中深の章 高雄ジュン

一、



遡ること、ヒフダコ病発生から約数ヶ月前。


始まりは、高雄興信所に入った一本の電話であった。

その日は所長の高雄ジュンが外出していることもあり、固定電話が静かな所内でヴィヴァルディの「夏」を歌っていた。

散らばった書類だの、脇にどけただけの日用品や本類が散らばる居間にも、薄暗いヴァイオリンの音色が響いている。


居間の中央に陣取る黒い革張りのソファで、布団が丸くなっていた。

陰鬱な「夏」の音色に叩き起こされ、布団の中からもぞもぞと、包帯まみれの白い手がのびる。

布団をどうにか引き剥がして、中から青年がひょっこりと顔を出す。


「電話……?だれから、だろ……」


見目麗しい美しい青年である。

歳はまだ二十歳を過ぎて少し経ったばかりといった、どこかあどけなさの残る顔立ちだ。

長い亜麻色の髪の下で、明るい碧眼がきょときょとと眠たげに瞬きする。

眉間に皺を寄せ、筆舌に尽くし難き汚い部屋をぐるうりと一周見やり、音の元を探す。

古びた固定電話からだと気づくと、右足を引きずりながら近寄り、おずおず電話の受話器を取った。


「あのう、こんにちは」

『あ、もしもし高雄サン?俺。新開社の海崎。ちょっと用事があってさ、昼そっち行っていい?急ぎなんだよね』

「あの、僕高雄じゃないです」

『寝ぼけてんのオッサン。フケるならもう少しマシな嘘ついてよね。

13時にはそっち着くからよろしく。あ、飯は要らないから』


会話は澱みなく、電話の向こうは忙しない。

男の声に交じって、路面電車の走行音や信号機が明滅する音楽が響いている。

何か言い返すよりも早く、電話は切れてしまった。青年が呆然と受話器を握りしめていると、玄関で開閉音が響く。

あ、と小さく呟いて青年が立ち尽くしていると、ゆらりと熊のような巨体が、居間に足を踏み入れた。

右手にカツ丼の香りがするビニール袋をぶらさげ、訝る金色の目が青年を見る。

この男は高雄ジュンという名の探偵だ。この高雄興信所の所長であり、家主を兼ねている。

遅めの朝食代わりに、食堂でカツ丼を二人分、テイクアウトしてきたばかりであった。


「何やってんだ、お前さん。どっか電話かけてたのかい」

「あ、いえ。違います、電話が鳴ったもので」 青年はしどろもどろに答える。

「新開社の海崎さんて人から。13時にこっちに来ると」

「電話に出たのか。無視してよかったのに」


高雄は言うと、櫛の入っていない己の金髪をぐしゃりと搔き回し、面倒臭そうに唸るも、「まあいいか」と独り言ちる。

すみません、と青年が反射的に謝罪したが、男は「いいよ別に」の一言で話を切った。自暴自棄でも気を使ったのでもなく、電話がどうでもいいから「いいよ別に」で済ませたに過ぎないように見えた。

