「――着替え終わって、皆で撮影しようという話になって。

 多目的室なら人も来ないし、広いから、集合写真を撮ろうってことになったんです。

ここに来た時は、足名さんが一人で、スケッチをしていました。一人で黙々と。

皆は着替えに手間取っていたので、やることもないし、お話をしながら待っていたんです。

真矢くんは足名さんと仲がよかったから、一緒に写ろう、って声をかけました。

肩を軽く触った途端、足名さんがすごい声を上げて、真矢くんを突き飛ばしたんです。

吃驚しました。足名さんがあんな風に怒鳴るところを見るなんて初めてでしたから」


三好のそばで、真矢は真っ青になって脱力し、腕にしがみついていた。

太く逞しい少年の腕が、真矢を抱き寄せて、背中をぽんぽん叩く。

三好はつとめて冷静に状況を説明するものの、震えそうになる声を必死に抑え込んでいるようだった。


「癇癪かと思って、俺とはたかさんが止めに入りました。

途端、足名さんは持っていた杖を振り回して、殴り掛かってきたんです。

思わず反撃しちゃったけど、でなきゃ殴り殺されたかも。

杖が窓に当たって割れて、足名さんは窓に向かって駆け出していました。凄まじい声を上げながら。

飛び降りる気だ、って気づいて、はたかさんが止めに入りました。足名さんのタコも、一緒になって止めようとしたんです。

足名さんは……持っていた杖で、自分のタコを殴り潰してしまいました。ぐちゃぐちゃの肉の塊になって消えてしまうまで、何度も、何度も。

 はたかさんが「やめて」と叫んで杖を取り上げようとしたら、胸を杖で突かれて倒れてしまって。

 その後はもう、俺も頭が真っ白でした。飛び降りようとしていたんで、三人でどうにか落ちないようにしがみつくだけで精いっぱいで……」

「うん、うん、事情はよく分かった。よく頑張った、三人とも。

心苦しいだろうけど、しばらく待機してもらえるかな。後は私が救急隊の人たちに説明するから」


事情をすっかり聞き終えて、三堂は「けがはあるかい?」と質問し、真矢たちの状態を確認する。

コウヤは手についた青い血をぬぐいとり、はたかの胸に手を当てる。

触れる限りでは、骨が折れている様子はない。

三堂がコウヤの背中に近寄って、「彼女は?」と問いかける。


「気絶してるだけみたいッス。呼吸もあるし、怪我もないッス」

「よかった、ステッキで殴られたと聞いたから心配したよ。無事で何よりだ」


普段の剽軽で突拍子もない態度はどこへやら、珍しく厳しい表情で、三堂は足名に視線を向ける。

彼は手の甲に、小さな友人を飼っていた。

コウヤも遠目に眺めるだけだったが、足名は口数少ない代わりに、タコに「てなこ」と名づけて可愛がっていた。

まさかこんな悲惨な末路が待っているなどと、思ってもみなかったのだ。

その場にいる誰もが、言葉を失ったまま、救急隊を待った。


十分後、救急隊が駆けつけ、足名老人は病院へと搬送された。

概ねの事情は三堂がタコの件を伏せながら説明したようで、足名老人は認知症を患い、ヒステリックに陥ったのではないかという結論が出た。

真矢はこの件ですっかり参ってしまったようで、まる一日、コウヤの傍から離れなかった。


「足名おじいちゃん、ここ最近ずっと、変なコト言ってたんだ」


夜眠る前、真矢はぽつりと言った。


「夢で見た景色によく似てるって」

「夢?」

「いずれ迎えが来る。ヤマの復活の時が来る。まもなくだって、待ち焦がれた日が来るって、目が蛇みたいにぎらぎらしてた」

「なんだろうね」

「分かんない。たまに足名じいちゃん、スクティラをすごく丁寧に描いているときもあって。

 なんていうか、ビョーテキだった」


病的、といった矢先に、ぱっと真矢は自分の口を両手で覆った。

言ってはいけないことをつい漏らしてしまったと、罪悪感に苛まれる顔をした。

真矢を心配するように、「ショウちゃん」が真矢の顔に体をこすりつける。

その小さな体を掌で包んで、真矢は深い溜息を漏らす。


「潰されたのが、ショウちゃんじゃなくてよかった。

 あの時の足名おじいちゃん、皆あの杖で叩き殺してやるって目をしてた」


真矢は両手にショウちゃんを包んだまま、ベッドに転がる。

深夜の零時を過ぎても、誰もが息をひそめるみたいにして、来ない眠気を待っていた。

真矢はショウちゃんを掌から放すと、枕に顔を埋めて、囁いた。


「足名おじいちゃん、叫んでた。

『星が道しるべを示した。みんな海にかえる。命はヤマにのまれて海にかえされる』って。

 荒波が岩を叩くときみたいな、濁って響く声だった。

 あれはきっと、足名おじいちゃんの声なんかじゃない。別の誰かの声だった」


翌朝、三堂の元に連絡が入った。

足名が搬送先の病院で亡くなったそうだ。

目を覚ますなり暴れて、宥めようとする医師や看護師たちに襲い掛かったらしい。

激しく抵抗し、足名老人は自身の病室から飛び降り、頚椎を骨折し死亡した。

自殺したという情報は、一部の人間にだけ告げられ、三堂は「くれぐれも、彼の死は知らせないでくれ」と固く念を押したのだった。

悲しい結末を迎える形で、この大学棟から一人、仲間が減った。


