を見せた、

 すると、それを見て、

「あれ?」

 と反応したのは、辰巳刑事だった。

「この男、どこかで見たことがあるような気がするんだけどね」

 と言って、スーツを着てパリッとした姿は、さすがに新入社員の新鮮さを浮かび上がらせていた。

「うーん」

 しばらく辰巳刑事は悩んでいたが、ふと何に気付いたのか、

「この男……」

「そうしたんだい? 辰巳君」

と、門倉本部長がたまりかねて声を掛けた。

「いえ、この男、若くてサッパリしている写真なので想像もつきませんでしたが、確かにそうです。この間居酒屋「露風」で端の方の席に座っていたあの男ですよ」

 と言って清水警部補に見せたが、

「そうだな、あの時は相当老けて見えた感じがしたが、記憶と写真を組み合わせれば確かにそうだよ。しかも、女将の話では、この男は、殺された男の部下だと言っていたというじゃないか。会社の立場としては間違ってはいないよな」

 確かに、この男は、三橋の直属の部下なので、店で話したことに間違いはないのであった。

「ということは、店の人の話にあったように、あの席に座っていた人は、いかがわしい風俗の回し者で、カモになりそうな客に因縁を吹っ掛けて、悪い気分にさせ、言葉巧みに、他の人が言い寄って安心させ、自分たちの根城へ誘い込んでしまおうという悪特亜やり方の鉄砲玉のようなやつだということになるな」

「ええ、そういうことでしょう」

 と山崎刑事がいうと、

「なるほど、ここで、もしあの女が元締めか何かであれば、犯罪に絡んだことで、三橋が巻き込まれたか何かかも知れないな」

 と清水警部補がいうと、

「三橋も同罪じゃないんですか?」

 と辰巳刑事が聞くと、

「そうでもないと思いますよ。やつには、そんな組織に関わっているという雰囲気はなさそうだが、斎藤はまさにチンピラ風と言っていいかも知れないからな。三橋がどんなにすごんで他の客に因縁を吹っ掛けたとしても、返り討ちにあうのが関の山ではないかと思うほど、華奢だし、根性もないというウワサですね。やつができることといえば、奥さんにバレないようにしながら、浮気を継続させていくという程度のことなんだろうな。ということは、あの女は。浮気相手をたくさん持っているのは、半分は悪事の手先として利用するために隠れ蓑として、他の男性に手を出しているとも考えられなくないんじゃないかと思うんだ。その隠れ蓑が、三橋だったんじゃないかな?」

 と清水警部補は言った。

「そういうことdったんですね」

 と言って、調べてきたはずの山崎刑事が感心したように言ったが、まさか山崎刑事も、そんな怪しい風俗が絡んでいるなど思いもしなかった。

 しかも、

「そんな子供だましのような手に大の大人が引っかかるなどありえない」

 と言わんばかりに感じているのは、山崎刑事だった。

 辰巳刑事が、

「勧善懲悪の熱血漢」

 なら、山崎刑事は、

「絶えず仮想敵を持って、ライバル意識を持つことで、お互いに切磋琢磨していくことで向上する」

 という考えを持っているだけに、辰巳刑事と共通点はあるのだ。

 だが、絶えず仮想敵を持っているということは裏を返せば、いつも自分が孤独であるということを意識している証拠であり、どうかすると、孤独に押しつぶされそうになる自分を、たまに、

「鬱病ではないか?」

 と思うこともあるくらいだった、

 さすがに健忘症を伴っているわけではないので、あくまでも気のせいだと感じることですぐに元に戻るのであるが、山崎刑事の将来性を一番買っているのは、清水警部補であった。

 彼には、人に負けたくないという闘争心があり、そのためには、人よりもたくさんの努力という感情が表に出ることで、時として予期せぬ手柄に繋がる時がある。

 彼はそれを決して驕ったりはしない。

「欲がない」

 といえば、それまでで、人との闘争心があるわりには、欲がないので、その闘争心を見抜く人はあまりいない。

 ライバル視されている辰巳刑事はさすがに分かっていて、却って自分にライバル意識のないことが気になるほどであった。

 二人が共同して事件解決につながったことも結構あり、それを山崎刑事に手柄を渡そうとまで思ったくらいだったが、よくよく考えると、ある意味プライドの塊りのような山崎刑事が喜ぶはずもない。逆に鬱病にでも叩きこんでしまいそうで、考えを改めたことがあった。

 そんないかがわしい風俗がこの世に存在していることに人一倍の憤慨があった。

 そもそも、彼が警察官を目指したのは、友達のお兄さんが、悪徳金融に引っかかって、借金を作ってしまい、家族を残して自殺してしまった。その友達の一家はそれをきっかけに生活能力を失ってしまい、父親は病死、母親は気が触れてしまったということで、病院へ入院、友達は非行に走り、そのまま組事務所に入ってしまった。

