第5話 長谷川巡査

 三人が居酒屋「露風」の前に来た時は、昨夜同様すでに日は落ちていて、店の前の赤提灯が目立っていた。

 目立ってはいたが、いかんせん、寂しいところなので、その色は濃いものであり、影を帯びた赤い色は、とても影を作れるほどの明るさではなかった。

「満天の光り輝く星々というのは、そのほとんどは、自分から光を発する恒星か、あるいは、恒星の光を浴び、反射することで光っている惑星、衛星である。しかし、その星々の中には、自ら光を発することのない星があり、すべての光を吸収すると言われている。それは邪悪な星であり。その星が近づいてきても、誰も分からない。そんな星も無数にあると言われているのだ。それを『暗黒星』と名付けた学者がいたという」

 その時の赤提灯を見た時、門倉本部長はその言葉を思い出した。

「そういえば、今まで捜査員として事件に向き合っていて、この「暗黒星」のような邪悪な犯人が何人もいたではないか。まさしく邪悪な星であり、そんな連中を今まで何人も逮捕してきた。しかし、まったく減る気配もないではないか。一体自分たちは何をやっているのだろう?」

 という、まるでいたちごっこのような毎日に、嫌気がさしてこないというわけでもない。

 門倉本部長であっても、別に聖人君子でもなければ、仙人でもないのだ、悩みだってあれば、やり切れない憤りに襲われることもある。鬱病寸前までいったことも何度もあったので、被害者が、鬱病だったと聞かされた時は、無表情ではあったが、心の底ではやり切れない気持ちが噴出していたのである。

 門倉本部長も、一人でよくいく「隠れ家」のような店を県警本部の近くに持っている。清水警部補はここがそれに該当するお店なのだが、辰巳刑事や山崎刑事であっても、それぞれにその役割を担ってくれる店を持っているものであった。

 そんな店を持っていないと、警察官という仕事はやっていけないとも思っている。毎回事件が終わった時、やり切れない気持ちになるのは、皆同じで、事件を解決に導いたとして、真相を解明したとしても、その真相がすべての人を救うわけではない、

「暴かなけばよかった」

 と思うような真相だって今までにいっぱいあった。

 むしろ、その方が圧倒的に多かったような気がする。

 しかし、新装を暴かなければ、先に進めない人がたくさんいる、やり切れない気持ちを抱くことになったとしても、先に進むため、真相と正面から向き合うことで、

「先に進むということが正義になるのだ」

 ということを、関係者それぞれが感じるしかないのだった。

 捜査員だって人間である。そんな数々の事件の中には、どうしても気になってしまう人もいて、思い入れを激しく持つ人も現れるだろう。

 中には仲を深めて、そのまま結婚する人だっている。それは悪いことではない。当然の感情に正直になっただけのことなのだ。祝福されて当然の関係だと言ってもいいだろう。

 だが、その思いを断ち切らなければいけないと自らに課してしまう人もいる。門倉本部長もその一人だったのだ。その時女将がどのように感じていたのかは分からないが、門倉本部長は、見事に自分の気持ちにケリをつけ、今の立場に上り詰めていたのだった。

――お節さんは、自分をどんな顔で出迎えてくれるだろう?

 と思った門倉本部長は、懐かしさで満面の笑みを浮かべるお節さんを想像していた。

 しかし、想像だけでよかったのだ、あのお節さんが、門倉本部長を見て、懐かしさで満面の笑みを浮かべるはずはないと思えたからだ。

 それは恨みなどではなく、自分の気持ちを無理に抑えているわけでもない。気持ちが揺れ動く感情にはならないということで、懐かしいとは思ってくれても、それは、特別な感情ではないと思っている。

 その感覚は門倉本部長にしか分からないことだろう。それはお節さんとの間のことに限ってのことではあるが、門倉本部長も自分の感覚を特別だとは思っていない。だから、懐かしくても、その養生は優しい表情以外の何者も出てこない気がした。それはお節さんが感じていることと同じで、きっと、一瞬だけ、特別な気持ちで懐かしい気分になると、後は、特別がなくなり、普通の懐かしさだけがこみあげてくることだろう。

「これが自然な形なんだ」

 と、門倉本部長は感じると、それ以上、先に想像することは何もないと思った。

 門倉本部長のそんな気持ちを知ってか知らずか、清水警部補は、少しお節さんに気があるのだった。ここで門倉本部長を連れていこうとするのは、今までの中途半端に感じられた門倉本部長との関係を、二人の間で清算してほしいという思いがあるからだった。