それより、と高雄はテーブルにビニール袋を置く。ぐうう、と青年の胃袋が鳴った。


「腹減ったろ。飯にするか」

「でも、お金持ってません」

「怪我人に金せびるように見えるかよ。いいから食え。飢えて倒れちまった方が迷惑だ」

「……いただきます」


青年はゆっくりと、灰皿や紙くず、空のビール缶を押しのけて、ビニール袋からカツ丼を取り出した。

ふんわりと卵とカツ、甘い白米の匂いが胃袋を刺激した。

いただきます、と両手を合わせ、青年はおっかなびっくりカツ丼を口にする。

一口ぱくりと食べると、もうたまらなくなったのか、がつがつと押し込むように食べ始めた。

その様子をしばし眺め、高雄は冷蔵庫へ向かうと、麦茶の入ったピッチャーを出し、コップと共に青年の前に置く。

まもなく青年はカツを喉につまらせかけ、麦茶の世話になることになった。


「ゴミ捨て場で人を拾うたあ思ってもみなかったな」

「僕も、ゴミ捨て場で人間を拾う人がいるとは思わなかったです」

「あ、そお。でもよお、生きてる人間は落ちてたら拾うだろ。多分」

「交番に届けようとは思わなかったんですか」

「財布や鍵じゃあるまいし、お巡りさんが扱いに困るだろ」


高雄は言いながら、テレビを点ける。

チャンネルをいくつか変えると、丁度ニュース番組が放映されていた。

夏に向けて増加する交通事故件数の増加、空き巣の注意喚起を促すもの、隣県で起きた殺人事件、目まぐるしく陰惨な内容をニュースキャスターが淡々と伝える。

その中に、「見目麗しい美青年、ゴミ捨て場に不法投棄される」なんてニュースが流れることはない。


「ブッソーだねえ、世の中。この町もたいがい治安悪いけどさ」

「ゴミ捨て場に人間が落ちている時代ですから」

「お前さんが言うと説得力あるねえ」


みるみるうちに、カツ丼は青年の胃袋におさまっていく。

その食欲を見かねてか、高雄は苦笑いを嚙み潰して「カップ麺、食うか」と尋ねる。

食べます、と青年が反射的に答えると、待ってろと一言添えて、キッチン棚へと向かっていく。

高雄がタイマーをかける間に、テレビの中の人気キャスターは、淡々と次のニュースを読み上げた。


『――次のニュースです。

六月二日、リコリスカンパニー新みらいヶ丘支社から一億円の現金を窃盗した容疑で、夏頭伊仙郎なつずいせろう容疑者ほか三名の従業員が逃亡中とのことです。

警察は市内の住民に情報提供を呼び掛けており、その足取りを追っています……』


「すまん、どん兵衛でいいか。いつもの日清のやつ切らしてたわ」

「リコリスカンパニーって」 青年がぽつりと呟く。

「この町にも支社があるんですね。当たり前だけど」

「ん、ああ。中四国を中心に事業展開しているっつー会社だろ。化粧品とか売ってんだっけ。興味ないけどさ」

「僕、あの会社嫌いです。上は意地悪な人が多いから」

「なんだ、そこに勤めてた社員とかか」

「違いますけど、知り合いはいます。絶対会いたくないです」

「なら安心しろ。支社はここからだいぶ離れてるから、社員の連中に会うこたぁねーだろ」


ぴぴぴっとタイマーが鳴る。湯気を立てるどん兵衛を啜る音が二つ。

立て続けに犯罪に関する内容がおさまった所で、一区切りつけるように、都内の動物園で二つ頭のタコが産まれたニュースが報じられる。

「頭が二つもあるとお得だな」と高雄がどん兵衛の汁に口をつけながらぼやくと、青年は「二つも頭があったらお互いに喧嘩しちゃいますよ」と返した。


「そういや坊主、名前聞いてなかったな」

「あ、えっと。ヤエといいます」

「うん?男にしちゃ変わった名前だな。どう書くんだ」

「漢数字の八に、酒の量をはかる方のです。分かりやすいでしょ」

「いや、分からん。寧ろ知らん。酒を測る単位なんてあるのか」

「あ、すみませんでした。戸棚のとの方です」

「酒の話なんてするから飲みたくなってくるな。タコわさでも買っとくんだった」

「僕も、貴方の名前聞いてません。高雄さん、で合ってますか?」

「そうだ。名字が高雄、下の名前がジュン」

「高雄って、やっぱり高雄ガオション市の方の高雄ですか?」

「分からん。どこだそれ」

「台湾の南の方です。ほら、蓮池潭リェンツータンがあるところですよ。知りません?」

「龍虎塔のか。あの、きんきらきんの寺院とかがある」

「そう、そこです。一度も行ったことはないんですけど、綺麗ですよね」

「俺は寺なんて嫌いだから、一生行くつもりねえけどな」

「……ジュンはどう書くんですか」

「英語だよ。六月のジューンブライドのジューンの方。でも日本語だと変だからジュンって呼んでるだけ」

「六月生まれなんですか?」

「多分ね」


何もかもが曖昧で胡乱で、平和な会話。

高雄が「煙草いいか」と尋ねると、胸ポケットから煙草を取り出す。

嫌だと言ったら吸わないんだろうか、なんて考えたが、「いいですよ」と八戸は促した。

あんがと、と高雄は言うと、ライターを出して、煙草に火を点ける。

煙草のパッケージを見ると、セブンスターであった。


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