第4話 鬱病

 健忘症というのは、誰にでも起こることなのかも知れないと、清水警部補は思っていた。しかも、一過性のものであったり、一度起こってしまうと、そこから慢性化してしまうなどのいろいろなパターンがあるような気がする、

 特に集中して何かをする仕事などがある時、その時は集中して自分の世界に入ることで、時間の感覚すらマヒしてくるのだが、一度感覚が切れると、そこから先は、忘却へと流れていくのではないだろうか。

 そういう意味では、

「刑事でよかった」

 と思っている。

 事務職や専門職などは、一つのことに集中して、意識を高めなければいけないので、きっと集中が切れると、たった今のことであっても、覚えていなかったりするだろう。

「覚えていないことと、忘れてしまうことでは、何が違うんだろう?」

 と考えたことがあったが、一度覚えようとして覚えられなかったこと、つまり、記憶にまで到達していない場合を覚えていないという表現でいい、忘れてしまったというのは、一度は記憶にまで到達しているのに、それがどこに格納したのかという基本的なことすら覚えていないことで、最初から覚えられなかったのかどうかすら、分からなくなってしまうのだろう。

 ただ、基本は同じことではないかと思っている。それを変に分けて考えようとするからややこしくなるのであって、考えてみれば理屈的に分かっているのに、記憶がないだけということになるのがその根幹なのではないだろうか。

 だが、本当に病的な健忘症というのは、仕事もまともにできないほどになり、まわりが説得して強引にでも、病院に罹らせることが必要なのであろう。

 実際に、

「若年性健忘症」

 という言葉があるくらいなので、れっきとした病気である。

 物忘れがひどいと言われるくらいであれば、笑って済ませられることであるが、生活や仕事に支障をきたしてくると、笑って済ませられるものではなくなってくる。

 会社では必死に隠そうとすればするほど、ボロが出るもので、わざとでもないのに、

「わざと困らせようとしているんだ」

 として、こちらの悪意を罵られてしまう。

 相手が本当に悪意のある人間で、

「まわりを蹴落としてでも、自分が出世したい」

 などと思っている相手には、実に好都合である。

 自分が蹴落とされるだけで済めばまだいいのかも知れないが、人を巻き込む形で蹴落とされてしまうと、すべての責任を押し付けられることになってしまう。そうなったら、終わりではないだろうか。

 世の中には、本当に悪いやつというのはいるもので、情け容赦なく蹴落とされてしまうと、もう蹴落とした方の意識の中から、その人はすでに過去の人になってしまい、見えていても、その存在価値が皆無になってしまうだろう。

 殺された三橋という男がどこまでの健忘症だったのか分からないが、殺される理由の中に健忘症というのが絡んでいるとすれば、それを捜査しないわけにはいかないだろう。

 もう一つ気になったのは、

「あの人は急に怒り出すことがある」

 と、奥さんが言っていたことだ。

 これは精神的に不安定な時に多いことであり、

――ひょっとすると、鬱病なのかも知れない――

 とも感じた。

 物忘れの激しい場合の病気として考えられる中に、

「鬱病」

 というものがあるが、鬱病においては、結構罹っている人も多く、症状も様々だ。健忘症と同じく。許せるものと、加療が必要なもの、いろいろあるのではないだろうか。

 学生時代の友達の中にもいきなり怒り出すやつがいて、鬱病の気があると言われ、病院で診察してもらうと、そのまま入院することになったやつもいた。

 本人には、まったく意識がなかった。急に怒り出したとしても、それは一過性であり、すぐに収まったからだ。その代わりその時のことを覚えているわけではなかった。考えてみれば、無意識の方が怖いというもので、どういう病気が潜んでいるか、最初は分からなかった。診断を受けて、

「鬱病です」

 と言われ、安心もしたのだが、

「鬱病を舐めてはいけませんよ。本人の意識のないところで身体や精神に変調をきたすので、下手をすれば、自殺企図や、実際に自殺を遂げるということにもなりかねません。それを思うと、実に怖いことになってしまいます」