 清水警部補とすれば、本当は門倉本部長をあの店に連れていくことは避けたかった。今は二人を吹っ切らせてあげたいという思いがあるのだが、それも時間が経ったからこそ感じることだった。

 二人の間に昔、感情が大きくなるようなものがあったのは否めない。自分も部下として走り回っていた経験あるからだ。

 そして、門倉刑事がその思いを断ち切った時、清水刑事の中にも、女将さんに対しての気持ちがくすぶっていたことを、いまさら隠そうとは思わない。

 女将さんは、門倉刑事には特別な思いを抱いていたのだが、清水刑事に対しては。弟のような親しみを感じていたのだ、弟でありながら、どこか頼れるところがあり、そこが彼女の女心を擽ったのだ。

 門倉刑事に対しての思いと違う思いが女将の中にあり、新鮮な思いが強くなってくるにしたがって、門倉刑事に対して抱いた特別な思いとは別の、新鮮さを帯びた特別がこみあげてきたことで、今の清水警部補との関係になっていた。

 清水警部補は、癒しを求めにやってきている。特別という意味でどちらの方が強い感情を持っているかというと、それは女将の方だった。

 まるで、恋愛経験のなかったことの生娘のような思いで、清水警部補には接することができる。すでに、女将にとって清水警部補は、

「自分にはなくてはならない存在の人」

 と思うようになっていたのだ。

 そんな思いを清水警部補のウスウス感じていた。その思いが自分に侵入してくることも分かっていた。

 もちろん、受け入れる気持ちはある、そして、逃がさないという思いがあるのも事実だった。

 だが、気持ちはそこまでだった。

 清水警部補は、刑事の時代に一度結婚していて、今は離婚している。一人暮らしのチョンガーなので、未亡人の女将さんと結婚しても、誰からも何も言われない。

 だが、清水警部補には、どこかひっかかるものがあった。

 もちろん、別れた奥さんにまだ思いが残っているわけでもない。どうして最後の一歩が踏み出せないのか自分でも分からない。

――門倉本部長に思いを断ち切ってほしいなんて、今のこの自分に何が言えるというのか、おこがましいにもほどがある――

 とまで考えていた。

 奥さんとどうして別れてしまったのかというと、今でもハッキリとした理由は分からない。

 もちろん、奥さんなりに思いがあったことだろう。

「別れたくない」

 という清水の気持ちを押し切るように、家を出ていったのだ。

 しばらく行方不明になっていたが、それは気持ちの整理をつけるためだったのか、帰ってきてからというのは、もう修復がつくところにはいなかった。

 清水警部補の方も、奥さんが出ていって一人になったことで、ようやく吹っ切ることができたようだ。

「分かった。お前の言うとおりにしよう」

 というと、

「ごめんなさい、そしてありがとう。でもね、決して嫌いになったとかいうわけではないのよ」

 と奥さんがいうので、

「分かっているさ」

 と清水は答えた。

 これは強がりでも何でもない。言葉にできるわけではないが、その理屈は頭の中で理解できているつもりであった。相手が嫌いで別れる夫婦というのは、捜査官をしていると、よく見るものなので、そのどれとも妻は違っていた。だから、憎しみ合ってのものではなかったのだ。

 憎しみ合っていれば、もっと悲惨なことになっていることだろう。それを思うと、

――今別れるのが、一番時期としては、ちょうどいいのかも知れないな――

 と感じたのだ。

 それから気持ちが女将に向くまでには少し時間が掛かったが、気持ちを抑えさえしなければ、もっと前から意識できていたはずだと感じていた。

 女将さんの方もそんな清水警部補の気持ちが分かったのか、ちょうどその頃、

「弟のようだ」

 と感じられるようになっていたのであろう。

 赤提灯を横目に暖簾をよけながら店の中に入ると、

「いらっしゃい」

 という声が聞こえてきた。

 いつものようにカウンター席は、奥を別にして、真ん中には誰も客はいなかったが、最初に、

「あっ」

 と言って声を挙げたのは、辰巳刑事であった。

 カウンターの奥に鎮座している人に見覚えがあったからだ。

 門倉本部長も、清水警部補にもよく見るとそれが誰だか分かった、しかし、普段とはあまりにも違った佇まいに、辰巳刑事が声を挙げた瞬間であっても、すぐには誰か分からず、そこにいることの意外性すら気付かないほどだった。