足名が亡くなって数日。断続的に、雨が降る日々が続いた。

タコたちは雨が好きらしく、特に土砂降りの日や湿度が高い日は元気になっていた。

相反するように、宿主達はこの湿度と雨にうんざりしていた。特に学生たちは「早く晴れないかな」と悪態をつきつつ、茫漠と空模様を睨む。

空が晴れなければ、花火大会は出来ない。

そのうち小野と有田は「晴れ乞いでもするか」と言いだし、珍妙な踊りを舞い始めた。

どことなく酔っぱらいのどじょうすくいに通ずる珍妙ぶりであった。

部屋に満ちる陰鬱な空気を取っ払いたい気持ちもあったのかもしれない。空も部屋の重苦しさも晴れることはなく、徒労には終わったが。


「はたかちゃん、もう歩いて大丈夫?」

「うん、へいき。ただ、昨日の記憶があんまりなくて……」


はたかはというと、あの事件の後、程なくして目を覚ました。

頭を打った影響なのか、足名との争いのことはあまり覚えていなかったらしく、どこかぼんやりとした様子だった。

怖い記憶を忘れていることが幸運というべきだろう。

青い血については、質問することが出来なかった。出来る空気でもなかった。

足名がいなくなったことを寂しがってはいたが、とてもあの顛末を語る気にもなれず、現場にいた全員が沈黙していた。


「真矢くん、大丈夫かな」

「足名さんのことがあってから、すっかりだんまりになっちゃって。やっぱりショックだったのかな」


ランや三堂は、足名の一件以降、真矢の精神状態を心配しているようだった。

彼女等の心配も無理らしからぬことではある。

足名が大学棟を去ってからというもの、真矢は彼の記録を片っ端から漁るようになったのだ。

その熱心ぶりはもはや、知的好奇心を通り越して偏執的ですらあった。

尤も、土方や今鵺はそれを「研究者気質だ」「将来はこの大学の門をくぐることになるかもしれませんね」などとポジティブに受け止めていたが。

当の真矢は周囲の声などそっちのけで、分厚い本を読み耽っていた。


一方で、三好も塞ぎがちになっていった。

食欲はあれど、硬い表情が増え、共有スペースに居る時間も減っていた。

有田と小野が三好を笑わせようとふざけてみたり、構ったりしたが、かえって怒らせたり、三好を気難しくさせるだけ。

入院中の幼馴染の元に通い詰める時間は増えて、眉間の皺が深く刻まれるばかり。


「分かってるんです。元気づけようとしてくれるってことは。

でも……ここんとこ、色々ありすぎて。息が詰まっちゃって。

俺、こんなに余裕ない奴だったんですね……」


三好は眉尻を下げ、コウヤとランに申し訳なさそうに語った。

ただでさえ、訳の分からない生き物に寄生され、学校にも満足に通えないのだから、不安はひとしおだろう。

彼にとって、病院で眠り続ける幼馴染の元に通い詰めることが、唯一の癒やしであるらしかった。


「照れ臭い話、彼女が好きなんです。目が覚めたら、色々話したいことがあって。

お医者さんは、ずっとこのままかもって言ってたけど……諦めたくないんです。

イイの……俺のタコにも、会って欲しいし。きっと仲良くなれると思うから」


三好が笑う時といえば、幼馴染の少女について話す時くらいだ。

そんな三好を気遣ってか、彼のタコ「イイ」は、よく彼の好きな百合根のバター炒めをコウヤにせびったり、由美子や他のタコたちと一緒に、三好を元気づけようと、有田と小野が踊っていた珍妙なダンスを披露してみせたりした。

もっとも、ダンスを見た三好は「風邪を引いて苦しんでるんじゃ」と困惑し、イイを抱えて射羽たちのもとに血相を変えて飛び込んでいったのだが……。

こうした行動を取るタコは以前はいなかったようで、教授陣はとても興味深いと言いながらその様子を観察していた。


「瀧くんが現れるまでは、見られなかった活動だ」

「より大きな個体ほど、複雑な感情を理解して共感する傾向が見られるようだな。

今の彼らは人間でいう十歳児くらいの知能はあると見ていいだろう」

「それって凄いンすか?」

「凄いなんてものじゃない。賢く社会性があるとされる生き物はそれなりにいれども、言葉を解したり「どう慰めれば相手が喜ぶか」を具体的に計画して実践する生き物なんてのは殆どいないからね」

「これまで能動的にこうした行動を取っていなかったことも鑑みた上で考察するなら……間違いなく、ターニングポイントは君達だね。瀧くん、由美子くん」

「はあ……あんま、実感ないスけどね」


思いやりの行動は、少しずつ他のタコたちにも浸透していった。

最初の行動から一週間も経つころには、おかしなダンスで笑わせようとしたり、気を引いてみたり、どこで覚えたのか「おてつだい」を申し出るタコも現れた。

こうした変化を喜ぶ宿主もいれば、訝る宿主もいたりと、反応は様々。

三好といえば、「イイ」のダンスに癒やされるようになり、少しずつ笑ったり、冗談を言えるようになっていった。

タコたちにはアニマルセラピーに類似する効果もあるとみて、「これは良い「変化」の傾向だな」と射羽は頷くのだった。



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