 と先生が続けた。

 その時初めて鬱病の怖さが分かったのであって、友達は、自殺の恐れがあるということで、監視付きの病棟に入れられたのだった。

 最終的には何とか治り、やっと最近社会復帰を遂げることができたのであって、これからの苦労が目に見えているだけに、、手放しによかったと言えないのだろうが、一歩前に進んだということだけは、よかったと言えるだろう。

「ところで、三橋さんは何かの病気を患っておられたんですか?」

 と清水警部補は千恵子に聞いた。

「ええ、鬱病だということを言われていましたが、とりあえずは、それほど重症というわけでもないので、入院せずに、まずは普通の生活をしてみようということになりました。最近では鬱病の症状も少なくなってきていて、安心もしています。医者の方でも、完治までは時間の問題だと言ってくれていたので、私はもう、彼は病気だという意識はありませんでした。もちろん、彼の鬱病を知っていた人も普通に接するようにしていましたから、本人も普通の生活に戻っていたと思っています」

 と千恵子は言った。

「じゃあ、会社で、三橋さんが鬱病を患っていることを知っている人は?」

 と清水警部補が聞くと、

「誰も知らないと思います。知っていたとしても、ほぼ問題のない程度だという認識なんじゃないかと思うんですよ。そうでなければ、会社が何か厳格な裁定を下すことになるでしょうからね」

 と千恵子はいう。

「でも、偽っての勤務というのは、会社に対しての背信行為では?」

 と訊かれて、

「私も医者と話をした時、もう少し症状が重くなったら、会社に報告する義務が生じるので、そのあたりは私に任せてほしいと言われたんです。だから、主治医の先生が申告していないのであれば、それほどの症状ではなかったということになるんだろうと思います」

 と千恵子は言った。

「なるほどよくわかりました。奥さんは主治医が報告していなかったと思っているんですね?」

「ええ、そうです。すべてを主治医に委任していましたので、会社が何かを言ってきても、主治医に話をしてくれということでいいと私は思っています」

 という千恵子は、最初の頃の頼りなさそうな雰囲気ではなく、完全にしっかりとしてきたのは、今まで夫の鬱状態に振り回されてきたことで、強くなってきたからだろうか。それとも、元々性格的に強いものを持っていて、そんな性格があるから、今まで鬱状態の夫を支えてこられたのか。

 千恵子という女性は決して弱い女性ではないということだけは、間違いないことであろう。

「あとでいいですから、主治医の先生を教えてください」

 と清水警部補がいうと、

「ええ」

 と言葉少なく頷いたが、その顔は完全に凛々しいものであった。

「ところで話は変わるんですが、ご主人はこのあたりに馴染みのお店か何かがあるとおっしゃってませんでしたか?」

 と、清水警部補は、本当にまったく話題を変えてきた。

 しかも、この話は捜査本部の中でまったく出てこなかった情報なので、清水警部補の個人的な質問である。

「どういうことですか?」

 と千恵子は訊いてきた。

「いえね、以前、馴染みの店でご主人に似た人を見たことがあって、それも一度ではなく、何度かですね」

 というと、少し戸惑いを見せていた千恵子であったが、観念したかのように話し始めた。

「この少し先に入ったところにある居酒屋「露風」というお店は馴染みだと聞いています」

 それを聞いて、門倉本部長は、ドキッとして清水警部補の顔を覗き込んだ。

 清水警部補は、表情を変えることなく、千恵子を見つめている。何が訊きたいというのだろうか。

「分かりました。ありがとうございました」

 門倉本部長も、千恵子も、

「鬱病のことは結構聴いてきたのに、居酒屋『露風』の件については、事実関係を確認しただけにとどめていたのは、どういうことなのか?」

 と、その真意を測りかねていた。

 だが、事実関係だけを聞かれたことだけだということが余計に気持ち悪さを演出した。時に門倉本部長は、女将のことも知っているだけに、清水警部補がさっきから連れていきたいと言っていたこともあって、気になって仕方がなかった。

――居酒屋「露風」がこの事件に何か関係しているんだろうあ?

