⑪
掃除はゆうに二時間ほどかかった。
結局雨が止むことはなく、二人は土方から傘を借りて、元来た道を戻る。
雷雨はますます激しさをますばかりだ。すれ違う人の姿は殆どない。
たまに学生が乗る車とすれ違う程度で、窓から身を乗り出して「今日の花火大会は中止でーす」とメガホンでアナウンスして回っていた。
車に道を譲るように、道路から少しそれた芝生の上を歩く。車両進入禁止の看板がべっきりへし折れて、悲しく黄昏ていた。
「車入っちゃ駄目ってあるけど、いいのかな」
「あの看板、とっくの昔から壊れてるもの。先生も怒らないし、いいんじゃない?」
「そっか」
「土方先生は嫌がるかもね」
「車が嫌いみたいだし」
「排気ガスもイヤっていうわりに、先生も愛車持ってるんだよねえ」
「好き嫌いと便利は別なんだと思う、きっと」
「そういうもの?」
「便利は魔性だからね」
スニーカーが水を吸って、ばすばす、水と空気が一緒に抜ける情けない音を鳴らした。
激しい横薙ぎの風が吹いて、傘がぼきりと折れてしまった。
あ、と二人して呻き、そこから先はやや小走りで、萩地区の研究棟まで向かう。
すこし黙って、髪から滴る水飛沫をはらい、コウヤが再び口を開く。
「浴衣、着れると思ったのにねえ」
「仕方ないよ、雨だもの」
「晴れたら着ようと思った?」
「……、……あ、ランさん」
はぐらかすように、はたかが視線をそらした。
色褪せた古いポストの隣で、傘を持ったランが佇み、二人へにっこり笑いかけていた。
「借りた傘が折れている頃かと思いまして」と、彼女は新しい傘を二人に差し出した。備品が少ないため、一本しか持ち出せなかったと彼女は言った。
「持ってきてくれたんですか。ありがとうございます」
「いえいえ、サーターアンダギーも作り終わって、退屈でしたので」
「なんで傘が壊れているなんて分かったんスか?」
「私、魔法使いですから、ちょっと先の未来も見えるんです」
人差し指と親指でつくった輪を片目にあてて、ランは悪戯っぽく笑う。
本当か冗談かはさておき、彼女のそういった仕草や言葉には、不思議な説得力がある。
彼女が未来を見たなら、きっと見たのかもしれないし、現に彼女は傘を持ってきてくれたわけである。
なんとも不思議だけれど、見ると嬉しくなる手品を見せてもらったような気持ちになる。
一瞬ぴんと張った緊張感がとけて、ランは揚げたてのポテトが沢山つまった袋をちらつかせた。
「戻ったらおやつにしましょう。屋台の試運転をしていた学生さんから戴いたんです」
「たこ焼きも食いたいッスねえ」
「あら、サーターアンダギーも美味しいです。食べてください」
「全部食べればいいじゃないですか」
わいわい言い合いながら、古大学棟まで足を運ぶ。
「浴衣の話をしていたのですよ」とランはポテトをひとつつまむ。
「せっかくの花火大会なのに、自分たちだけ閉じこもってじめじめしているのは、つまらないだろうって話をしていたんです」
「でも雨降っちゃいましたね」 はたかの声が少し強気に遮った。
「だから予行演習ってことで、先に浴衣の着付けだけ練習しようって話をしていて」
さも聞こえなかったように、ランがにこりと続けた。
「はたかさんも練習しましょうね。浴衣」
「いや、私は」
「俺も見たいなあ、浴衣」
「ちょっと、瀧くん」
「射羽先生が「気分だけでも」って、近所の呉服屋さんで浴衣をレンタルしてくださったらしくて、先ほど届いたばかりなんです。
今、射羽先生と憂離さんが、着付けの本を読んで練習していらっしゃる頃だと思います。
で、勿論お手伝いいただけますよね、はたかさん」
「……ずるくないですか?数で囲むのって」
共同生活スペースに戻ると、女性陣が肩を組んで自撮りをしているところだった。
蓮の花や金魚の柄の浴衣を着て、色んな角度から、うきうきと浴衣を着た面々を写真におさめていく。
「おかえりなさい。男子の分も届いてるよ、浴衣」
「お、マジっすか。更衣室は?」
「あっち。はたかちゃんもおいでよ」
「ちょっと待って、私濡れてるから、今着たら浴衣が……」
「うわ二人とも、びしょびしょじゃん!シャワー浴びといでよ、風邪ひくよ!」
小野が二人の濡れ鼠ぶりに気づくと、慌ててタオルを手に二人をシャワー室へ連れていく。
デジャブを覚えつつも、絢に背を押された。
コウヤが男子更衣室に入るすがら、女子更衣室からランとはたかの会話が聞こえてくる。
「そういえば私、屋台建てる手伝いしてたんですけど、不思議な人に声をかけられたんです。ナンパっていうんですかね、あれ?」
「ランさん、美人だし目立ちますもんね。大丈夫だったんですか?」
「人探しだとおっしゃっていたので、少しお話したくらいですよ。
なんというのでしょうか、女慣れしている殿方という印象でしたね。
途中から人探しとは無関係な話ばかりされて、あ、これナンパされているのかな、ってようやく気づいて。
見かねたのか、通りかかった有田さんが「これ、俺のカノジョだから」って連れ出してくださったので、事なきを得ました」
あはは、と笑い声を最後に、シャワー室の引き戸が開く音と閉じる音が、間髪入れずに響く。
そのやりとりが、なんとなく心の隅に引っ掛かり、コウヤは脱いだ服をロッカーに押し込めて、「黒島さん」と声をかける。
シャワーの音に交じって、ランの「なんでしょうか」という返事が聞こえる。
メッセージでも送っているのか、しゅぽんっと軽快な電子音がした。
「そいつさ、名前とか分かるー?」
「え?」
「さっきはたかちゃんと話してた、ナンパ男さん」
「お名前、ですか。矢継ぎ早に色々話されたものだから、名前までは……」
また、しゅぽっと軽快な音がした。
断続的にやり取りが続いているらしい。ぱちぽち、とメッセージを素早く打つ音がする。
シャワー室に入り、ざっと湯水で体を洗って、すぐに出る。
温度は低めに設定したはずなのに、湯があまりに熱く思えて、長く浴びる気になれなかった。
ロッカー内に置いてある着替えに袖を通し、濡れた服を鞄に押し込んでいると、話し相手がほしいのか、またランの声が響く。
「あ、思い出しました。お連れの女性に、海崎、って呼ばれていましたよ」
ばん!と激しくロッカーの扉を叩くが、更衣室じゅうに響く。
ランが驚いたのか「大丈夫ですか?」と声をかけてくる。
じ、と目の前のロッカーを凝視する。
力強く閉められた固い扉が、あり得ない形状にひしゃげ、奇妙な粘土造形よろしく変形している。
僅かに言葉を失い、最初に思ったことは、「ロッカーって弁償したら幾らかかるんだろう」という心配だった。
○
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます