第6話 卑怯なコウモリ

 長谷川巡査は、ある日の警備中、K市の中でも、少々大きめの公園を巡回していた。あれはまだ夜でもさほど寒くなく、むしろまだ暑かった頃ではなかったか、時期としては九月の中旬くらいの、月の綺麗な頃だった。

 今年は連年に比べ、梅雨が遅かった。梅雨入りが六月の終わり頃だったので、梅雨明けが七月下旬という、本来なら暑さがピークになりかかる頃にやっと梅雨が明けた。

 そのせいもあってか、夏の厚さはかなりのものだった。短い間に灼熱の太陽が押し寄せ、セミの声も精いっぱいに響いていて、九月に入っても、最高気温がまだ三十三度以上もあるというひどさであった。

 それでも、九月の声とともに、台風が日本列島を、これでもかと襲った。一週間に二つの台風など当たり前で、地図上に三つの台風がひしめくような状態になり、一つは勢力が落ちないまま、九州から中国地方に上陸し、その猛威から、かなりの傷跡を残していった。

 そんな被害に遭った地方の復興に、灼熱の太陽が襲い掛かってくることを想像していたが、なぜかその台風が暑さまで吹き飛ばしてくれたかのように、一気に気温が下がり、細網気温が二十八度くらいの過ごしやすい日々に戻った。

 そもそも、九月の中旬というと、これくらいが例年の気温ではないだろうか。暑さのピークが終わると、完全に秋めいてきた。あれだけうるさかったセミの声は聞こえなくなり、夕方近くになると、スズムシヤコウロギと言った、秋の虫が、静かさを奏でているようで、風が少々強い日でも、心地よかった。

 夕方の風のない時間帯である、

「夕凪の時間」

 その時間には、一年ぶりとは思えない心地よい空気を味わっていたにも関わらず、気だるさが残るようになったのはなぜだろうか?

 最近、これと言った大きな事件も、あまりなかったこともあってか、身体がなまっているのかも知れないと思っていた長谷川巡査は、

「平和が一番なのに、何を不謹慎なことを考えているんだ?」

 と思いながら、一人でほくそ笑んでしまっていたが、その日の夕凪の時間には何もなかったその公園で、夜の十時ごろに巡回すると、一台の自転車が、公園のベンチの近くにひっくり返っているのが見えた。

「うっ、うーん」

 という声と、何やら男たちがヒソヒソ話をしているのが聞こえたが、そのヒソヒソ話は、お互いに何か慌てているようにも聞こえた。

 最初に聞こえたうめき声が女性であるのを感じると、何が起こっているのか、ウスウス気付いた長谷川巡査は、取るものもとりあえず、

「こらっ、そこで何してる」

 と言って、飛び出していくと、チンピラ風の男二人が上半身裸になっていて、そこに脱ぎ捨てたセーターを拾うのも忘れて、急いで逃げ出した。

 二人の男は、その先に止めてあった車に飛び乗り、急いでエンジンをかけて、逃走していった。

 一部だけであるがナンバーを確認できたのがよかったかも知れない。二人が脱ぎ捨てて行ったセーターから、二人の身元が後になって分かったのだから、ある意味長谷川巡査のお手柄ではあった。

 だが、その時は、そのけしからん輩に襲われていた女の子も、上半身のTシャツはめくられていて、急いで身体を隠そうとっして震えている女の子は、恐怖からか、Tシャツを着るということさえ頭が回らないようだった。

 幸い、けがもなく、男たちの行動は未遂に終わったので、事なきを得たというべきなのだろうが、その子はそれからショックが大きくて、しばらく声が出なくなってしまった。

 交番に連れていき、所轄から刑事がやってきた。

 被害届が出されて、捜査が行われ、犯人の二人組は逮捕されたが、裁判になると、お決まりのように、被害者側との間に示談が成立し、裁判までには至らなかった。

「どうしても、襲われた方が、立証しなければいけなかったり、理不尽な尋問であったり、何よりもこのことが世間に晒されることで、彼女の将来を思うと、示談にするよりほかにはないということなんだろうな。未遂ということでもあるので、このまま訴えたとしても、執行猶予がついたりして、被害者側のリスクの方が大きすぎるので、泣き寝入りしかないのかも知れないな」

