─ 幕間 海崎来栖②
深い群青色の中に、意識が揺蕩っていた。
上下左右などとっくに喪失にし、ただここには水だけがあある、という認識だけがある。
けれど体という輪郭をひとたび意識から汲み取れば、視界の真下に足があり、ぼんやりと手や頭、胴体の形だとか、顔の作りを思い出せる。
ああこれは自分の体だ、と認識をあらためた時、足元から無数の泡が立ち上る。
徐々に泡は膨張したり弾けて砕けつつ、まるで細胞分裂するように様々な模様と細やかな凹凸がうまれ、やがて「己」を形作っていく。
その不愉快さたるや、硬質なコンクリートに己の五感を伴う肉をぎゅうぎゅうに押し込んで、後から骨や中身を詰め込まれるような閉塞感。
内側から肺が生じているはずなのに、鼻腔や気管がないために、呼吸が存在しない、緩やかな窒息にも似た何か。
やがてその閉塞感に慣れる頃、肌が出来あがり、人としての形が立派に完成すると、己は「瀧コウヤ」という自我を得ていた。
「どうしたの、ぼうっとして。随分と余裕があるんだね、新人君」
夢の中で作られた鼻が最初に思い出したのは、軽薄な声と、濃密な血の臭いだった。
噎せ返る悪臭は、己の目の前に座る、一人の男から滴っていた。
腫れあがって鬱血した顔には覚えがある。コウヤが所属していた事務所から多額の借金をして、夜逃げ同然に姿を消した債務者の一人だ。
共に夜逃げしたキャバクラの女と、新天地で心機一転やり直そう、という時だったらしい。
現実は大して易くない。就活中にあえなく、事務所の人間に見つかったのが運の尽きだ。
逃げる機会を逃したが最後、人里離れた山小屋に押し込まれ、こうして椅子に括られて、小石や砂利を詰めた靴下でしこたま殴られている次第だ。
「……死にませんか、それ」
「死なない、死なない。死んじゃったら、「居なくなっちゃった」ってことにすればいいでしょ」
軽薄な声の主は、鋭い小石がはみ出た靴下を、ぶんぶんと振り回す。
遠心力で、うぉんうぉんと靴下が唸る音は、蠅の飛び回る音にも似ていた。
椅子に括られて怯える男の鼻頭に、不意打ちで拳を一撃入れる。
ぐごき、っと嫌な音がして、だらだらと汚い色合いの鼻血が漏れた。
山の中は思ったよりも音にあふれていて、虫の羽音と梟の鳴く声が入り混じって、男のくぐもった悲鳴がまじって溶ける。
「これね、スーパーで買ったの。訳あって二百円セールだって。安いよね」
「確かに安いっすね。海崎さんも履くんすか、そんな靴下」
「履くよ、作業する時はね。綺麗な靴下って汚れが落ちにくいんだもの」
「今日も履いてるンすか」
「履いてるよ。訳ありの二百円、ってのがいいよね。人間も訳ありを二百円で売ってくれないかな」
「訳ありの人間なんか買って、どうするんですか」
「決まってるじゃん。沢山借金させて、夜逃げさせて、捕まえて、こうやって椅子に括って、二百円の靴下で殴るんだよ」
「……それ、意味あるんですか?」
「二百円の価値の人間は、二百円の靴下で殴られるくらいが、バランス取れていると思わない?」
海崎について知っていることは、あまり多くない。
コウヤは上半期の時点で逃走した債務者たちを、「先輩」に伴って探してまわり、足りない金額を相応のやり方で「回収」する役目を担うことになっていた。
逃げたら追う。追って、捕まえて、痛めつけて、自分の立場を教え込ませる。
そうして金を稼がせるか、自分自身の体で金を作らせるのだ。
海崎は、そうした債務者達の行方を調査したり、債務者達が金を返済する「あて」を斡旋する仕事をしていた。
時には、コウヤたちの仕事に、気分次第で伴うこともある。
そういった時は、爪を引き剥がしてピンで爪先を押し込んでみたり、てこの原理を使って奥歯をペンチで引っこ抜いたり、バットで顔面を殴ることもあった。
海崎は極道者や暴力団の組員ではなかったが、間違いなく、堅気からは遠い人間だった。
「闇金融に手を出す時点で、情けは要らねえ。望んでドブに浸かる馬鹿だったってだけの話だ。生温い考えを持つ馬鹿に情けをかけると、世間様に迷惑がかかるんだ。割り切りな」
回収の初日に、コウヤの先輩ははっきりと言い切った。
人情がない訳ではないが、人間をはっきりと区別する男であったと記憶している。
なんでもはっきりと区別をつけることを好んでいた。ケーキの等分、ツーブロックのバランス、ポッキーのチョコレートとクッキー部分、堅気と極道、信頼できる人間の可否。
特別好きという感情はなかったが、先輩のそうした「区別」が出来る態度が、好ましいとコウヤは思った。
「いいか、美人だの美形だのには常々、気を配れよ。
特に綺麗な顔をしているくせに、美形を自覚している男はな、絶対信用できないんだ」
先輩はよく、美醜と信頼についての話をした。
