三、


八戸は重たい瞼をこじ開ける。今日はソファではなく、ベッドの上だ。

煙草とすえた匂いは、枕とサイドテーブルにある灰皿から漂うもの。上半身をもたげて周囲を見回す。

散らばった衣服や雑誌、空き缶、プラスチックごみであふれる床や、ラック、本棚、これまた雑多なごみであふれたデスク。

徐々に記憶が蘇る。そうだ、ここは高雄の部屋だ。

海崎が去った後に高熱を出して倒れてしまい、高雄がベッドに担ぎ込んだのだ。

駆けつけてきた医師によってベッドの上での安静を命じられ、高雄と医師の会話をぼんやりする頭で耳にしていた。


「いま……何時?」


枕元にデジタル時計が佇んでいる。

時刻は朝の六時。しかし日付は、倒れた日から更に三日ほど飛んでいた。

ぎょっとして起き上がる。日付感覚が飛ぶほど寝込んでいたのか。あの後うっかり眠りこけたところまでは覚えていたのだが。

カーテンの隙間から日差しが差し込み、薄暗い部屋に光の模様を描く。小さく息をつくと、猛烈に腹が鳴り響いた。

そうだ、まともに何か食べた記憶すら飛んでいるのだ。なにか口に入れたい。


「動かないほうがいいですよ」


ふらつく体に鞭打って立ち上がった矢先に、声。

ぎょっとして周囲を見回すと、部屋の出入り口に女性が佇んでいる。

目の覚めるような夕陽色の髪が目についた。雑に切りそろえた前髪の下で、海のような真っ青な瞳がきらり、と輝く。

髪をポニーテールにまとめ、ワンピースにエプロンという出で立ちで、女性はしずしずと近づいてくる。

ふわっと出汁のきいた香りに視線をずらすと、青年の持つ盆には丼がある。

中を覗いてみると、卵とじうどんであった。黄金色の汁の中に、もちもちのうどんが揺蕩っている。


「あまり何も召し上がらなかったと聞いているので、勝手ながら食事を作らせていただきました」

「え、あ、ありがとうございます……」

「どういたしまして。お隣失礼します」


女は足でざっざっ、と雑にごみを払い、家主の椅子を勝手に拝借し、音もなく座る。

年端もいかないという言葉が似合うあどけなさだ。十代後半くらいだろうか。スレンダーな体つきは、僅かながらに女性的という印象だ。

夏を迎える時期であるにも関わらず、体温のなさそうな白い肌には、汗一つ浮いてない。


「ああ、自己紹介が遅れました。飛鳥あすかと申します。お好きなように呼んでいただければ」

「はあ……」 八戸の視線はうどんと憂離を右往左往する。

「高雄さんから、八戸さんの事はある程度、事情をお伺いしています」

「そう、ですか」 

「事情がおありのようですが、詮索は致しません。……早くしないとのびますよ。うどん」


そこでやっと、八戸は箸を動かし、うどんに口をつけ始める。

飛鳥は静かにそれを見つめたり、部屋の周囲を見回し「それにしてもだらしないですね、相変わらず」と手近なゴミをゴミ袋に押し込んだりなどする。

ふわふわの卵をうどんに絡めてすすりながら、八戸は疑問が湯気のように浮かんだ。


「あの、この事務所にお勤めなんですか?」

「違います」 ばっさりと飛鳥は返す。

「兄の仕事の都合上、よく顔を合わせるくらいでして。あとはハウスキーパーを少々」

「ハウスキーパー」 復唱する。 「かっこいいですね。アルバイトですか?」

「似たようなものです。といっても、高雄さんがこの事務所を設立する以前から似たようなことはやらされていましたけど」


見かけの割に、結構歳は上なのだろうか。

色々聞きたいことはあったが、卵とじうどんと一緒に飲み込んだ。


「付き合い長いんですね」

「ええ、だから今回も呼ばれたんでしょう。気が重いです」

「呼ばれた?」

「厄介な仕事を貰ったと、嬉々とした声で言ってました。

 その上人手が足りないから手を借りたいと仰って、私を指名したわけです」

「……高雄さん、引き受けた時はとっても渋い顔してましたよ」

「今のうちに忠告しておきます。あの人は他人の嫌がることを喜んで引き受けて、楽しみさえ見出すタイプです。そのお怪我が治ったら、とっととあの人からは距離を置くことをおすすめしますよ」