 と、その時取り調べた刑事は、やり切れない気持ちをどこにぶつけていいのか分からないという表情だった。それは、もちろん長谷川巡査も同じで、いや、長谷川巡査の方が、現場を見ているだけに、許せない気持ちが強かったのだ。

 さらに、長谷川巡査を苛立たせる状況が、その頃から増えてくるようになる。

 例の今回三橋の死体が発見されたあのガード下で、彼女の示談が成立してから少しして、暴行未遂事件のようなものが頻発してくるようになる。

 実際に被害に遭って、訴えるまではないほどの中途半端なものばかりであったが、件数としては、一か月に一件は必ず何かしらが起こっていた。

 抱き着かれて、服を破かれたり、押し倒されて、胸を開けさせられたりであるが、それ以上のことをしようとはせず、急いで走り去っていくのだ。

 さらに、暴行未遂だけではなく、ひったくりも多い。ただ、これも半分未遂と言ってもいいのか、ひったくったとしても、財布の中からお金を抜き取るだけで、カバンやカード、その他には一切手を付けていない。何とも子供だましのような犯行ばかりであるが、許されることではなかった。

 犯人は中途半端な犯行を繰り返すので、証拠を一切残していない。

「まるで犯行を実行するというよりも、証拠を残さない犯行を行うことが目的だとでも言わんばかりの犯行だな」

 と、窃盗や暴行専門の捜査員は、まるで自分たちが犯人から無能呼ばわりされているかのようで、虫の居所が悪かった。

 確かに、これらの犯行は警察を愚弄しているとしか思えない。犯行という意味ではすべてが未遂で、目的を達成しているわけではないのに、なぜこんなにも頻繁に犯行を繰り返すのか?

 これだけのことで彼ら……、すべてが同一犯ではない可能性と、同一犯であっても、証拠を残さない手口といい、複数犯の可能性があるという意味で、彼らの犯行の目的は一体何なのか、まったく見当がつかない。

 本当に警察を愚弄するのが目的で、今頃、無能な警察を嘲笑っているのであろうか。実に不思議だった。

 犯行現場もほとんどが、あのガード下がほとんどで、長谷川巡査も、あのあたりの見回りには毎日気を遣っている、K署の方からも捜査員が日に何度か見回っているが、最近、その数が激減していたことで、見回りの数も減らしたところだった。

 それなのに、まさかあの場所から死体が発見されるというのは、ある意味一番驚いているのは、長谷川巡査だったのかも知れない。

 ただ、長谷川巡査は、あの時、死体が発見された時、このあたりに最近暴行事件が多いという話はしたが、詳しいことは何も話していない。

 これでは、皆話をすべて聞いた気になって、わざわざ暴行、窃盗専門部署に聞きに行くことはないだろう。

 まさかそれを見越しての報告であれば、長谷川巡査は何を考えているというのだろう?

 もし、この時、居酒屋「露風」で、長谷川巡査を見かけなければ、そんな発想になることもないだろう。

――長谷川巡査は何かを隠しているのかも知れないな――

 と辰巳刑事は感じたが、そんなことを感じたのは辰巳刑事だけに違いない。

 さっきまでの表情とは明らかに変わった長谷川巡査はいつもの表情に戻っていた。

 しかし、辰巳刑事や清水警部補が目の前にいても、自分から話しかけようとは決してしなかった。

 長谷川巡査は、店に入ってきたお美紀ちゃんとずっと話をしているようだった。

 そんな時、ふと聞こえてきた話に辰巳刑事は耳を傾けていたが、それは、辰巳刑事が最近、どこかで聞いた話だったので、興味をそそったのだ。

 最初は、ありきたりの挨拶のような話だったが、

「面白い話をしてあげようか?」

 と言ったのを耳にした時、辰巳刑事は何かにピンときた。

「刑事の勘」

 というものなのかどうか分からないが、気が付けば聞き耳を立てていた。

「お美紀ちゃんは、『卑怯なコウモリ』という話を訊いたとこがあるかい?」

「いいえ、どんな話なんですか?」

「それはイソップ物語の中にある話なんだけどね。これが僕は結構好きな話なんだよ」

 と、言って長谷川巡査は一口、目の前にあった日本酒の入ったコップを口に運び、ゴクリと一口飲み込んだ。

 辰巳刑事はいよいよその話に聞き耳を立てた。

――イソップ物語の卑怯なコウモリの話だったら、知っているぞ――

 と思ったのだ。

 大学の時に聞いた話だったので、半分忘れかけていたが、長谷川巡査がどういう話し方をするのかに興味があった。それによって、お美紀ちゃんという女の子の解釈能力も図れるというものであるからだ。