「長谷川巡査じゃないか?」

 と、辰巳刑事が懐かしそうに笑みを浮かべたが、いつものような笑顔は長谷川巡査からは見られなかった。

 別に見つかってしまったことを後悔している様子も見えない。かと言って、いつものように警部補や刑事に対して、恐縮している様子はない。

 もっとも、プライベートなのだから、別に上司に気を遣う必要はないのだろうが、普段の公務上での長谷川巡査とはまったく違った面持ちに、辰巳刑事はビックリしていた。

 門倉本部長も清水警部補もビックリはしているのだろうが、それを表に出そうとはしない。

 驚きを表に出してしまうと、せっかくの長谷川巡査の普段と違う態度がかすんでしまいそうに思えたので、敢えて長谷川巡査に合わせることにしたのだ。

 辰巳刑事も、後ろに控えている上司二人の気持ちが分かったのか、あまり、長谷川巡査に関わることをしなくなった。

「同じ職場で知っている人が呑みに来ている」

 というだけの関係に戻るだけのことだったのだ。

 長谷川巡査は、挨拶だけはしたが、それ以上、一切余計なことを話すことはなかった。一人手酌でチビリチビリ、普段の腰の低さを知っているだけに、貫禄すら感じさせるその佇まいは、

「なるほど、奥の席にはああいう人がやはり似合うんだ」

 とばかりに、清水警部補は感じていた。

「久しぶりだね、女将」

 おっと、長谷川巡査にばかり気を取られているわけにはいかない。

 今日の主役は、門倉本部長と、女将のお節さんではなかったか。

「ええ、そうですわね。何年振りかしら? 栄転おめでとうございますという言葉も言えないくらいに、そそくさと行っておしまいになられたですもんね」

 と、女将は皮肉たっぷりの言葉を門倉本部長にぶつけた。

「それは、申し訳なかったね。でも、あの時は結構挨拶もできないところが多かったくらい、慌ただしかったんだ。それは分かってほしいね」

 というと、女将はやっと笑顔を門倉本部長に向けた。

 門倉本部長も安心したように微笑むと、二人にしか分からない空気がその場を支配していた。

 さすがに清水警部補も嫉妬しないわけにはいかなかった。だが、清水警部補には嫉妬を表に出すことはできなかった。彼女をその気にさせておきながら、自分で思い切ることのできない、

「ヘタレ」

 を感じている清水警部補は、二人の様子を黙って見ているしかなかった。

 二人の空気が流れている時、女将は清水警部補を見ることはなかった。あくまでも門倉本部長にだけ意識を向けていて、どちらが、その意識を切るかというのが、目下の緊張した状況であった。

 最初に緊張を切ったのは、女将の方だった。それもそうであろう。最初にロックオンしたのは門倉警部補だったので、来ることの主導権は、女将の方に移ったのだ。これが二人が親密な関係にあったという証拠でもあり、親密なままに別れを迎えるという中途半端な状態だったものを、ここにきて、本当に切るとするならば、その主導権は女将にあるということは、清水警部補にも分かっていた。

 その状況に一番安心したのは清水警部補だった。

――やっと、切れてくれた――

 という思いを抱いたのは、自分が女将に対して煮え切らない気持ちになった原因が、まら切れていなかった二人にあるということを、この時に知ったからだった。

――やっぱり、今回門倉本部長が自分からこの店を訪れたと言ったのは、この関係を断ち切るのが目的だったに違いない――

 と感じたのだ。

 二人の会話はきっと、これで終わったのだろう。数年間という期間を一気に飛び越して今に現れたのは、お互いに想像していた相手を見つけたからではないだろうか、清水警部補はそんな二人は、きっと自分が知らない二人なのだろうと思うことで、自分が好きになった女将を別の人だという認識になりたいのだと感じていた。

 それは、清水警部補の言い訳であり、言い訳を言い訳として感じてくれない目の前の二人は、

――やっぱり、自分の知っている二人ではないんだ――

 と感じたのだった。

 清水警部補には二人が会っていなかった間に、自分が入り込んでしまったという罪悪感があった。

 しかも、女将に対しては、寂しさを埋めるという一種の卑怯な手段を用いているように思えたのだ。

 だが、女将にとって、門倉本部長は、

「別の存在」

 だった。

 普通であれば、そんな感情を知ってしまうと、嫉妬に狂うくらいになるのだろうが、なぜかそうは思わなかった。

 きっと女将に対しても、

「別の存在」

 という認識でいるからなのかも知れない。

 まったく別次元だということを考えると、少し気が楽になったが、次にまた別の感情が頭にあった。

「別次元というのは、女将と門倉本部長のことなのだろうか?」

 という思いであった。

「本当の別次元は自分と女将であって、女将と門倉本部長はリアルな関係だったのかも知れない」

 と思うと、自分が、女将に対して最後の決断ができない理由がそこにあるのではないかと思うのだった。

「清水さんと一緒にいると、何もかも忘れられる気がするの」

 と言っていた。

 それを違和感なく聞いていたが、今思い出すと、おかしいのではないだろうか。

「嫌なことを忘れられる」

 ではなく、

「何もかも忘れられる」

 というのである。

 つまりは、忘れられることはすべてであり、リアルな現実逃避なのではないだろうか。現実を見ていて、さらにそこから逃げる気持ちになる、何が現実で何が逃避したいことなのか、あの時の女将には分かっていたのだろうか?

