「わ、雨!」

「走れ走れ!」


土砂降りの中、駆け足で目的地である大学棟に向かう。

大学旧二号は、建物全体が荘厳な空気を纏う、煉瓦の建物だ。建造されてかなりの年月が経っていることが窺い知れる。

広々としたロビーに入ってすぐ、鮮やかな金髪の男と目が合う。土方漆ひじかたうるしだ。

何度か話した程度の仲だが、気さくで話しやすく、距離感がそれとなく近い男性という印象だ。鮮やかな金髪のせいでよく目立つ。

彼はびしょ濡れのコウヤとはたかを見るなり、「こっちにおいで」と声をかけた。

連れていかれた先は、館内にある彼の研究室。

彼は自身の研究室に入るなり、まだ未使用の、コンビニに売られていそうな新品のタオルを二人に差し出した。


「通り雨にやられたんだろう。災難だったね」

「ありがとうございます、土方先生」

「タオル、洗って返すッス」

「気遣いは無用だよ。これは僕のお節介みたいなものだから」


雨音が勢いを増して、空がますます翳った。

どお、んっと雷の音。遠いどこかで雷雲が猛っているらしい。

飛沫で煙る窓の外を眺めながら、土方は「これはしばらく居座りそうだね」と呟く。

外で準備をしていた学生達が、わっと蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていく。

人がいないことを確かめ、由美子がぷるぷると出てきた。雨のせいか、心なしか肌がいつもより潤っている。


『すごいおとがする……』

「雷だよ。大丈夫、ただ煩いだけだから」

「しかし、三堂が悔しがるだろうね。このまま夕方まで雨が続くようなら、今日の花火大会は延期だな」

「残念ですね」

「しかし、必ず花火大会は決行するだろうさ。この学園ときたら、奇天烈な祭りのためなら命も惜しまないからね」

「そんなことで命駆けないでほしいんですけど……」


土方のデスクの上には、スクティラや子供達の精緻なスケッチ、各宿主たちの写真が添付されたインタビュー記録が置かれてあった。

何気なく視線を向ける。記録は二種類に区分され、片方の書類はコウヤのインタビューが一番上に載せられている。

もう片方の書類に記載された人物名や写真は、どれも見覚えがないものだ。

土方が振り返ると、「見てもそんなに面白くないよ」と一言添える。


「すんません、勝手に見ちゃダメでしたか?」

「いいや、特に。大して秘匿すべきデータはないからね、気になるなら読んでもいいよ」

「そっすか。この人たちは?」

「タコが消滅したり、事情があってもうインタビューを取れなくなった人達の記録さ」


ぱらぱらとめくっても、大抵は顰め面をしてこちらを睨んでいたり、つまらなそうに沈んだ目をしている人間と目が合うばかりだ。

タコが出現して消滅するまで、大抵は3日、あるいは一週間程度という人間ばかりであったようだ。

インタビューは筆記と動画撮影の二種類で行い、筆記では簡潔に内容をまとめたのみであるらしい。

見ても面白みはないな、と気づき、ナンバー順に整理するだけにとどめる。

コウヤからコメントがないことに肩を竦め、土方はファイルを整理し始めた。

掃除の途中だったようで、古くなった資料や小説の類が軒並み引き出されていた。

手伝いますよ、と二人が声をかけると、「ありがたいね」と土方ははにかんだ。


「二人とも、そういえば用事があったんじゃないのかい」

「その用事が、土方先生のお手伝いです」

「三堂先生に代理を頼まれまして」

「あいつ、またサボりやがって。今度は何やってるんだか」

「学園内で勝手に演奏して回ってるマンドリン奏者がいるらしくて、その人を捕まえに行きました」

「捕まえた生徒には単位を出すらしくて、マンドリン奏者とはタッグを組んで『AGT(※)』に出演するって息巻いてたッス」

「また訳のわからんことを……後で今鵺にチクってやる」

(※アメリカズ・ゴット・タレント。アメリカのオーディション番組)