 最初に聴いた時は、結構面白い話だと思ったので、しばらく忘れなったのと、自分も物知りだということを人に知らしめたくて、自分でもネットで調べて、より正確な内容を理解したうえで人に話をしていたのだが。あれから何年も経っていて、この話をする人もいなかったので、どれだけ自分の頭の中で把握して覚えて居られるか、実際には甚だ疑問だった。

 だが、目の前にいるお美紀ちゃんと見ていると、その好奇な目がまるで最初にその話を訊いた時の自分の目と同じだったのではないかと思うと、きっと彼女なら、自分よりも、解釈能力のすごさを発揮してくれるのではないかと思うのだった。

「このお話はね。まぜ獣の一族と、鳥の一族のどちらが強いかということで戦争をしていたというところから始まるんだけどね、その様子を見ていた一羽のずる賢いコウモリがね、獣の一族が有利になると、獣の前に姿を現して『自分は全身に毛が生えているから、獣の仲間です』というんだ。でも、鳥の一族が有利になると、鳥たちの前に姿を現して、『自分は羽があるので、鳥の仲間です」 というんだよ」

 というと、お美紀ちゃんは興味深げに頷いて

、「うんうん」

 と、長谷川巡査を凝視していた。

 その話を訊いていた、他の四人も、いつの間にか話をやめて、長谷川巡査の話に耳を傾けていた。

 そのことを長谷川巡査が気付いていたのかどうか分からないが、長谷川巡査はお美紀ちゃんだけを見て、得意げに話を続けた。

「その後なんだけどね。鳥と獣が和解したことで、戦争は終わったんだけど、幾度もの寝返りを繰り返し、双方にいい顔をし続けたコウモリは、鳥からも獣からも嫌われて、仲間外れにされてしまうんだ。『お前のような卑怯者は二度と出てくるな』と双方から追いやられて居場所がなくなったことで、やがてコウモリは暗い洞窟の中に身を潜め、夜だけ飛んでくるようになったというお話なんだ」

 というと、お美紀ちゃんは、その話をすぐに理解したようで、

「そうやって、何度も人を欺いていると、やがて誰からも信用されなくなるというお話のようね。まるで『オオカミ少年』のお話に似ているような気がするわね」

 と、お美紀ちゃんは言った。

「そう、その通りなんだよ。でもこうやって話を訊くと、なるほど確かにコウモリって、暗い洞窟にいて、夜の誰もいなくなったところでしか出てこなくなったよね。その理屈もうまく説明されているという意味では、すごいお話なんだなって、僕は思うんだ」

「うんうん、本当におとぎ話ってすごいわね」

 とお美紀ちゃんがいうのを聞くと、

「じゃあ、お美紀ちゃんね。同じコウモリの話でも、もう一つ違う話がイソップ物語の中にあるんだよ」

 という長谷川巡査の話に、

「へえ、そうなんだ。それも聞いてみたいな」

 と、興味はさらに沸き上がったようで、すでに頂点に達しているのかも知れない。

「そのお話は、『コウモリとイタチ』というお話なんだけど。千綿に落ちたコウモリはイタチに捕まって命乞いをすると、イタチは、「すべて羽のあるものと戦争をしているので、逃がすわけにはいかない」というんだけど、自分は鳥ではなく、ネズミだと言って、放免してもらうんだ。しばらくして今度は別のイタチに捕まるんだけど、今度はネズミが皆仇だっていうんだ。そこでコウモリは自分はネズミではなく、コウモリだと言って、またも危機から逃れるんだよね」

 とH瀬川巡査がいうと、

「うんうん、さっきのお話と似ている感じなのね?」

 とお美紀ちゃんがいうと、

「そうなんだよ、でもね、ここからが少し違うんだけど、解釈する人によっては、『状況に合わせて豹変する人は、しばしば絶体絶命の危機から逃れることができる』という教訓だということで、同じところにいつまでもとどまっていてはならないという教訓にもなるんはないかという話でもあるんだ」