 何もかも忘れるなど、ありえることではない。もちろん、女将であればそんなことは分かっているはずだ、何よりも今考えて当たり前のように違和感を感じていることを、まったくその時は違和感などなかったというのも、おかしなものである。

 それを、

「反現実的で、中途半端な世界に自分がいたからだ」

 と感じるのは、考え方の矛盾に値しないだろうか?

 清水警部補は、いろいろと考えてしまう。

 清水警部補が今見ている女将と、門倉本部長が見ている女将とでは、別の人なのかも知れない。そんな思いを清水警部補は感じているが、

「ひょっとして、門倉本部長も同じことを感じているのかも知れない」

 と思った。

 それは、急に門倉本部長の視線を感じたからである。それまでは、まったく感じなかった視線を感じるようになると、次第に今日の女将がいつもの女将ではないように思えてきた。

 今の女将は清水警部補お方を見ようとはしない。敢えて無視しているようだ。

――いや、無視しているわけではなく、本当に見えていないのではないだろうか?

 と感じると、そのとたん、門倉本部長の視線を感じるようになっていた。

――門倉本部長に、私の気持ちを看破されてしまったのか?

 と感じたが、決して、糾弾するような目ではなかった。

 どちらかというと、もう一人の自分を見ているかのように感じたのは、以前に清水警部補にも似たような経験があったのかも知れない。

 だが、それがいつのことで、どのようなシチュエーションだったのか分からない。

――あれって、何だったんだろう?

 いつも何があっても、自分を見失わないようにすることが一番だと思っている清水警部補には分からないことであった。

 そんな緊張感を断ち切ったのは、裏から一人の女の子が入ってきた時だった。

 それはアルバイトで入っているお美紀ちゃんだったが、彼女が入ってくるのを見て、一番表情が変わったのが、長谷川巡査だった。

「いらっしゃいませ」

 と、お美紀ちゃんは、他の誰よりも先に、長谷川巡査を見つけ、挨拶をした。

「こんばんは」

 という長谷川巡査の表情は、明らかにさっきまでのすかしたような表情ではなく、

「優しいお巡りさん」

 という顔のいつもの長谷川巡査になっていた。

 その時に一緒に、もう一度、三人の上司に頭を下げた。

 今度はニッコリと笑って、いつもの人懐っこい長谷川巡査になっていた。

 ここは敢えて、

「戻っていた」

 と言わずに、

「なっていた」

 という表現を使った。

 その気持ちを一番感じていたのが、辰巳刑事だったのだ。

 辰巳刑事は、清水警部補、門倉本部長、そして女将の三人三洋の表情を見ようとは思わなかった。思って見たとしても、一度見て次の瞬間には、

「別人ではないか?」

 と感じるのではないかと思うことで、何を信じていいのかと思うと、下手に気にしない方がいいと思ったのだろう。

 それくらいであれば、相手はまったくこちらを無視はしているが、普段はあれだけの人懐っこさを醸し出している長谷川巡査に気を配る方が、よほどよかったのだ。

 辰巳刑事は、

――おや?

 と感じた、

 最初にお美紀ちゃんが入ってきた時、まず気が付いたのは長谷川巡査だった、二人の様子を見ていると、この二人がただならぬ関係であることは一瞬で分かったが、今日ここに長谷川巡査が来ることは分かっていなかったのではないだろうか。

 お美紀ちゃんが入ってきて、反射的に長谷川巡査の方を見た時、その表情は緊張があったのだ。

 それは長谷川巡査に対しての好意的な緊張ではなく、怯えに近い緊張だった。最初からそこに長谷川巡査がいるということを分かっていたとするのであれば、あんな緊張した面持ちにはならないだろう。

――ということは、お美紀ちゃんは誰かそこにいるであろうと思っていた人に怯えを感じていた?