 そんな悲惨な家族を中学時代に見てしまったことで、

「この世から、人を食い物にするような団体を撲滅することを目的に警察官になりたいんだ」

 と言って、それから勉強をして、警察官にやっとなれたという次第である。

 もちろん、キャリアというわけにはいかず、普通に警察学校から、巡査を経ての、刑事拝命であったが、今までの自分を振り返って、後悔などどこにもなかった。

 これからも、後悔などしたくないと思うのは、自分が後悔してしまうと、友達の家族のような家庭が増えてしまうというのを感じるからだ。

 中学時代に見てしまった悲惨な家庭、思い出すと活力が湧いてくる。負の遺産を背負っての今の職業であったが、それだけに絶えず気のゆるみは許されないと思っている。その感情が、ライバル視であり、仮想敵の創造であった。

 とりあえず、今度の事件がどのように推移するかまだ分からないが、ここに怪しい風俗のようなものが絡んでいると思っただけで、かなりきつい憤りを感じている。この思いは自分が警察官になろうと思った家族が見舞われた悲劇に似てはいないか。

「この俺の手で、そんな組織は叩き潰してやる」

 とばかりに、山崎刑事はいきり立っていた。

 本当はあまり興奮してはいけない場面ではあるが、山崎刑事の場合は仕方のないところがある。

 うまくそのあたりのコントロールができるとすれば、清水警部補くらいであろう。

 この事件の肩をつけるのが誰になるかは別にして、そのカギを山崎刑事が握っているのは確かなのかも知れない。

 すると、そこに一人の警官がやってきて、門倉本部長に耳打ちをした。

 それを聞いた門倉本部長は顔色を変え、意表を突かれたように一瞬ポカンとなって、虚空を見つめたが、次には、まるで苦虫を噛み潰した科のように、歯を食いしばった表情になった。

 その言葉は二言ほどであったが、その様子を見ていた捜査員たちは一様に長い時間を感じていた。それだけ、門倉本部長の表情が不思議な感じだったのだろう。

「そうか、分かったお通ししてくれ」

 と、門倉本部長は伝言を持ってきた警官に次げると、警官は、

「はっ」

 と言って敬礼すると、まるで軍隊更新をしているような踵を返すと、部屋から出ていった。

 一瞬にして、捜査本部に緊張が走ったが。

「本部長、何があったんです? 通せということは誰かが訪ねてきたということでしょうか? まさか、犯人が自首でもしてきたわけではないですよね?」

 と辰巳刑事が聞くと、

「いや、そういうわけではないが、私にとっては、意外な訪問者なので、少しビックリしたんだが、一緒にその人を伴ってくるという人物に対して、何か挑戦を受けているかのように思えたんだ。もっとも、これは私の感情なので、皆はまた違ったイメージを持っているかも知れないがね」

 と門倉本部長は言った。

 そう言っているうちに、一人の女性が部屋に向かって一礼をしている。実に質素で目立たない服装なので、一瞬、高校生の女の子かと思ったくらいだった。だがその後ろに控えているのが、自分たちにとって馴染みのある人だったことが、

――なるほど、門倉本部長の「挑戦」という言葉はここから来ているのかも知れないな――

 と思った。

 その人物は制服警官であり、いつもの馴染みのその人は、昨夜も会っている長谷川巡査だった。

 そう思って、長谷川巡査が伴って現れたその少女、明らかに見覚えがあったので、よく見ると、その娘は、居酒屋「露風」のお美紀ちゃんであった。

 この中では山崎刑事だけが馴染みがないだけで、他の三人には昨夜も会っているだけに馴染みがあった。

 この状況、何から攻めていいのか分からずに、まずは清水警部補が、

「まあ、こちらにおいでください」

 と言って、二人を部屋に招き入れた。

 二人はもう一度一礼し、恐縮しながら、お美紀ちゃんは一度長谷川巡査を見つめたが、長谷川巡査が頭を一度下げると、意を決したかのように覚悟を決めて、部屋の中に入ってきた。

「長谷川巡査とお美紀ちゃんという組み合わせはさすがにビックリしたけど、今日はどうしたんだい? お美紀ちゃんが何か今回の事件で、何かを証言してくれるというのかな?」

 と、清水警部補が聞くと、その答えを長谷川巡査が口にした。

「実は、本日、K警察署に二人で寄らせていただいたのは、ここにおりますお美紀ちゃんの被害届を提出するためにやってきました」

 と、これも意外な話をいうではないか。

「被害届?」

 と辰巳刑事が聞いたので、ここから先を当の本人であるお美紀が長谷川巡査から引き取る形で話し始めた。

「ええ、実は私、昨年暴行されそうになったんです。時期としては、今から一年くらい前だったかも知れません。場所はこの事件のあった例のガード下でした。実はあそこはよくひったくりや暴行事件が起こるということで有名な場所で、私も危なかったんですが、ちょうど通りかかった長谷川さんに助けていただきました。本当はその時に、警察に届けなければいけなかったんでしょうが、未遂だったし、私が家族や学校に知られたくないという理由から、長谷川さんにこのことは他言しないように私から頼みました」