美しい人間は、それだけで注目を集める磁力だ。美は視線と意識を攫い、時に判断も鈍らせて狂わせる。
そして美しい人間にも種類がある。
自分の美を認めないがために周りを狂わせる者と、自分の美を利用して周りを操る者。
海崎も、そうした「美しい人間」の部類だ。
顔立ちは整っていたし、二メートルを超える巨体にも関わらず、筋肉質かつ細身の肉体は抜群のプロポーションを保っていた。
とても同い年には思えなかったし、はじめは日本人ですらないのでは、と思ったほどだ。
彼は自身の美貌を自覚したうえで、大いに乱用して、自分の欲に実に素直な振舞いをさらす男であった。
「瀧くんさあ、人殴ったことある?」
「あるには、あります」
「やっぱりグーで殴るの?それともパー?」
「殴るときの状況と、気分次第っすかね」
「じゃあ、バットで殴ったことは?」
砂利石を詰めた靴下を投げ捨て、海崎は転がっていたバットを拾う。
これもドンキホーテで買ったんだよ、と彼は無邪気に笑い、スイングする。
彼は身長相応に筋肉があり、振りかぶるバットが直撃したら、体のどこであろうと骨が砕けることは容易く想像がついた。
コウヤが苦笑いして、「ないっすね」と答えると、そうなんだ、と海崎は相変わらず笑みをたたえていた。
「じゃあ、バット殴りデビューする?」
「え?なにを?」
「人をバットで殴る練習。ここでやろうよ」
ほら、と海崎はコウヤの手を引いて、男の前に引きずり出される。
既に血まみれで息も絶え絶えの顔を見ると、背筋に嫌な興奮と寒気がまぐわって這いずり回った。
じっとりと汗が蒸発する匂いの中で、海崎が後方に回ると、彼の長い黒髪から女の髪と同じ類の、甘い花の香りがすることが、たまらなく不愉快に思えた。
「いい?野球選手じゃないんだから、構え方は自由でいいよ。でもしっかり柄は持ってね」
「ちょっと、待って」
「チキる所じゃないでしょ。初めては誰にでもあるんだから、リラックスして」
海崎の大きな手が、コウヤの手にバットを掴ませ、掌で握りこむ。
先程まで人の血をたっぷり浴びた爪先は、既に固まり始めた血がこびりついて、歪なネイルアートじみていた。
僅かに鮮血でぬめる掌から、コウヤの手の形と握りこむ力を測られていた。
「あの、海崎さん、やるんですか」
「だってお仕事でしょう。先輩に任されたなら、そろそろ痛めつけることも覚えなきゃ」
「でも、いきなりバットじゃなくても。せめてグーで、とか」
「瀧くんは知らないだろうけどさ」
背後から、海崎の囁き声が、蛇のように耳奥へ滑り込む。
「人を痛めつけるときって、拳ってすっごく痛いんだよ。殴る側がさ」
「は、はい」
「痛いと体力を持っていかれるでしょ。沢山のドブネズミからお金を取り戻すなら、体力は温存しなきゃ。道具の使い方をちゃんと覚えないと。でしょ」
「だからってバットは」
「大丈夫、大丈夫」 彼の囁き声は、催眠術をかける時の優しい声に似ていた。
「人って、意外と死なないよ。当て方と、殴る場所さえ選べばね。」
いい?と海崎はコウヤの手ごと握ったバットを、ついと動かす。
教鞭で指す要領で、椅子に括られた肉袋をとんとん、と軽く叩く。
頭、首筋、鎖骨、肩、胸、腹、腕、腹筋、股間、脛、足先。
人の形を覚えこませるように、丁寧にバットの先端でなぞっていく。
「急所は頭と頚椎、内臓ね。あばらも気を付けて。折れて肺に刺さったらアウトだよ」
「叩ける場所が少なくないですか」
「うん、だから狙うなら腕か肩。上手い人はきちんと顎だけ砕くとかなんだけど、瀧くんは初心者だから、殴っても絶対死なない場所から覚えようね」
「は、はい」
弾かれるように首を縦に振っていた。
寧ろ、ここで嫌だ、と言ったら、バットを向けられる先が自分になるという予感があったからかもしれない。
長い睫毛がぱちぱちと瞬きして、「元気あっていいね」と彼は喜んでいた。
他人の喜ぶ顔を見て吐き気を覚えることなど、これまでも、この先もあまりないだろう。
「じゃあ、まず腕と肩、それから足の甲あたりからね。
ここなら折れたって、ちゃんとくっつくから。力任せは駄目だよ、一点を折ることに集中してね」
彼は饒舌に、人の骨が意外にも頑丈で、折れるときは複雑であるかを説明する。
我流だから保証はしないけれどね、俺はこれでいっぱい人の骨を綺麗に折ってきたんだよ、と彼は世間話のように語っていた。
なにより、彼の説明は水がしみ込むように分かりやすくて、子供でも理解できるような口調であることが、おぞましかった。
「口で教えるより、体で覚えるのが一番だよ。何事も、勉強ってやつはね」
おしまいにそう締めくくって、改めて海崎はコウヤの手に自らの両手を添えて、振りかぶる。
腕力そのものはコウヤの方が強いにも関わらず、その誘導に逆らえない。
狙いを定める先は、相手の右腕。海崎は「腕は二本あるからね、一回くらいは失敗しても大丈夫だよ」と励ました。
そんな慰めをくれるくらいなら、この場から逃げ出す権利が欲しかった。
「じゃあ、いちにの、さんで振るからね。その時の力加減を覚えるんだよ」
「は、い」
「いくよ。いち、にの、さん」
その時振るった、腕をスイングする重み。
腕に直撃した時に、バットを通じて伝わる骨との接触と衝撃。
肉と骨を同時に痛めつけた音と、潰れて砕ける感触。
響き渡る、激痛に耐えかねる悲鳴と、糞尿が漏れた時の悪臭。
全てがクリアに、そしてゆっくりと伝わって、体の奥から恐怖と興奮が同時に沸き上がった時のことを、夢であるにも関わらず再生された。
吐き出しそうだった。今すぐバットを手離して、だれかれ構わず罵って逃げ出したかった。
それを許さなかったのは、コウヤより二回りも大きな手だった。
「よく出来ました。次は左腕だよ」
「……ま、まだやるんですか」
「やるよ。足の骨も残ってるから。肩や脛だってあるよ。全部覚えような」
後ろから、コウヤの頭を、海崎の左腕が撫でた。
子供を褒めるときに、父親がそうして撫でる時の所作にも似て、暴れる子犬をあやす仕草に通ずるものがある。
けれど再びコウヤの手に添え直して、再びスイングの姿勢をとる。
吐き出す息ひとつひとつに、気管の粘膜が今にも剥がれてしまいかねないほどの熱が混ざった。
殴られていないのに、血の味が舌の上に滲む。
「全部出来たら、もっといいこと教えてあげる」
そう言って、彼はもう一度、コウヤの腕をスイングさせた。
再び骨がみしりと音を立てて、バットが手の中でびりびり振動する。
何度も、何度も、同じところを殴ってみたり、角度のつけかたを調節して、また殴る。
服の上からでも分かるほどに、ありえない角度へ曲がるまで、何度もバットを振り下ろした。
終わる頃には、相手は悲鳴すら上げることもできず、体から出せる体液は、血液以外は大体出しつくしていたようだった。
殴り続けた衝撃の余韻が、未だ掌の中に残っていて、痺れと痒みを伴う。
それでも、やっと終わったのだと思うと、呼吸だけは少し落ち着いた。
「ちゃんと教えた通りに出来てえらいね。後は先輩たちに任せようか」
「……この人、どうなるンすか?」
「さあ。解体するんじゃないの。内臓で返してもらうって言ってたし」
事も無げに、彼は言った。
目を丸くするコウヤに、海崎は「聞いてなかったの?」と問い返す。
彼の手は既に携帯電話を操作して、彼が勤める会社の系譜だという、人体専門の解体業者に連絡を入れていた。
「今日の人ね、調べたら、もうお金返済できないくらい借金しちゃっててさ。別の所からも借りてたみたいなんだよね。そっちの額もすごいよ」
「え、じゃあ、どうするんすか」
「自己破産するつもりだったみたいでさ。仕方ないから、裁判所に駆けこまれる前に、せめて貸した金の分だけでも取り戻す予定なんじゃない?」
「それ、知ってて殴らせたんですか。俺に」
「前に二百円ジュース代貸したから、返してって言ったら、この人寄越してくれたんだよ。内臓は傷つけないって約束で」
「だから殴ったんですか」
「そうだよ。ついでに瀧君にも、人を殴るコツ、教えようかなって」
「知りたくなかったです」
「関係ないよ。昨日女の子にフラれて、むしゃくしゃしてたんだもん」
脅迫と牽制という意味で、債務者をこうして痛めつけることはままある。
けれどこれでは、まるでこの男の憂さ晴らしのために、バットを握らされたようなものではないか。
唖然とするコウヤの前で、海崎は業務連絡を終えて携帯電話をしまうと、煙草の火をつける。
「でもまだむしゃくしゃするんだよね。瀧くん、この後空いてる?」
「まだ何かするんですか」
「うん。ホテル行こ。灰皿になってよ」
ホテル、と復唱する。そう、ラブホテル、と海崎が更に重ねがけて告げる。
首を縦に振ったか、横に振ったか、記憶にはない。
返事の是非はさておき、彼の運転する車に乗せられて、最寄りの安いラブホテルに押し込まれたことだけは確かだ。
「手軽に誰かを痛めつけたい時って、知ってる誰かとの合意のないセックスが一番だと思わない?」
夢の最後に、彼はベッドに寝そべって、うっすら笑っていた。
初めてその時、コウヤは思い知った。
世の中には、自分の理解を超える「最低」な誰かが沢山いること。
海崎来栖という男は、その中でも飛びぬけて理解しかねる、最低の男だということ。
顔の美しい人間の中には、己の欲望のままに他人を振り回して、誰も彼もを狂わせて壊す人間がいるということを。
コウヤの背中に刻まれた根性焼きの跡が、未だにその証明を思い出させてくれた。
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