第3話 ガード下の秘密

「ファイブオクロックシャドーとはなかなか気づかないところに目を付けたと思うが、果たしてそれが事件に関係のあることなのかどうか、辰巳刑事にそのあたりを探ってもらうことにしよう」

 と、清水警部補は言った。

「他に今の時点で、何か分かったこと、ありますか?」

 と、清水警部補に言われて、

「はい」

 と、山崎刑事が手を挙げて、手帳に書かれたメモを見ながら話し始めた。

「被害者の件なのですが。これは総務部長の話ですが、被害者には、誰か不倫をしている相手がいたようです。分からないように目立たないようしていたそうなんですが、どうやら被害者の性格上というべきか、特性として、隠そうとすればするほど目立ってしまうことがあるそうなんです。妙にソワソワしてみたりですね。だから、彼がその日、不倫相手に会う日なんだと思っていると、その日に限って、急いで仕事を終わらせて、いや、終わっていなくても、そそくさと定時になったら帰るそうなんです。普段なら、仕事を中途半端にして帰る男ではないというのにですね。それを聞いていると、まんざら総務部長の話もウソや出まかせではないような気がしてきたんです」

 という報告だった。

「その相手に、総務部長は心当たりはないというんだな?」

「はい。でも、あの様子からすると、そんなに遠くの存在ではないと思えるというんです。営業先で知り合った女性なのか、ひょっとすると会社の人かも知れないともいうんですね。でも、すぐに目立つ性格である彼に、会社の人間であれば、隠しおおせることはないというんですよね。それを思うと、会社の人間というのは、ちょっと違うのではないかということでした」

 という山崎刑事の話を訊いて、門倉本部長も納得がいったようだった。

「それでは、その不倫相手というのも、犯人の一人として大いに浮き上がってくるようだね。そちらの捜査は山崎刑事に引き続きお願いしよう」

  ということで、この仕事は山崎刑事の仕事になった。

 ただ、被害者である三橋という男に、

「不倫相手がいる」

 と聞かされた清水警部補は、それを聞いた途端、一瞬考えたような顔になった。

 まるで、

「あの男が不倫していたなど、考えにくいのに」

 とでも言わんばかりだった。

 確かに彼の死ぬ前の写真を見る限り、不倫をするようにも見えないが、人間のやることなので、顔や人相だけで一概に判断ができるものでもない。

 清水警部補が被害者を知っているというのであれば、別だが、清水警部補であれば、知っていたのなら、何も隠すことはないだろう。

 変に隠し立てをすれば、自分が怪しまれるだけであり、余計な詮索をされかねない。それを思うと、別に清水警部補と被害者が知り合いだと思うのは、早急な考えになるであろう。

 それは、清水警部補を疑うようで失礼に当たることであり、辰巳刑事には到底できることではなかった。

 他に何ら目新しいことがあるわけでもなく、その日の捜査会議はそれで終わり、明日また一番で、本日の捜査状況の報告が行われることとなり、朝の会議は終了することとなった。

「清水君は、今回の事件をどう思うかい?」

 と門倉本部長が、清水警部補に訊ねた。

「そうですね。単純な殺人ではないような気がしますね。少なくとも犯行現場から死体を動かしていて、凶器にサバイバルナイフが使われていること、そして、傷戯力考えると、殺害に関してはずぶの素人であるにも関わらず、計画的な犯行であるということ、まず私は、死体を遺棄した場所がなぜあそこなのかということに疑問を持っています。やはり何か理由があるように思えてならないんです」

 と言って、昨日出た意見としての、アリバイトリックや場所の特徴についてを門倉本部長に話した。

「そんなに寂しいところなのか?」

「ええ、そうですね」

「じゃあ、私も被害が見つかったその時間、一度その場所を見てみることにするか?」

 と、門倉本部長は、そういった。

 どうやら、門倉本部長が中心になってこの街の治安に携わっていた頃も、このあたりでは少なくとも当時刑事だった門倉本部長が出向くような事件は、ほとんどなかったということであろう。

