掃除はゆうに二時間ほどかかった。

結局雨が止むことはなく、二人は土方から傘を借りて、元来た道を戻る。

雷雨はますます激しさをますばかりだ。すれ違う人の姿は殆どない。

たまに学生が乗る車とすれ違う程度で、窓から身を乗り出して「今日の花火大会は中止でーす」とメガホンでアナウンスして回っていた。

車に道を譲るように、道路から少しそれた芝生の上を歩く。車両進入禁止の看板がべっきりへし折れて、悲しく黄昏ていた。


「車入っちゃ駄目ってあるけど、いいのかな」

「あの看板、とっくの昔から壊れてるもの。先生も怒らないし、いいんじゃない?」

「そっか」

「土方先生は嫌がるかもね」

「車が嫌いみたいだし」

「排気ガスもイヤっていうわりに、先生も愛車持ってるんだよねえ」

「好き嫌いと便利は別なんだと思う、きっと」

「そういうもの?」

「便利は魔性だからね」


スニーカーが水を吸って、ばすばす、水と空気が一緒に抜ける情けない音を鳴らした。

激しい横薙ぎの風が吹いて、傘がぼきりと折れてしまった。

あ、と二人して呻き、そこから先はやや小走りで、萩地区の研究棟まで向かう。

すこし黙って、髪から滴る水飛沫をはらい、コウヤが再び口を開く。


「浴衣、着れると思ったのにねえ」

「仕方ないよ、雨だもの」 

「晴れたら着ようと思った?」

「……、……あ、ランさん」


はぐらかすように、はたかが視線をそらした。

色褪せた古いポストの隣で、傘を持ったランが佇み、二人へにっこり笑いかけていた。

「借りた傘が折れている頃かと思いまして」と、彼女は新しい傘を二人に差し出した。備品が少ないため、一本しか持ち出せなかったと彼女は言った。


「持ってきてくれたんですか。ありがとうございます」

「いえいえ、サーターアンダギーも作り終わって、退屈でしたので」

「なんで傘が壊れているなんて分かったんスか?」

「私、魔法使いですから、ちょっと先の未来も見えるんです」


人差し指と親指でつくった輪を片目にあてて、ランは悪戯っぽく笑う。

本当か冗談かはさておき、彼女のそういった仕草や言葉には、不思議な説得力がある。

彼女が未来を見たなら、きっと見たのかもしれないし、現に彼女は傘を持ってきてくれたわけである。

なんとも不思議だけれど、見ると嬉しくなる手品を見せてもらったような気持ちになる。

一瞬ぴんと張った緊張感がとけて、ランは揚げたてのポテトが沢山つまった袋をちらつかせた。


「戻ったらおやつにしましょう。屋台の試運転をしていた学生さんから戴いたんです」

「たこ焼きも食いたいッスねえ」

「あら、サーターアンダギーも美味しいです。食べてください」

「全部食べればいいじゃないですか」


わいわい言い合いながら、古大学棟まで足を運ぶ。

「浴衣の話をしていたのですよ」とランはポテトをひとつつまむ。


「せっかくの花火大会なのに、自分たちだけ閉じこもってじめじめしているのは、つまらないだろうって話をしていたんです」

「でも雨降っちゃいましたね」 はたかの声が少し強気に遮った。

「だから予行演習ってことで、先に浴衣の着付けだけ練習しようって話をしていて」

さも聞こえなかったように、ランがにこりと続けた。

「はたかさんも練習しましょうね。浴衣」

「いや、私は」

「俺も見たいなあ、浴衣」

「ちょっと、瀧くん」

「射羽先生が「気分だけでも」って、近所の呉服屋さんで浴衣をレンタルしてくださったらしくて、先ほど届いたばかりなんです。

 今、射羽先生と憂離さんが、着付けの本を読んで練習していらっしゃる頃だと思います。

 で、勿論お手伝いいただけますよね、はたかさん」

「……ずるくないですか?数で囲むのって」


共同生活スペースに戻ると、女性陣が肩を組んで自撮りをしているところだった。

蓮の花や金魚の柄の浴衣を着て、色んな角度から、うきうきと浴衣を着た面々を写真におさめていく。


「おかえりなさい。男子の分も届いてるよ、浴衣」

「お、マジっすか。更衣室は?」

「あっち。はたかちゃんもおいでよ」

「ちょっと待って、私濡れてるから、今着たら浴衣が……」

「うわ二人とも、びしょびしょじゃん!シャワー浴びといでよ、風邪ひくよ!」


小野が二人の濡れ鼠ぶりに気づくと、慌ててタオルを手に二人をシャワー室へ連れていく。

デジャブを覚えつつも、絢に背を押された。

コウヤが男子更衣室に入るすがら、女子更衣室からランとはたかの会話が聞こえてくる。


「そういえば私、屋台建てる手伝いしてたんですけど、不思議な人に声をかけられたんです。ナンパっていうんですかね、あれ?」

「ランさん、美人だし目立ちますもんね。大丈夫だったんですか?」

「人探しだとおっしゃっていたので、少しお話したくらいですよ。

 なんというのでしょうか、女慣れしている殿方という印象でしたね。

途中から人探しとは無関係な話ばかりされて、あ、これナンパされているのかな、ってようやく気づいて。

見かねたのか、通りかかった有田さんが「これ、俺のカノジョだから」って連れ出してくださったので、事なきを得ました」


あはは、と笑い声を最後に、シャワー室の引き戸が開く音と閉じる音が、間髪入れずに響く。

そのやりとりが、なんとなく心の隅に引っ掛かり、コウヤは脱いだ服をロッカーに押し込めて、「黒島さん」と声をかける。

シャワーの音に交じって、ランの「なんでしょうか」という返事が聞こえる。

メッセージでも送っているのか、しゅぽんっと軽快な電子音がした。


「そいつさ、名前とか分かるー?」

「え?」

「さっきはたかちゃんと話してた、ナンパ男さん」

「お名前、ですか。矢継ぎ早に色々話されたものだから、名前までは……」


また、しゅぽっと軽快な音がした。

断続的にやり取りが続いているらしい。ぱちぽち、とメッセージを素早く打つ音がする。

シャワー室に入り、ざっと湯水で体を洗って、すぐに出る。

温度は低めに設定したはずなのに、湯があまりに熱く思えて、長く浴びる気になれなかった。

ロッカー内に置いてある着替えに袖を通し、濡れた服を鞄に押し込んでいると、話し相手がほしいのか、またランの声が響く。


「あ、思い出しました。お連れの女性に、海崎、って呼ばれていましたよ」


ばん!と激しくロッカーの扉を叩くが、更衣室じゅうに響く。

ランが驚いたのか「大丈夫ですか?」と声をかけてくる。

じ、と目の前のロッカーを凝視する。

力強く閉められた固い扉が、あり得ない形状にひしゃげ、奇妙な粘土造形よろしく変形している。

僅かに言葉を失い、最初に思ったことは、「ロッカーって弁償したら幾らかかるんだろう」という心配だった。


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