 と長谷川巡査が諭すように言った。

 それを聞いていた四人は、

「うんうん」

 と頷きながら答えていたが、きっと理解したというよりも、自分たちの経験に照らし合わせて、感じたと言った方が正解なのかも知れない。

 お美紀ちゃんも、

「なるほど、確かにそうかも知れない。同じ内容のようでも、どちらで解釈するかによって、その時々の考え方が違っているということでもあるし、別の人が考えただけでも、どちらを考えたとしても、どっちが正解ともいえないことなのかも知れない。それこそ、臨機応変に考える必要があるということになるのかしらね?」

 という話をしたことで、

――分かってくれたんだ――

 と思った長谷川巡査は、感無量に感じたのか、有頂天になった表情をしていた。

「悦に入った表情」

 とはまさにこのような表情んpことなのかも知れない。

「それに、コウモリを題材にした類似のお話がオーストラリアに残っているというのを訊いたことがあったんだけど、残念ながら忘れちゃったんだよね。調べてみるといいかも知れない。確か太陽が関係していたような気がするんだ。これも興味深い話だったような気がする」

 と長谷川巡査は言った。

 長谷川巡査としても、このオーストラリアの話をまったく忘れてしまったわけではないが、中途半端に話して勘違いさせるよりも、最初から自分で調べるという気持ちになってもらった方が、変な先入観を持たずにいいのではないかと思ったのだ。お美紀ちゃんも長谷川巡査のハッキリとした話でなければ、聞きたくないように思っていたし、長谷川巡査であれば、ハッキリとしない内容を話すこともないことが分かっているだけに、きっと近いうちにこの話を調べるに違いなかった。

 他の四人の中で一番この話に興味を示していたのは、辰巳刑事であった。

 辰巳刑事は今までに何度も示しているように、

「勧善懲悪の熱血漢」

 を絵に描いたような警察官であった。

 そんな人に、「卑怯なコウモリ」の話は、心を大きく打つものであった。

 逆に、「コウモリとイタチ」の話の方は、どちらかというと、上司がバカを見る時、悪い部分ばかりを見るわけではなく、いい部分を見出して、そこを伸ばしてあげるという上司のあり方を示したような話であることから、門倉本部長と、清水警部補は、こちらの話に夢中になり、感心したかも知れない。

 しかも。長谷川巡査のうまいところは、先に「卑怯なコウモリ」の話をすることで、余計にその後にした「コウモリとイタチ」という話が大きくクローズアップされ、上司には強く心に響くことになったのだ。

 もっとも、この話は上司に対してのものではなく、あくまでもお美紀ちゃんに対しての話であるので、この順番が最適であった。そういう意味でいって、この順番以外には考えられないとも言えるかも知れない。

 そんな中、女将さんだけは違う思いで聴いていたようだ。他の警察官たちは、自分の仕事と立場に置き換えて聴いていた。もちろん、その聞き方が一般的なのだろうが。女将さんとすれば、

「どうして、今この話をここでするの?」

 と言わんばかりの様子に見えたのを感じたのは、話をしている当の本人である長谷川巡査だけだった。

 お美紀ちゃんを含めた他の人たちは、この時話に夢中で、自分以外の人を意識できていなかったのかも知れない。だが、話をしている長谷川巡査は、聞いてくれている人たちの反応を見ていたのは確かで、話をしていて絶頂な気分になっていたのは事実だが、冷静な気持ちも忘れていなかった。

 これが、長谷川巡査の最大の魅力であった。

 彼は、本当なら刑事課に呼ばれてもまったく不思議のないくらいの優秀な人材だった。実際に刑事課に推挙もしてもらっていたし、その機会も今までにはあっただろう。だが、水面下で進められた話としては、

「長谷川君は、もう少し現場の最前線で」

 という話が刑事課の方から出ていた。

 ただ、それは決して受け入れられないという意味ではなく、むしろ彼のような男が入ってくれればありがたいのだが、そうなると、交番勤務の巡査に大きな穴が開いてしまう。つまり長谷川巡査が刑事課に引っ張られてしまうと、困るのは、現場だったのだ。