 と思えた。

 だが、そこにいたのが長谷川巡査であると分かってから、緊張は一気に解れ、

「助かった」

 という安堵の表情に変わったのだろう。

 最初に長谷川巡査を見た時の表情は、懐かしい人に遭ったかのような表情であった。そんなに久しぶりであったら、

「あら、お久しぶり」

 という表現になるだろう。

 そうでなかったということは、やはり、二人は示し合わせていたわけではないが、久しぶりというわけでもない。

 お美紀ちゃんは誰か違う人を想像していたが、そうではなかったことで安堵と嬉しさがこみあげてきて、却って、ありきたりな返事しかできなかったのではないかと、辰巳刑事は考えていた。

 この思いは、

「当たらずとも遠からじ」

 いわゆる、ニアピンと言ってもいいだろう。

 二人の間の微妙な距離は、この重苦しい部屋の空気に別の風を吹き込んでいるようだった。

 辰巳刑事は、長谷川巡査よりも、お美紀ちゃんの様子を見ていると、その不可思議な状況が分かってくるような気がした。

 昨日、今長谷川巡査が座っているその席にいた人を、お美紀ちゃんは、どうも苦手な雰囲気を感じた。今から思えば、あの男の視線はお美紀ちゃんの足元から頭までを舐めまわすかのように見つめているのが分かり、気持ち悪く感じたほどだった。

 よほど、注意してやろうと思ったほどだが、その男の目がすでに座っているのが分かったので、下手に何かを言って暴れ出さないとも限らない。親切のつもりでいって、それが災いの元にでもなれば、本末転倒もいいところだ。

 それを考えると、辰巳刑事は、

――余計なことを言わなくてよかった――

 と感じた。

 つまり、お美紀ちゃんは、昨日の男を恐れていたのだ。その男がいたらどうしようという気持ちでさりげなく端の席を見た時、そこにいたのが長谷川巡査だったので、安心したのだった。

 長谷川巡査がいつになく真剣な表情だったのは、その男がやってきて、お美紀ちゃんや女将さんの迷惑にならないように、どのようにして撃退するばいいかを考察していたからだろう。

 ここで、この三人が来たということはある意味強い味方であることに違いはないが、今日は何とかなったとしても、また別の日にやってきた場合にそう対処すればいいかということまで考えなければいけないだろう。

 長谷川巡査は、結構頭の回転は早い方だった。

 本当は刑事になってもいいくらいの頭の回転を持っていて、実は刑事志望を出してはいるが、

「今は警官の数が少ないので、申し訳ないが、もう少し我慢してくれ」

 と言われていた。

 だが、

「決して君が刑事の器ではないというわけではないんだ」

 という巡査部長の話もあったが、その言葉に嘘がないことは、長谷川巡査本人が一番分かっているようだった。

 長谷川巡査の意識はお美紀ちゃんにばかり行っていて。門倉本部長と清水警部補、さらには女将も、変則ともいえる、

「三角関係」

 には、一切の興味を示していなかった、

 女将に対しては気をつけていたが、女将が門倉本部長に気を取られてしまうと、自分だけの世界に入り込んでいた。

 それを辰巳刑事は見ているうちに、長谷川巡査が、何かを妄想していて、

「心ここにあらず」

 の状況であることが分かっていた。

 お美紀ちゃんが気にしている昨日の男、あの男はあの時誰を気にしていたのか、もう少し気にして見ておけばよかったと辰巳刑事は感じた。

 明らかに長谷川巡査は、お美紀ちゃんを守ろうとして、正義感に燃えていることは、勧善懲悪の辰巳刑事だから分かるのであった。

 もし、辰巳刑事が、三角関係の方に集中して意識していたとしても、すぐに勧善懲悪である長谷川巡査が気になってしまい、こちらに意識が動いているだろうことを分かっていたのかどうか、甚だ疑問である。

 辰巳刑事は、ここにそもそも何をしに来たのか、

「それを皆忘れてしまっているのではないか?」

 と感じたほどだった。

 清水警部補が、この店で見ていたという男が、昨夜殺された三橋であるかどうかの確認と、その男がこの店で、どういう話をしたり、どういう交友関係だったのかということを調べるのが目的だったはずだ。

 まったく違った空気が部屋の中で別々に風を起こしていることで、一人どちらにも入り込むことのできない辰巳刑事は、

――これがこの店の特徴なのではないか?

 という漠然とした感覚を持った。

 別々の空気が持つその意味というのは、今までの刑事生活の中で、味わったことがあったことのように思えた。

 この空気を持っているのは女将なのだろうか? それとも死んでしまった旦那さんの思いがまだ残っていて。触れることのない世界を作り出しているのかも知れない。

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