 まったくなかったとは言い難いが、記憶にはないということである。

――いや、ひょっとすると記憶にあって、その記憶にあるのが、かなり昔のことなので、今も変わっていないのかを確認したいという思いがあるのかも知れない――

 と、清水警部補は感じた。

 ただ、清水警部補もこのあたりの記憶はほとんどない。もしこのあたりにきたとしても、事件が発生したから来たというよりも、誰か目撃者か、犯人に繋がる何かを見つけにきたくらいであろうか。それも記憶に乏しいということは、そういう事情があったとしても、大した発見にはつながらなかったということであろう。

 捜査会議が終了し、それぞれに決まった聞き込みや、目撃者捜しなどに飛び出して行ってから、清水警部補と門倉本部長は残って、少し話をしてみた。

「久しぶりにここに来たけど新鮮だよな。まだ刑事課の若い連中は入ってくる前だっただろうからな」

 と門倉本部長が言った。

「ええ、私もまだまだ駆け出しの刑事でしたので、本部長にはいろいろ教えていただきました。感謝してますよ」

 と清水刑事がいうと、

「それを今は君が辰巳刑事や山崎刑事に教えていく番だからな。頼もしいと思っているよ」

 と言われて、清水警部補は照れていた。

「なかなか、二人は優秀だと思っていますよ。特に辰巳刑事の場合は、本部長もご存じの通り、事件解決にかなり貢献しているところがあるので、私も頼もしく思っているですよ」

「山崎刑事もなかなかだと思うよ。竜居啓二のような熱血漢ではないけど、冷静沈着な判断力は、清水警部補譲りのところがあるんじゃないかと思うんだ。彼には、人のいいところを吸収し、自分の長所に結び付けることができる才能のようなものがある。私はそれを結構買っているつもりなんだよ」

 というのが、門倉本部長の山崎刑事への評価であった。

「山崎刑事を見ていると、自分の若かった頃を思い出して、気になるんですよ。辰巳刑事の場合は逆に自分にはない羨ましく思える勧善懲悪な熱血漢、逆の意味で気になっています。とにかくこの二人は、それぞれに能力を引き合っているというか、相乗効果がありそうに思うんです。ただ、一緒に組ませるというよりも、競わせる方が、二人のためになると思って、決して二人を組ませないようにしているんですけどね。どうでしょうか?」

 と訊ねると、

「いいんじゃないかと思うよ。確かに君の言う通りm二人には相対的な力が備わっていて、相乗効果も認められると思う。でも、競わせると言っても二人の間で競っているという感覚はないと思うんだ。どちらかというと、楽しんでいるようにさえ見えるくらいなんだ。そんな二人を見ていると、私は時々、清水君、君を思い出すんだよ」

「私をですか?」

「ああ、私は部下ではありながら、君の捜査能力に敬意を表していた。一緒に組む時、別々に組む時いろいろあったけど、今の辰巳刑事や山崎刑事のような感じだったと思うんだ。今の二人を一緒にさせないという気持ちはきっと、あの頃とは時代が違っているという意識があるからなんじゃないかい?」

 と本部長がいうと、

「確かにそうかも知れませんね。でも私はそんなに時代が変わったという感覚はないんですが、どうしてなんでしょうね?」

「それはきっと、時代の流れに自分の成長がピッタリと嵌っているからではないかな? その思いは私もこの署にいる頃に感じたことがあった。新人の頃は、そんなことを考える暇もないくらいに、覚える子田がたくさんあった。そして出生して本部に行くことになると、今度は自分だけの時間ではなく、部下を含めた時間になったので、個人として時間を見ることがなくなったので、その感覚を味わうことはなかったんだよ」

「何となく分かる気がします。今の私はきっと本来の時間の流れに沿っているので、一番脂がのっていると言われるような年代なのかも知れませんね」

 というと、

「その通りだよ。やっぱり清水君は私が歩んできた道を後から追っかけてきているような気持ちになることがあるけど、錯覚ではないようだ」

「後ろを振り向いたりしますか?」

「いや、そんなことはしない。絶えず前だけを見ている感覚かな?」

「だから、後ろから追いかけていると、前を歩いている人の存在は感じるんだけど、誰なのか決して見えるわけではないんですよ。その感覚をどう表現すればいいのか分からなかったし、後輩にも味わってほしいと思いながら、どのように伝えればいいのかと思っていたんですけど、本部長と話をしていると、細かいことにこだわる必要はないような気がしてきました」

 と清水警部補は言った。

「清水君も私も、下積みが長く、叩き上げだから、お互いに気持ちもよく分かるというものだが、キャリア組にはないものを持っているという自負があるんだ、それが一つは、『自分が育てた後輩』じゃないかと思うんだ。キャリア組の人はどうしても、下っ端の経験が少ないので、現場でしか培うことのできない『刑事の勘』が分からないと思うんだよ。君の場合はそれを持っているので、きっといい後輩をたくさん育てて行ってくれると思っているんだ」

「ありがとうございます。本部長からそう言われると、その気になっちゃいますよ」

 と言って、清水警部補は笑ったが、

「その気になってもらわないと困るんだよ。今はこの署と県警本部との間で諍いのようなものはないのでいいが、わだかまりができてしまうと、捜査もなかなかうまくいかず、また別の事件で一緒になることがあれば、その時のわだかまりのせいで、最初からぎこちなくなってしまって、捜査もうまくいかないだろうね」

 と本部長は言った。

「ところで本部長は、居酒屋『露風』の女将をご存じですか?」

 と清水警部補は話題を変えた。

 居酒屋「露風」というと、昨日辰巳刑事を連れて行った店ではないか、帰りにひょんなことから事件を知ってしまうことになったが、本部長は、その店の女将を知っているというのだろうか?

「お節さんのことかな?」

「ええ、そうです。今は例の死体発見現場になったガード下を通っていける場所に店を構えているんですよ」

 と清水警部補がいうと、

「そうか、お元気そうかな?」

「ええ、本部長にお会いしたいと言っていましたよ。お節さんがあそこに店を出したのは、本部長が、県警本部に行かれてから半年ほどしてからのことでした。女将さんは歩部長に遭いたいといつも言ってますよ」

「そうなんだ、お節さんは元気でやっているんだね? 安心したよ」

 お節さんというのは、門倉本部長がまだ刑事の立場で、現場を走り回っていた時のことだったのだが、お節さんの亭主が殺されるという事件があった。

 旦那というのは、小料理屋の板前から独立する形で、お節さんと結婚するのを機に、小さな店を構えたのだ。

 その時の借金の問題がこじれてしまったことで、旦那は借金取りの連中に刺されて死んでしまうという事件が起こった。その時の捜査に立ち会ったのが、門倉本部長だったのだ。

 門倉本部長は、ことのほか、お節さんが気になっていたようだ。せっかく結婚もして、これからだという時に、大切な旦那を借金のせいで殺されてしまったのだから、やり切れない気持ちになったのも当然というものだ。

 旦那を刺した犯人はすぐに捕まえたが、その時のショックが大きかったせいか、しばらくお節さんは、入院を余儀なくされた。当時の門倉刑事は、お節さんへの切ない思いを抱いていたこともあって、

「公私の区別もつかなくなるのではないか?」

 と心配されるほどに、お節さんにのめり込んでいたが、それは、まわりからそう見えただけで、普段から事件関係者とあまり関わることのない門倉刑事だっただけに、まわりが余計な心配をしただけのことだった。

 本人には、そんなつもりはなかったのだが、その思いをまわりに見せてしまったと感じた清水刑事は、それ以降、お節さんに関わることをやめてしまった。お節さんはしっかりと立ち直り、新しく店を持つ計画をしているという話を訊いて、門倉刑事も安心したのであったが、それまでは、自分がどうすればいいのか分からずに、頭の中が混乱しているようだった。