 という思いがあったのだ、

 もし、今回の事件に女将が絡んでいるとすれば、ご主人の件といい、ゆくゆく殺人事件に縁がある人なんだろうとしか思えない。

 清水警部補は、この現場でやはり真新しいことを発見できたわけではなかったが、心の中では満足しているようだった。それは奥さんから話を訊けたということが大きな理由ななのだろうが、自分が一番聞きたかったことが聞き取れたことに満足しているのかも知れない。

 それは最後の最後に聴くことができた。

「居酒屋『露風』」

 という名前である。

 清水警部補も、こうも簡単に奥さんの口から聞けるとは思っていなかったのだろう。驚きの中に、あっけにとられた表情が含まれていたからだった。

 清水警部補は、それ以上千恵子に聴くことはないようで、連れてきた山崎刑事に返し、山崎刑事からの質問を少し受けていたようだ。

 その質問はある程度形式的なもので、清水警部補のように、質問の一言一言に重みがあるというほどのものではなかったのだ。

 門倉本部長は、現場を少し見ただけで、これと言って手掛かりがなかったことから、少し拍子抜けした気がした。ただ、奥さんが言っていた、スマホの捜索は、もうしばらく続けてもらうことにした。どこかに転がって落ちている場合や、スマホから何かの手掛かりがっ見つかり、殺害現場が判明するとも限らないからだった。

 とりあえず、今回の収穫はすべて千恵子からのものであり、まったく手掛かりがなかったわけでもなかった。ひょっとするといずれは判明したかも知れない、被害者の「鬱病」の件、早く分かったのは、現場に来たことでもたらされたことになることは否めないであろう。

 捜査本部に戻ってみると、辰巳刑事が帰ってきていた。

「ご苦労様です」

 と言って、清水警部補に挨拶をした辰巳刑事だったが、

「いろいろ調べていると、面白いことが分かりましたよ」

 と言い出した辰巳刑事は、何かを掴んだようだった。

「何が分かったんだい?」

 と訊かれて、

「午前中は、ファイブオクロックについて気になったいたので、会社の同僚にいろいろ聞いてみたんですが、やつがいつも剃る髭は、同じカミソリで剃られるものではない可能性があるということです」

「どういうことなんだい?」

「同じ髭剃りでいつもと同じ時間に沿っていれば、毎回同じタイミングでファイブオクロックができるんでしょうが、彼は毎日違うカミソリで、別の時間に剃っているので、規則的なファイブオクロックになるわけではないということです、だから、ファイブオクロックから分かったことは、彼にファイブオクロックが出ていたので、犯行時刻が何か作為されたのではないかという考えでしたが、逆なんですよ。犯行時刻に間違いはない分、ファイブオクロックがあてにならないということだったんですよ」

 と辰巳刑事は、興奮しながら話した。

 清水警部補は、もうここまでくれば、辰巳刑事が何を言いたいのか分かった気がした。

「そうか、それはきっと奥さんを裏切っているということなんだろうな?」

 と感じていたが、それは同時に、昼間の奥さんの話を完全に覆すものだった。

――しかし、鬱病として診断され病院に通っていたのは確かなんだろうに――

 と感じたが、その中のどこかに欺瞞が含まれていないと、どうにも話が矛盾していることになる。

――奥さんが教えてくれた医者に、早急に遭ってみる必要があるな――

 と感じた。

 それにしても、被害者の男が鬱病なのかと思っていると、とんでもない浮気男だったということになるとすると、いろいろ辻褄が合っていないことになる。そうなると、この男に対して、殺したいと思っている人の数は、爆発的に増えてきたかも知れない。だが、動機ということになると、却って狭まってくる。