曖昧な相槌を打って、八戸は温かな出汁を啜った。

弱った胃に鶏がらベースの味がゆったりしみていき、気づけば丼は空になっていた。

そうして、噂をすれば影。汚部屋の主が扉を開け、悪びれる顔一つせず、ごみを蹴散らしながら近づいてくる。


「起きたか、八戸」

「あ、おはようございます」

「食欲はあるようですよ。胃に優しいものから食べさせてあげてください。

 病人にカツ丼を食べさせるなんて、正気の沙汰ではないですよ」

「俺はどんな怪我でもトンカツ食えば元気になるもんよ」 高雄がぶすくれて言い返す。

「高雄さんと一緒にしないでください」 


ぴしゃりと飛鳥が言い放ち、高雄は黙り込む。

最後に見た時と違い、高雄の出で立ちが身綺麗なものになっていた。

依頼を受けた時の高雄は、無精髭を生やし、髪も手櫛すら通さないぼさぼさ具合だったが、今は一端の紳士だ。

飛鳥は空の丼と盆を受け取り、立ち上がる。


「で、高雄さん。今回の調査、まさか単独でお受けになるおつもりで?」

「いや、人は集めるだけ集める。警察に先回りされると面倒なんでな」

「左様ですか」 


二人が部屋を去る様を見て、なんとなしに八戸も後に続いた。

廊下からキッチンダイニングに続く短い廊下は、段ボールやペットボトルに阻まれて通りづらい。

彼はどうやって自分を自室のベッドまで運んだのだろう、と疑問が浮かぶ。

キッチンダイニングから応接室にかけては、記憶にあるよりも更に掃除が進んでいた。

察するに、飛鳥が片付けたのだろう。


応接室のソファには、既に先客がどっかりと腰を下ろしている。

高雄よりも巨躯で、筋肉質な優男風の青年だ。頑固そうな直毛の黒髪が揺れ、黒い瞳と視線がかち合う。

青年は慌ただしく立ち上がり、「お邪魔してるッス」と姿勢を正した。

立ち上がると更に巨漢だと分かる。身長なら海崎にも負けていない。

隆々とした筋肉の厚みを考慮すれば、体格なら勝るやもしれないだろう。

この事務所に集まる人間は巨躯しかいないのか?八戸は慄いた。


「善貴、もう来たのか。さっきメール送ったばっかりなのに」

「この辺りが配達地域だったんで、ついでに寄ったンですよう。丁度朝配達が上がりたったし」

「ふうん。店側には言わなくていいのかい」

「俺ンとこの勤め先、基本ノルマ達したらスマホの専用アプリで連絡つけるだけでいいンだ。便利っしょ」

「へー」


善貴と呼ばれた青年は、ぼりぼり頭を掻くと、ちらと八戸を見やった。

きょとっと目を大きく見開くや、はっと息をのんで、高雄に非難の視線を向ける。


「駄目だよ高雄サン、未成年とのインコーは!犯罪!」

「してない。まだしてない。そもそも未成年じゃない。多分」

「成人でもインコーはアウト!ユーカイも!そのうち逮捕されちまうよ!」

「どっちもしてない。合意の上で家に上げてるだけだ。まず人の話を聞け」

「高雄さんは前科しかねーじゃん。信用ならねえもん」


しまいには大の男二人が、みっともなく口喧嘩を始めた。

巻き込まれてはたまりませんねと眉を顰め、飛鳥は八戸を伴いキッチンへと避難する。

あのう、と八戸は声を潜めて、顔を飛鳥の耳元に寄せる。


「高雄さんって、その、話を聞く限りなんですけど、四方八方からすごい言われようですよね。何かあるんですか?」

「無理もありません。高雄さんって美人に目がないので」

「美人に」

「そう、美人に。男でも、女でも」 飛鳥は頷く。 「すぐに手を出します」

「て、手を出す?」

「早い話が、気に入った人を口説いたり、それとなく良い仲になって、俗な意味で懇ろにしてしまうわけです」

「ええと、それってつまり……」

「あまり下品な言い方はしたくないので、想像にお任せいたします。が、それが理由でトラブルも起こしたくらいで」


はあ、と飛鳥はまたも溜息を零し、食器類を洗い始める。

応接室では男どもがまだ口喧嘩に興じている。そのうち関節技が出そうだ。

犬も食わぬなんとやらとは異なるが、八戸もそっと視線をそらす。

飛鳥の水のような瞳が八戸の顔に向けられた。


「心配しているんです。男の方とはいえ、八戸さんも顔がお綺麗な方ですから」

「はあ」

「怪我人ですから、自重はすると思いますけど。手を出されそうになったら、容赦なく歯をへし折っていいですよ」

「そんな方には見えませんけど……」


曖昧に笑って流す。水もくるくるとシンクに吸い込まれる。

男たちがひとしきり互いにヘッドロックを掛け合って疲弊しきった頃合いを見て、飛鳥はお茶を入れ、テーブルに置く。

きっちりと均等に注がれた麦茶の分量に、飛鳥の性格が表れていた。


「さあお二人とも、さっさとケンカに飽きて、そろそろお話し合いしませんか?」


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