「あの頃のお節さんには、まるで置き去りにしてしまったかのような後悔がずっとあったんだけど、彼女は気にしているのだろうか?」

 と考えなかったことはなかった。

「本当にあの人はいい人なんだ」

 と、今でも門倉本部長はよく思い出していた。

「じゃあ、まずは、死体発見現場にご案内いたしますので、夜は、お節さんに逢っていただくというのはいかがでしょう?」

「うん、分かった」

 ということになり、まずは、死体が発見された場所へと、門倉本部長を案内することになった。

「第一発見者というのは、どういう人だったんだい?」

 と訊かれて、

「近所に住んでいる男性でした。仕事の帰りに問題のガード下を徒歩で通りかかったんですが、いつもに比べて、何となくガード下が暗く感じられたんだそうです。あの場所は本当に暗い場所なので、暗いと感じることはあるんですが、いつもとは、残像が残る暮らさったということだったんです。その違和感がどこから来るのかと思ったら、影の濃さにあると思い、初めて壁を見ると、濃い部分が一か所あったので、そこが原因であることに気言づいた。視線を合わせた時と、前を向きながら、横を意識する時とで、後者の方が違和感が強かったというんです。それでおかしいと思って見に行ってみると、そこに男性が倒れていたということだったという話でした。その人は毎日その道を通勤に使っていて、通りかかる時間もいつも似たような時間なので、余計に分かったというんですね。たぶん、よく気になる人でなければ、気付かずにいってしまうのではないかとその人は話していたようです」

 と清水警部補は、そう説明した。

「かなり詳細に分かっているみたいだね」

「ええ、通報があって最初に駆け付けた長谷川巡査が訊きこんだことだったんですが、長谷川巡査は結構、一般市民と話すのがうまく、話しを聴くのも的確で、分かりやすい話を引き出してくれるんです。我々はそれでだいぶ助けられました」

 署から現場までは歩いてもいける距離であるが、その後の行動を考えて、とりあえず車での移動にした。交番からはあらかじめ長谷川巡査を呼んでおいたので、死体発見当時の様子なども聞けるということで、門倉本部長の要請でもあったのだ。

 現場に到着すると、立入禁止の規制札が貼ってあるが、元々人通りも少ないので、余計に仰々しく感じられる。それでも、近所の人が備えてくれたのか、いくつかの花やお菓子が備えてあり、昔からの住宅街ではありながら、近所づきあいなど一切なさそうに見えていたのに、意外と律義なのかと感じた清水警部補だった。

「このあたりの人がお供えしたんだろうね?」

 という清水警部補の質問に、長谷川巡査は、

「そうだと思います。後、考えられるとすれば、被害者の奥さんではないかと思いますが?」

 という話をしているところへ、一台の車が、二人の乗ってきた車の近くに停まると、仲から出てきたのは、山崎刑事と一人の女性だった。

 その女性は髪の毛が腰くらいまであって、ワンピースの上から、コートを羽織ったような服で、見ていて地味ではあるが、前を通り過ぎると思わず振り返ってしまいそうな、イメージとしては妖艶な雰囲気を感じさせる女性だった。年齢的には三十前後というところであろうか、女性としては少し大柄に見えて、隣にいるがたいの大きな山崎刑事と一緒に歩いていても、遜色を感じさせないほどだった。

 そんな女性がかしこまって緊張している姿に見えるから、余計に妖艶さを感じさせるのだろう、清水警部補はそう感じた。

 その人が被害者の奥さんであることは、何となく分かった。ただ、昨日ここで倒れていた男性は決して大きな人ではなかったので、一緒に歩いていると、違和感を感じさせることは一目瞭然だった。その人が誰かということは分かっているつもりでありながら、一応清水警部補は聴いてみた。

「山崎刑事、そちらの女性は?」

 と聞かれた山崎刑事から、

「被害者の奥さんです」

 というそれ以外ないと思える答えがそのまま返ってきた。

「ああ、それはご苦労様です」

 と清水警部補は、二人のどちらともになく言った。

 きっとどちらも、自分が言われたと思ったことだろう。

「私の夫は、ここで発見されたんでしょうか?」

 と言って、奥さんはガード下の立入禁止の札の近くまで寄ってみた。

「ええ、そうです。そこで刺されて亡くなっていました」

「そうなんですね……」

 と言って、さすがにそこが自分の夫の最後の場所になったのだと思うと、感極まったのか、嗚咽をしていた。いくらそこにもう死体がないとはいえ、先ほど警察に出頭し、旦那の亡骸と対面しているはずなので、さらに最後の場所を見ることで、余計に辛く感じたのであろう。

 そんな奥さんを横から清水警部補は落ち着いた目で見ていた。

――被害者は、こんなに綺麗な奥さんがいながら、不倫をしていたということか?