「同じ理由を動機とした容疑者が、いったいどれくらいたくさんいるというのだろう?」

 一つの動機を考えただけでも、そうなのだから、もし他に動機が見つかれば、さらに犯人の絞り込みが難しくなってくる。

 しかし、逆の考え方をしてみると、同じ動機の人間がたくさんいるということは、その中に、

「犯人はいないのではないか?」

 という考え方である。

 被害者は今までに誰からも恨まれず、密かに複数の女性と浮気を繰り返していたのだとすれば、もし、誰か一人に怪しまれたりバレたりすると、案外そこから芋づる式に、他の女性との関係もバレてくるもので、あっという間に被害者の浮気が白日の下にさらされることになるのではないだろうか。

 特に鬱病を患っているのだとすれば、一つの粗が命取りになり、今まではせっかくすべてがいい方向に進んでいたはずのものが、一瞬にして正反対の動きを示す。それが、すべて悪い方に悪い方に導いてしまう鬱病を象徴してしまうことで、いきなりまわりは敵だらけになってしまうだろう。

――いや、待てよ? 過去にそういうことがあったから、やつは鬱病になったのかも知れないな――

 と思った。

 彼は鬱だけではなく、躁状態も兼ね備えているのかも知れない。

 躁状態では、鬱状態とは正反対に、すべてのことが計画通りに進む。すべての効果がいい方への相乗効果を生み出し、複数の相手と浮気をしていても、バレないという状況を思ずと作り出しているのかも知れない。

 だけど、まさか彼に恨みを持っている人間が、束になって彼を抹殺したわけでもないだろう。そうなると、殺しておいて、それを晒すなどということをしなくても、秘密裏にどこかに埋めるか、自殺の名所で知られる断崖絶壁から突き落とすということもできるだろう。

 そういうところは、えてして藻が絡んでいたり、水流が急になっていて、絶対に死体が上がってこないという場所であったりする。そうすれば、秘密裏に抹殺できるはずなのに、それをしないということは、もし彼らが犯人であるとすれば、やつを殺したという事実を公表したいという意思が隠されていることになる。

「公開処刑」

 という言葉があるが、たくさんの人間がタッグを組んで一つのことを成し遂げた場合というのは、公開の元に行うというのが、普通の考えだと言えるのではないだろうか。

 今までの捜査の中で、男女の関係の縺れによる、嫉妬であったり、裏切りによるプライドを傷つけられたことでの恨みなどが、絡まってはいたが、その動機を探ってみると、結局はその相手を憎みながらも、愛していたというのが、ほとんどであったような気がする。

 嫌いな人に対して嫉妬もなければ、裏切りを感じることもないというのがその結論である。

 そう考えると、もし男と女の関係が殺人の動機だとすると、この男は相手によって、自分というものを使い分けていたのではないかと考えられる。

 もっとも、相手が同じタイプの人間であれば、使い分けることもないだろうが、タイプが違っていると使い分ける必要が生じてくる。

「同じタイプの女性を好きになったとしても、浮気相手に果たして選ぶだろうか?」

 タイプが違うから、リスクを犯しても浮気をしてみたくなるというのが、浮気をする人間の心境ではないかと清水警部補は感じていた。

 とりあえずは、犯人や、動機がどういうものであるかはこれからの捜査に掛かっているとして、不倫の事実があるのかどうか、その見極めが大切であろう。

 どうやら先ほどの奥さんの様子から見ると、

「旦那の浮気を分かっていたのではないか?」

 と思えるふしがあった。

 旦那が鬱病ではないかということを簡単に明かすのも、自分が不倫の事実を知らなかったということを警察に思い込ませるための欺瞞だったのではないかとも考えられる。

 果たして、千恵子はそこまであざとい女性なのか?