 現場でも人が育ってきて、刑事課の方でも、辰巳刑事や山崎刑事のような人たちが、立派な先輩として警部補などに昇進してくれれば、いずれはというのもあるだろう。

 だが、刑事課の方では、後一年を基本に考えていたようだ。

 あと一年すれば、長谷川巡査を刑事課に誘うというのが、水面下で決定していて、もちろん、その話は一部の人だけの極秘事項であったのだ。

 もちろん、長谷川巡査がそんなことで腐ることがない人間だということが分かっているので、安心している人事の人たちだったが、やはり長谷川巡査には、悪いという気持ちがあるのか、巡査としては、最高級の給料や、待遇に恵まれていたのだった。

 刑事課の人たちからも、長谷川巡査に対しては、大いに敬意を表していて、

「早く一緒に捜査をしたい」

 と言ってくれている刑事も結構いると聞いている。

 K署にはいろいろな部署があるので、刑事課だけではなく、刑事課であったり、生活安全課などでも、長谷川巡査のような人がほしいという話も出ている。今、K警察署では、長谷川巡査というと、

「時の人」

 ということになっているようだった。

 長谷川巡査も、K警察署内では、結構知ってくれている人が多いとは思っていたが、そこまで絶賛されているとは思っていなかった。

 そういえば、長谷川巡査がニコニコしている時の顔以外を知っている人はほとんどおらず、少なくとも、

「公私混同はありえない人だ」

 と思われていたのだ。

 だから、K警察署でも、市民の間からも信頼される人間として、君臨しているといえば大げさであるが、慕われていることに違いはない。

 それを思うと、最初にこの店に辰巳刑事たち一行が来た時に垣間見えたあの時の長谷川巡査の表情は実にレアなものだった。

――あんな長谷川巡査、誰も見たことがないんじゃないか?

 と思っているに違いないが、果たしてそうなのだろうか?

 長谷川巡査は、お美紀ちゃんの様子から見る限り、このお店では常連のようである。

 それなのに、最初自分たちが来るまでは、この店には女将と長谷川巡査二人きりだったはずなのに、誰も見たことのない表情の先ほどの長谷川巡査とでは、女将も息が詰まりそうだったのではないかと思えたが、実際にはそうではなかった。

 女将と二人だけの時、長谷川巡査は、いつもあんな表情をしているのでなければ、もし、刑事である自分でも、普段の天真爛漫さを知っている相手に対し、あのような態度であれば、息が詰まりそうになるのはわかりきっていることだった。

 それであれば、あのような長谷川巡査の表情を見慣れていなければ、いくらお店を切り盛りしているとはいえ、息苦しさから逃れることはできないのではないかと辰巳刑事は感じていた。

 それに辰巳刑事が感じた違和感は、

――さっきのコウモリ関係の話を訊いている時、女将さんだけは、他の誰とも違った顔をしていた――

 と感じた。

 きっと、客に正対した時であれば、してはいけないような表情をしていたに違いない。そこには苦悩の色があり、何か迷いのようなものも生じていたような気がする。事情が分からないだけによく分からないが、長谷川巡査が今この場で話すような話ではないという思いを抱いていたのだろう。

 それを思うと、辰巳刑事は、長谷川巡査と、女将の顔を交互に見直すくらいの意識を持っていて、それを後ろで見ていた清水刑事にその異様な行動が分からないわけもない。

 ただ、長谷川巡査の話を我がことのように聞いていたため、集中力はすべて話にいっていた。そのことで、辰巳刑事が気にしていることに対して、一歩も二歩も後手に回ってしまっていた。

 清水警部補くらいになると、自分が一歩でも後手に回ってしまうと、前に行くにはかなりの時間と再度の集中力が必要であるということが分かっているので、いろいろ考えさせられたのであった。

――それにしても、この勧善懲悪な熱血漢が、話に夢中にならないはずはないのに、よく他の人に気が回ったものだ――

 として、この意外な事実に感心以上のものを感じていたのだった。

 だが、辰巳刑事も清水警部補も、

――どうして長谷川巡査がこんな話を始めたのだろう?

 ということや、

――女将さんが、なぜ自分たちと違うリアクションを示していたのか?