 と少し不思議に感じていた。

 この奥さんは、可愛いというよりも、綺麗、美人というタイプだった。こんなに綺麗な奥さんを貰っていると、まわりに見せびらかしたいという気持ちがあるのは当たり前のことである、

 ただ、これは可愛い系の奥さんを貰っていたとしても、同じことだろう。ただそれは奥さんを見せびらかしたいというよりも、

「仲の良さを見せつけたい」

 という気持ちになるのではないかと思うのだった。

 しかし、美人系の奥さんであえば、自分と一緒にいるところというよりも、一人でいて、その人が自分の奥さんだということをまわりに知らしめることで嫉妬心を煽りたいというそんな気持ちにさせるのかも知れない。

 要するに、

「夫の自分ですら、近づきがたいと思っているほどの、綺麗な女を俺は貰ったんだ」

 という思いである。

 ひな壇にでも飾っておいて、観賞用にでもしたいという気持ちを持つ人が実際にはいることを、今までの数多い犯罪事件を見てきたことで、些細なことが動機になることを知っている清水警部補は、こと動機に関して考えた時、

「普通であれば、こんなことで人を殺そうなんて思わないだろう」

 と思うようなことでも、考えてしまうようになっていた。

 それだけ、犯行動機はどんなところに潜んでいるか分からない。これだけたくさんの人がいるのだから、それぞれ感じ方もものの見方も一人一人違うのだから、何を考えているか分からないと真剣に思える人もたくさんいることだろう。

 そう思うと、それだけで、犯罪の幅は広がってしまう。

「こんなことで、人を殺すなんて」

 と思うような殺人は、なるべく少ないに越したことはない。

 動機に触れた時、まわりの誰もが顔をしかめるような表情をしたり、普段はポーカーフェイスなのに、嫌悪や憎悪を表にあからさまに出すという人を見た時、やるせない気持ちにさせられる。意外と普段表情を変えない人が顔をゆがめると、理性に抑えが利かないような表情になるものなのかも知れないと感じた。

 奥さんは、その時まさにそんな表情になった。憎悪や嫌悪を隠そうとすることもない、いかにもあからさまな何とも言えない表情をした。

 それを見て、長谷川巡査は意外な顔をしていたが、山崎刑事、清水警部補、門倉本部長の表情には何ら変化は訪れていなかった。

 長谷川巡査もまわりの表情に変化がないことにも、不思議な感覚を持っていた。

――刑事さんクラスになると、いちいち人の表情の変化に驚いたりすることはないんだ――

 という心境だったのではないだろうか。

「どうですか? 何か気になることでもありますか?」

 と長谷川巡査の質問に、すでに嫌悪の表情は消えていて、また綺麗な女性の少し憂いた表情に戻った奥さんにそう聞いてみた。

「いいえ、別に」

 と言った、消え入りそうなその声を、

――奥さんとしては、憔悴に押しつぶされそうになっているんだろうな――

 という普通の思いを抱きながら聞いていた。

 今の少し憔悴し、愁いを帯びた表情をされてしまうと、相手に疑念を抱かせる雰囲気がなくなってくるように思えるような効果があるのではないかと、清水警部補は感じたのだった。