 今のところ、清水警部補には理解できるほどの材料もなかった。

 直感としては、分かっているような気がするのだが、根拠があるものではない。やはり地道に調べてみる必要がありそうだ。

「これはやっぱり居酒屋『露風」に行ってみないわけにはいかないな?」

 と清水警部補は呟いた。

 それを聞いて辰巳刑事は、

「そうそう、昨日から清水さんは、何か露風というお店と被害者を結び付けるような発言があったので、何か意味があるのかな? と思っていたんですが、何かあるんですか?」

 と聞いてみた。

「ああ、いや、昨日あのお店に行った時に、カウンターの奥に一人座っている男がいただろう? あの男が座っていたあの位置に、前からよく座っていた男がいてね。その男が今回殺害された三橋さんに似ていたんだよ。ただ、今回は死んでからしか見ていないので、どうにも自信がなくてね。別に知り合いでもないし、話をしたこともないんだ」

 というではないか。

「そうだったんですね。女将さんなら何か知っているかも知れませんね。常連だったんだろうか?」

 と辰巳刑事が聞くと、

「そうじゃないかな? 私が行く時はたいてい、あの一番奥の席でチビリチビリと酒を口に持って行っていたからね。女将と話すことも他の人と話すこともなく、ただ黙って呑んでいるだけなんだ」

 という話だった。

「じゃあ、昨日のあの男のような感じなんですね?」

「ああ、そうだね。どうもあの店のカウンターの奥の席に座る客はあんな感じの客が多いようだ」

 と清水警部補がいうと、

「カウンターの奥に一人で座る客というのは、あのお店に限らず、ああいう客が多いんじゃありませんか?」

 と辰巳刑事がいうと、

「そうかも知れないな。ひょっとすると私も、、一人になりたい時は、思わず端の席に座ろうとするに違いないと思うからね」

 それを聞いて、辰巳刑事だけではなく、その場にいた人は皆頷いていた。

「じゃあ、私も一緒に行こう」

 と横から口を出したのは、門倉本部長だった。

「本部長自らですか?」

 と、門倉本部長をよく知る辰巳刑事がそういった。

 茶化したつもりはないのだが、辰巳刑事にとって、露風というお店、いや、お節さんという女将さんが特別な存在であることを、辰巳刑事は知らなかった。

 お節さんを巻き込んだ事件が発生した時はまだ辰巳刑事は新人で、先輩刑事から顎で使われる立場だった。

――今に見てろ、俺だって、後輩ができたら、顎で使えるくらいの刑事になってやる――

 という思いで、上ばかりを見ていた頃だった。

 どうしても勧善懲悪な性格がすぐに出てしまう辰巳刑事は、誰が見ても熱血漢で、先輩刑事などからは、頼もしく思われるかも知れないが、下手をすると同僚からは疎まれる場合もあったりする。

「自分だけ目立とうとしたって、そうは問屋が卸すものか」

 という感情の矢面に立たされることだってあるだろう。

 ただ、そんな辰巳刑事をコントロールできるのが清水警部補であった。

 当時はまだ刑事だった清水警部補は、自分が叩き上げの刑事であるということから、交番あがりの辰巳刑事を見ていると、頼もしさとは別に、かわいらしさのようなものがあったのだ。それはまるで自分の息子を見ているかのような気分であり、さらに、自分にはどうしても一線を引いてしまってできないことでも、辰巳刑事は、やってのける。それは彼の役得とでもいうべきか、

「辰巳なら許される」

 という雰囲気があったからだ。

 逆にそんな雰囲気があるから、まわりから何でも許されるという特権を有しているようで、癪に障る人も多いのだ。

「味方も多いが、敵も多い」

 というのが辰巳刑事で、逆を言えば、

「まわりには敵か味方しかいない」

 というわけでもあり、却ってそんな状況を、

「潔くていいんじゃないか?」

 と開き直りにも似た感情を持っているのが、辰巳刑事本人だったのだ。

 そんな辰巳刑事のような面を持ってはいるのだが、表に出すことをしない清水警部補はずっと辰巳刑事を羨ましく思っていたのだ。

 居酒屋「露風」には、昨日赴いた辰巳刑事、清水警部補に、門倉本部長の三人で行ってみることにした。

 昨日とほぼ同じくらいの時間に行ってみることにした。

 店は、まだ開店すぐくらいの時間なので、三人がカウンターに座れるのは間違いないことだろう。今までもそうだったが、なるべく門倉本部長は、なるべく事件に関しては口出しをしないようにしようと思っていた。

