⑭
その日も、雨は降り続き、空模様が晴れることはなかった。
梅雨がぶりかえしたような雨空を恨みながら、小野と有田は相変わらずぎこちないどじょうすくいのような踊りを舞い、コウヤは「あれに果たして晴れ乞いの効果はあるのか」とそろそろ訝り始めていた。
二人の苦労を嘲笑うように、また雷雲がごろごろ音を立てて寝そべり、夜も昼も分からない有様だった。
「あぢー……干物になっちまうよお」
「タコだけにサキイカとか?」
「笑えんからやめようぜ、そのジョーク」
「そもそもタコはイカじゃないです、有田さん」
「似たようなもんだろ、足の数が違うくらいじゃないか」
「全然違うッス!まずタコとイカは分類からして違うッス!タコは八腕形上目 、十腕形上目ッス!」
「違いが分からん……」
「それに違うところはまだまだあるッス!まず吸盤の形状!
タコの吸盤は吸いつくタイプっすけどイカの吸盤は鉤爪に近いンす!
スミの使い道や特徴もそう!イカはダミーを作るために粘っこいスミが出るんスけど、タコのスミは煙幕だからサラサラのスミが出るんス!でも栄養度でいえばタコスミの方が上なんスよ!」
「へえ~、意外とタメになる知識」
「イカは泳ぎながら生活するけど、タコは海底で住処を作って隠れながら生活するンす!住処を大事にするからタコは綺麗好きなんスよ!
それに知能でいえばタコは無脊椎動物の中で唯一道具を使うことも出来るし、学習能力だってとっても高くて、道具を使って身を護ったり、ジャムの瓶を開けたり、道順を覚えることだって出来るし……」
「あーもーコウヤさんそこまで!その話何度目だよ、耳がタコになっちまう!」
「瀧くんってタコのことになると目の色が変わるよね……」
「やめだやめだ、寝ようぜ!寝れば少なくとも暑さは忘れる!」
うだうだと集まって雑談に興じていたものの、面々は暑さと一部の暑苦しさに押し負けて解散してしまった。
夏の夜半は蒸し暑く、じくじくと汗の粒が肌に浮かぶ。
大学棟の誰もが寝静まる深夜二時。
雷雲こそ遠のきはしたものの、真夜中になっても、ざあざあと空が喚く音が止むことはない。
ベッドの上で、コウヤは何度目かの覚醒に至った。
とてもじゃないが、肌を刺すような熱のせいで、眠れる気になれない。
何度も浅い眠りに誘われては、嫌な気配が脳みその端から蝕んできて、はっと飛び起きる、その繰り返し。
陰鬱な気持ちになってしまい、すっかり目が冴えてしまった。
隣のベッドからは安らかな寝息が聞こえる。
起こさないようにそっと出て、共同生活スペースに向かう。水でも飲むか、さもなければ気晴らしが欲しかった。
「――ん?はたかちゃん?」
スペースの一角にあるソファで、はたかが一人座って、黙々と本を読んでいる。
彼女が眼鏡をかける姿を見るのは、学生時代以来だ。
コウヤの気配に気づいてか、はたかは面をあげて小さく声を漏らすと、遠慮がちに頭をさげる。
スタンドライトに照らされるはたかの肌は、青白いを通り越して、青い血が透けて見えるんじゃないかと思わせる。
彼女に流れる血のことを考えると、青い血を見てしまったことに対して、不思議な罪悪感を抱く自分がいることに気づかされる。
「瀧くん。……眠れないの?」
「寝つき悪くてさ」 誤魔化すようにコウヤは頭を掻く。
「そっか。こっちおいでよ」
手招きされ、はたかの隣に腰かける。コウヤの重みでずず、とクッションが沈んだ。
クーラーを除湿モードにしているようだが、室内全体が蒸し暑い。
けれどスクティラの暮らす水槽室の周辺からは涼やかな空気が漂う。
はたかはライトの光を少し和らげて、本を閉じる。タコについて記録したレポートのうちの一冊だった。
ふう、とどちらのものともつかぬ溜息の音が響く。
会話はなく、その間を取り持つように、静かな雨の音ばかりが窓を叩いていた。
「足名さん、亡くなったんだね」
ぎくり、として振り返るコウヤと、はたかの曇り空の目がかちあった。
網膜、光彩から、頭の中の情報を全て読み取られているような錯覚さえ覚える。
いつ聞いたんだろう。誰も彼の死に関しては口を固く閉ざしていたはずなのに。