 ということでは共通していた。

 話に夢中になっていた清水警部補ではあったが、女将を気にしているのは、辰巳刑事と違った意味であり、それは彼女に好意を寄せている立場での気にしている感覚だった。だから辰巳刑事とは違い、無意識に近いものだった。だから、辰巳刑事のように、女将に対して違和感を感じていなかったのだろう。

 その場において、清水警部補は、次第にいつもの自分に戻りつつあるということを意識していたのだ。

 この時には分からな方が、長谷川巡査に対して、辰巳刑事の感じたことと、清水警部補が感じていたこととでは、違った発想を持っていた。

 しかし、違ってはいるのだが、この事件に大いに関係のあることではあった。だが、この事件というのは、

「三橋という男が昨夜殺害された」

 ということに直接関係があるかと言われると疑問であった。

 そういう意味では、長谷川巡査の存在は、

「却って事件をややこしくした」

 と言えるかも知れない。

 だが、女将と長谷川巡査の間で、何かお互いに共通の思いがあることに清水刑事は気付いていた。それが何なのか、まったく想像はつかなかったが、この時点のこれだけの情報で分かるはずもなく、捜査を三橋への殺害事件に絞ってしまうと、分かるものも分からないかも知れなかった。

 長谷川巡査は、故意にそういう行動をとっていたのかも知れない。相手は、辰巳刑事、清水警部補、門倉本部長という、百戦錬磨の相手である。下手なことではすぐに勘繰られてしまう。

「うまく立ち回って、この三人をそれぞれに利用するくらいのことでもなければ難しいかもな」

 と、長谷川巡査は考えていた。

 長谷川巡査としては、

「ひょっとすると、三橋という男の殺害事件というのは、思っているよりも簡単なのかも知れない」

 と、さえ思っていた。

 ただ、今はまだ事件が発生してからすぐなので、情報があまりにも乏しいことで、犯人が絞れないどころか、犯人を絞るための人間関係すら分かっていないではないか、そちらの方の捜査は山崎刑事の方で行っている。

 確か殺された三橋は、会社で不倫をしていたという話ではなかったか。奥さんも分かっているかのようだし、そのあたりから胡散臭い感覚がプンプンする、意外と、単純な事件なのかも知れない。

 ただ、長谷川巡査とすれば、殺された三橋がいたことは、

「余計なことを」

 という感じが否めないわけでもない。

 本当はこの店に入ってきた時にしていた長谷川巡査の今まで誰も見たことのないようなあの難しい顔は、どこかやり切れない気持ちが含まれていた。

 本当は普段からそんな気持ちを抱いているのかも知れないが、それを表に出さないようにしていたのだとすれば、彼自信が百戦錬磨の海千山千なのかも知れない。

 先ほどの、

「卑怯なコウモリの話」

 一体誰にしたかったのだろう?

 直接話しかけたのはお美紀ちゃんなので、お美紀ちゃんに言いたかったのは間違いないのだろうが、それ以外に誰かいたとすれば、長谷川巡査は、

「お美紀ちゃんには鳥だといい、もう一人の伝えたい相手には。自分は獣だという意味で話をしていたのかも知れない」

 と辰巳刑事は感じた。

 人に対して同じ話をしていても、直接している相手と、その人に訊かせたいのだが、聞かされているということを他人に感じさせたくないと思っている時、そんな時こそ、

「二つの勢力の中をうまく立ち回っているコウモリのようではないか」

 と言えるのではないだろうか。

 そう思うと、やはり言いたかった相手は女将しか考えられない。長谷川巡査と女将の間、そして長谷川巡査とお美紀ちゃんの間に何があるというのか、辰巳刑事は考えていた。

 清水刑事の方は、今度の三橋の事件と、今の長谷川巡査の話の間に、何かのヒントがあるのではないかと思っている。その時に感じたのが、

「長谷川巡査は、自分が相手に対して味方だと思わせることで、状況を一変させて、自分たちの都合のいい方に引きこもうとしている。しかし、だからと言って、長谷川巡査や、女将、あるいはお美紀ちゃんの私利私欲によるものではない」

 という思いがあった。

 そこに、表裏比興の者と評された、戦国大名である真田昌幸を思い出したのだった。

 清水警部補にしても、辰巳刑事にしても、長谷川巡査がこの時にわざと皆に聴かせるようにした、

「卑怯なコウモリ」

 の話は、誰のためにするという意味とは別に、関係者が一堂に介しているこのタイミングが一番よかったのであり、このタイミングしかなかったということで、このタイミングを神様が作ったのだとすれば、長谷川巡査はこの時ばかりは、神様を信じていたに違いない。

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