――私はあくまでも、女将の元気そうな顔が見れれば、それでいいんだ――

 と思っていたのである。

 前の旦那が殺されてから、憔悴しきってしまい、入院まで余儀なくされてしまった気の毒な奥さん。正直あの時のお節さんを見ている限り、ここまで回復するとは正直思っていなかっただけに、門倉本部長は、それだけで、何か自分が救われた気がしていた。

 別に何か悪いことをしたわけではない。むしろ、犯人を捕まえて、お節さんと旦那の無念を晴らすことができたのだから、よかったと表もいいはずであった。しかし、そう思えなかったのは、それだけ当時の門倉刑事が、お節さんに思いを寄せていたからなのかも知れない。

 まわりにもそんな雰囲気を醸しだすなど、警察官生活の中で、後にも先にもあれだけだったのだ。

 あの頃のK市では、結構借金苦によって、殺人事件が起こったり、自殺が多発したりと、金銭的なことが原因による事件が多かった。

「これもご時世なのか?」

 と当時の上司がやり切れないとばかりに呟いていたが、門倉刑事も力強く頷いていた。

 事件が起こったあの時も、同じ「露風」という名前の店をやっていた。警察は、犯人を逮捕して、検察に送ってしまうと、その事件が終わってしまったということになる。もちろん、裁判の証人として法廷に立たなければいけないこともあるが、捜査員としての仕事はそこで終わりだからだ、

 実際に犯人が起訴されて、刑が確定し服役することになる頃にはお節さんは退院していて、借金の大部分は、旦那の生命保険からだいぶ充当できたが、、生活をしていくために、旦那が残してくれたこの店を、自分でやっていくと心に決めたお節さんの最後の表情を見た時、

――もうこの人は大丈夫だ。俺も店に行くことはないだろうな――

 と、自分の想いを断ち切るという意味でも、門倉刑事は、それ以降、居酒屋「露風」に顔を出すことはなかったが、絶えず、心の奥底に、お節さんのことを思い続けてはいたのだった。

「あの人が幸せになってくれれば、それだけでいいんだ」

 という思いだった。

 実際にその思いは破ることはなかった。一度、こうと決めたことを、自分から破ることのない揺るぎない強い気持ちを持つことのできる門倉刑事は、K署で数々の事件を解決に導き、

「K署に、門倉刑事あり」

 とまで言われるようになると、まるで図ったかのようなタイミングで、県警本部に呼ばれたのだ。

 さすが、県警本部というと、所轄で名声をほしいままにしてきた捜査員の集まりである。上官にはエリート集団がいて、捜査員として、所轄からの叩き上げという、

「警察組織のピラミッド構造」

 を絵に描いたようなところであった。

 本来なら、あまりそういう組織は好きではないが、警察官としての自分を向上させるためには避けて通ることのできないものであり、自分が警察に入った目的である、

「勧善懲悪」

 と実現するためには、好都合であった。

「勧善懲悪」

 というと、辰巳刑事の代名詞のように聞こえるが、それは彼が感情を押し殺すことなく、表に出すからであり、熱血漢としての心意気がそうさせるのだった。

 だが、他の刑事も大なり小なり、

「勧善懲悪」

 を持っている。

 そうでなければ、警察官という仕事を責任感を持ってできるはずもなく、自分を律することもできないだろう。

 特に、

「静かに燃えるタイプ」

 と言ってもいい門倉刑事のような人こそ、下部の一般捜査員にとって、県警本部で指揮を執るにふさわしい人だと思えるからだった。

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