「ところで、奥さん。少しよろしいですか?」

 と訊いたのは、清水警部補だった。

「あ、はい」

 と、少々驚いて、清水警部補を見たが、すぐに元の顔に戻った。

「先ほど、署の方でもたぶん、事情をお聴かれになったと思うので、ひょっとすると同じ質問を繰り返すかも知れませんが、そこはご容赦ください」

 と言って、清水刑事は前置きをしておいて、

「奥さんはお名前は?」

「私は、三橋の妻の千恵子と言います。夫とは五つ年下で、三十歳になります。普段は近所のブティックで、アルバイトをしています」

 と言って、またしても受ける取り調べに恐縮していた。

「奥さんか旦那さんが、この道を普段から通っているということはあるんですか?」

 と聞くと、

「いいえ、私は初めてきました。夫も会社の通勤路とはまったく違いますので、なぜこんなところでというのが、正直なところなんですよ」

 と言った。

 どうやら奥さんの千恵子は、旦那が他の場所で殺されて、ここに運ばれてきたということを知らないようだ。山崎刑事がわざと話さなかったのか、それとも現場を見てもらったその時に話そうと思ったのかのどちらかのような気がした。

 わざと話さなかったのは、捜査上の秘密という意味であろうが、やはり二人の行動範囲を考えるのと、本当の殺害現場を探すという意味では、奥さんに隠すまでもないと考えたのが、清水警部補であった。

 山崎刑事もきっとここに連れてきたということは、その時に話そうと思ったのだとうと、清水警部補は思った。

 そこで、山崎刑事には悪いと思ったが、

「実はですね。現場検証から、ご主人は他の場所で殺害されて、この場所に運ばれたのだということが判明しているんですよ」

 というと、

「まぁ、そうなんですの? それは意外ですわ。でも言われてみると、私も主人もこことは何のかかわりもないと思っておりますので、他で殺害されたと伺っても、一瞬、変に感じましたが、すぐにそれもそうかと感じました。ただ、その分、どうしてここに死体が放置されてしまったのかという疑問は残るんですけどね」

 と、最初の驚きから、言葉を止めずに、よくここまで冷静にいえるようになったものだと清水警部補は少しビックリしていた。

「そうですか、やっぱり、ここに来ても何も感じるものはありませんか?」

 と言われて、奥さんはふと思い出したように、

「そういえば」

 と考えながら口ずさんだのだが、

「先ほど警察の方で見せていただいた遺留品というんでしょうか? 主人の亡くなっていた場所の近くにあったというものですね。その中に一つスマホがあったはずなんですが、それがなかったのが気にはなっていたんです」

 と思い出しながら言った。

「どうしてそれを、さっき警察で言わなかったんですか?」

 と訊かれて、

「主人はよくモノを忘れることが多くて、スマホを忘れたまま出勤しようとしたことも何度もありました。あれだけ忘れていれば、普通であれば気になってしまってもう忘れなくなるんでしょうけど、ここまで忘れても気にならないということは、きっと忘れることが癖のようになってしまったんだと、私の方も諦めてしまったような次第なんです。だからあの人の健忘症は、病気なのか、それとも癖がついてしまったことなのか分からないんですよ」

 と奥さんは言った。

「病院で診てもらおうとは思わなかったんですか?」

「主人がまったく病気という意識がないんです。病院で診てもらうにしても、本人が少しは意識していないと、意味がないことだということを聞いたことがありました。だから、医者を勧めることはありませんでした。もし医者の話を出していたとすれば、彼はきっと逆上していたんじゃないかと思うんです。あの人は急に訳もなく怒り出すことがあるので、それも私には悩みの種でもありました」

 と千恵子は言った。

「急に怒り出すというのは、自分が何かの糾弾を受けたり、問い詰められたりした時に、自分で言い訳ができない時など、苦し紛れで逆上するということがよくあります。そういう時は得てして、弱い人間のすることであって、それだけ、苦し紛れを相手に悟られないようにしようと思いながらも、自らで公表しているものだということに気づいていないものなのです。私は結構そういう人を見てきたつもりだったんですが、ご主人もそういう性格だったのかも知れませんね」

 と清水警部補がいうと、

「それは分かる気がします、弱いイヌがよく吠えると聞きますが、そんな感じなんじゃないかって思うんですよ」

 と千恵子は言った。

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