「じゃあ、知っているのは長谷川君だけなのかな?」

 と清水警部補が聞くと、

「いいえ、露風の女将さんも知っています。知っていて、私の意見に従ってくれたんです。当時私はまだ女子大生でもありましたし、本当をいえば、もし警察に届けて、その人が逮捕されて、私が法廷に立たなければならなかったり、証言を強要されるようになるのが急に怖くなったんです。裁判になって、その人が有罪になったとしても、暴行だったら、すぐに出てくるとでしょう? もっともあそこは犯罪が多発していたので、被害者は私だけではないと思っていたのですが、他の人も同じ理由で被害届を出していなければ、私が告訴の首謀者のようになって、犯人がもし逆恨みをするとすれば私に向いてしまいます。そうなると。誰が私を助けてくれるというのでしょう? そう思うと怖くて怖くて、とても被害届など出すことはできませんでした」

 と言って、涙を浮かべていた。

 横で聞いていた長谷川巡査は、肩を抱くようにして、お美紀ちゃんを支えていたが、

「私はこんなちょっと触っただけでも折れてしまいそうな彼女を見て、とても、被害届を出してほしいなんて言えませんでした。警察官がいくら逆恨みがあるかも知れないと分かっていても、四六時中彼女を守り続けるのは不可能なんです。それは巡査である自分が一番分かっています。だから、いけないことだと思っていたんですが、お美紀ちゃんの意志を尊重し、私が守ってあげようと決めたんです」

 と長谷川巡査はハッキリとした口調で語った。

「じゃあ、今日はどうして意を決したかのように、被害届を提出に来たんだい?」

 と清水警部補に訊かれて、

「ええ、お美紀ちゃんが、被害届を出したいと言い出したんです。お美紀ちゃんがいうには、今回の殺人は、自分が黙っていたことから起こったことではないかというんです。私や女将が、それは違うと言っても、お美紀ちゃんは聴きませんでした」

 と長谷川巡査がいうと、

「私は、これまで弱虫だったんです。長谷川さんや女将さんに私の気持ちを尊重させていたのに、当の私は、黙っていることが次第に苦痛になってきている感じがしてきました。それは罪悪感なのか、二人に甘えている自分を責めている自分がいるのも感じていたんです。そんな時、あの場所で人の死体が発見された。しかも、話を訊いていると、他で殺されてあの場所に運ばれたというではないですか。ただあの場所で殺されたということよりも、他で殺されてあの場所に運ばれたという方が、私にとっては、数倍気持ち悪く感じられたんです。以前の事件を私は自ら隠してしまって、未解決のままにしてしまったことで、ひょっとすると、今回の事件が起こったのではないか、なんて思うと、いてもたってもいられなくなったんです」

 と、お美紀ちゃんが言った。

 すでにお美紀ちゃんは震えていない。

 昨日迄は目立たない地味な女の子だと思っていた。そしてこの部屋に入ってきた時、誰なのかすぐに分からなかったくらいの印象の薄さに、どうリアクションしていいのか迷っていた捜査員たちだったが。今は明らかに自分の決意を漲らせたお美紀ちゃんを見ていると、次第に自分たちの警察官魂が擽られてくるのを感じた。

「よし、この娘のためにも、事件を解決に結び付けないといけない。お美紀ちゃんはそれだけの覚悟を私たち捜査員に示して、事件の解決を懇願しているに違いない」

 と感じたのだ。

「じゃあ、被害届を提出に行ってきたんだね?」

「ええ、提出の時効までにはまだ時間がありましたのでね。それに今提出に行ってくると、同じ時期にやはり数人から被害届が提出されていたようで、捜査の方も進んでいるということでした。そういう意味で、彼女の未遂事件での被害届がどれほどの効力を持つかは分かりませんが、これで少なくとも、お美紀ちゃんと女将さんが救われた気がするんですよ」

 と長谷川巡査がいうと。

「君もだね」

 と言って、辰巳刑事はニッコリと笑って、長谷川巡査の労をねぎらった。

「大変だったね。ご苦労様」

 という門倉本部長の言葉を聞いて、さすがの長谷川巡査も目に涙を浮かべているようだった。

 だが、実は話はこれだけではなかった。

「ありがとうございます。これで私の肩の荷も下ろせる気がしてきました。ただ、本日この捜査本部にお邪魔しましたのは、実は、この事件の被害者の本当の殺害現場となる場所が分かるかも知れないという思いでやってきました」

 と長谷川巡査は、改めてキリっとした表情を浮かべ、真面目にそういった。

「おい、それは本当か?」

 と辰巳刑事が叫んだ。

 その叫びは、驚きと歓喜の声であったのは言うまでもない。

 犯行現場の特定は、明らかに事件の真相に近づく一番の近道だということは、皆の意見の一致でもあった。

 だから、ここにいる全員が色めき立ったのは、いうまでもなく、一番興奮したのは、最初に、

「ファイブオクロック」

 を口にした辰巳刑事だったのだ。

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