「スクティラから聞いたの」
「なんで彼女が知っているんだ……あ、いや、テレパシーの力?」
「うん。私を、そして皆を通じて、スクティラはリアルタイムで外界を把握している。隠し事は通じないの。彼女にも、そして私にも」
「そっか。……誰かには言った?」
「言ってない。足名さんだって、きっと言いふらされたくないもの」
三堂の言葉を思い出す。
端末であるタコを通して、知識や情報を共有しているという話。
彼女の告白は、それを裏付ける証拠でもある。
悲しげに目を伏せて、レポートノートの表紙を撫でる。
黒い鉛筆の掠れた跡が残る、かなり使い込まれていたんだ表紙には、子供の落書きのようなタコの絵が踊っている。
ひょうきんなどじょうすくいめいた、珍妙な踊りを舞う姿にも似ていた。
「足名さん、優しくて穏やかな人だったから。
どうして自殺なんてしたんだろうって考えていたら、眠れなくなっちゃって。
せめてノートにヒントがないかなって思って読んでいたの。
真矢くんもそうしていたから……」
「そう。……何か分かった?」
「ううん。静かな人だったからかな、書いていることも、とりとめもないことばかりで。ここでの生活は気に入っていたみたいだけど。
タコちゃんのことも大切にしていたし、ここでの生活でトラブルなんか一度も起こしたことなんてないし……」
駆け去るように雨音が止んだ。
打って変わって、水の中に沈んだような静けさと僅かな耳鳴りが、広い部屋を満たしていく。
窓から見える空は、変わらずどんよりと真っ黒に塗りつぶされて、ライトの明かりだけが二人を照らしていた。
はたか越しにライトスタンドの紐を引っ張ると、光が一段階暗くなって、少しだけ部屋が夜の彩に近づいた。
「でも、こんな夜中まで本を読んでいたら、体調崩すよ」
「平気よ、昼間に沢山寝たもの」
「だから眠れないんじゃない、きっと」
「そうかも」
少しだけはにかんで、亜麻色の髪が、コウヤの肩に寄り掛かった。
彼女は何度体を洗っても、潮の気配が混ざっている。
荒れ狂った波がようやくおさまった後の、少し尖った海風の匂いに似ている。
たおやかな、夏の死が鼻腔をくすぐる。けれど、どこかに捨て置いた懐かしさに近いものも漂わせてくる。
心をそわそわさせて、頭がより冴えてしまう。
ぴたりとくっついた肌の冷たさと、自分の右腕の冷たさが同じであることにはっとする。
彼女から、より体温を奪ってしまっている気がした。
「はたかちゃん、寒くない?」
「平気。コウヤくんがあったかいからかな」
「なら良いけど」
微睡む声をもらし、はたかは身を寄せる。
魚は人肌の体温で火傷するという話を思い出す。
スクティラの影響下にある今、体に変化が起きているのではないかという三堂の考察が脳裏に浮かんだ。
もし体に変化が起きているとすれば、自身やはたかもまさに、魚の肌になってしまったのだろうかと考える。
だとするならば、そのうち水もない環境での呼吸が苦しくなったりするのだろうか。
ただでさえ息苦しいこの世界が、ますます暮らしにくい世界になると思うと億劫だった。
「このまま、ちょっとだけ肩、借りてもいい?」
「良いよ。でもちゃんとベッドで寝なきゃ」
「分かってる。でも、コウヤくんの匂い、安心するから」
だんだんとはたかの声が眠気を帯びて、寄りかかった重みに腕を添える。
匂い、と言われて咄嗟に自分の掌を嗅いでみたが、自分の匂いなんて分かるはずもないと直後に気付いた。強いて言うなら焼いた小麦粉の匂いがするかもしれない。
「明日、クレープが食べたいなあ」とはたかがぼやいた。
「バナナとチョコのやつ?」
「そう。アイスものっけるの」
「じゃあ、明日食べよう。一緒に」
「うん」
次第に、静かな寝息が聞こえてくる。
ちょっとだけ瞼を閉じて、肌を蝕む熱が少しましになったら、部屋に戻ろう。
コウヤはふうと息をつくと、傍にいる由美子に「あとで起こしてくれる?」と囁いて、自分も瞼を閉じた。
〇
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