ちぇっと土方は舌打ちする。 

彼の愚痴を聞き流しつつ、研究室の掃除に手をつける。埃が舞い、小さなくしゃみが出る。

彼の蔵書の大半はルーマニア語であった。残りはドイツ語、ハンガリー語、フランス語、そして日本語の蔵書が十数冊程度。

当たり前だが、コウヤもはたかも、本の殆どはタイトルすら読めない。

研究室には美しい大自然や崩壊した古城の写真だとかが何枚も貼り付けてあり、煩雑に見えて精緻なポジションと角度に設置されていた。

中でもひときわ美しいのは、青々とした木々に取り囲まれた赤い屋根の古城だ。

崩れかけた白い外壁と柔らかなオレンジがかった赤色の屋根のコントラストが美しい。

写真を眺めていると、背後からするりと土方が寄ってきて、「気になるかい」と城の輪郭を指で撫でた。


「僕の生まれはトランシルヴァニアというところでね。ルーマニアの中心部あたりで、ブラン城の近くだ」

「この写真に写ってるお城ですか」

「チョップしたら花粉がいっぱい出そうッスね、周りの木が」

「ちょっと瀧くん、風情なさすぎ」 はたかが軽く小突く。

「ははは、向こうはスギよりもブタクサやカモガヤの花粉症が多いけどね」


土方は手近にあったタブレットを開いて、画像を見せる。

黄色く慎ましやかな花や、どこにでも生えていそうな青々とした植物が映し出される。

他にも、牧草に寝転がる馬や、ぼんやりと空を見上げる小鳥、綺麗な小川で気持ちよさそうに泳ぐ名前もしらない魚が、スライド式に流れてくる。

どれもトランシルヴァニアで撮ったものだと土方が言う。

あまり人の画像がないな、とコウヤが思った矢先、変顔をしてアップで写る教授たちが不意打ちで飛び出し、二人して噴き出した。

その反応に満足して、土方はタブレットを仕舞う。


「トランシルヴァニアが好きだったよ。

 夏には葉が鮮やかに色づいて、瑞々しい風が体いっぱいを満たしてくれる。

 冬は雪景色に城が覆われて境界が分からなくなる瞬間がたまらなく好きだよ。

 城の中を歩くと、足音がベルの反響みたいに厳かに響く音が今でも懐かしい。

 もっとも、城は今となっては博物館だし、大きな道路が目の前にあって、

 車がお構いなしに走っているもんだから、情緒なんてものはないけどね」

「過去形なんですね」

「車の音や排気ガスの匂いが大嫌いなんだ。胸やけがする」

「それを抜きにしたって、綺麗なところじゃないですか。自然がいっぱいで」

「自然豊かで見晴らしがいいという点なら、僕はポエナリ城のほうが好きだけどね。道路もないし、敵に攻め入られることもない。

 もっとも、外観は地味だし熊もうようよ出るし、交通インフラが最悪だけど、そこだけ目をつぶれば、僕はあっちに住むほうがよかったな」


まるで住んでいたみたいに言うんだな、二人して眉を顰めるものの、何も言わずに掃除を再開した。

壁の写真は全て丁寧にはがし、アルバム用のファイルに詰めていく。

後期から別の学舎に研究室を移すから、今の内に掃除をしなくちゃいけないんだ、と土方は溜息をついた。

目の前にある大量の蔵書やサッカーボール、大量の動物の骨だの、意味もなく集めたであろうワイン瓶の列を見れば、大抵の人は掃除を嫌がるだろう。

掃除をしながら、土方は言う。


「僕がこの大学に就職を選んだのも、以前はもっと自然が多くて静かだって聞いたからさ。

 まだアメリカにいた頃だったかな、日本にいた知り合いが「静かな所が好きだっていうなら、良いところがあるよ」って誘ってくるものだから、

 気まぐれに、騙された気になってもいいかなと思って赴いたのがきっかけでさ。

 なんだかんだ、十五年は居座っているかな。こんなに賑やかすぎる場所だなんて分かっていたら、もう少し違う身の振り方を考えていたかもしれないが」

「でも、辞めないんですね」

「この町のちょっと濁った空気が、僕の性に合ってるのさ。皮肉なことにね」


いつ購入したかも分からないカップ麺を見つけてしまい、はたかが苦い顔でゴミ袋に放り捨てる。

その横で罅が入りかけた粘土のオカリナを拾い上げ、「これ要る?」とコウヤに押し付ける。捨てるには忍びないが、自分が使うでもない物の始末に迷った末の手つきであった。

由美子が興味を示して『なににつかうの?』とオカリナをぺたぺた触っている。楽器と言って通じるだろうか、と試しに息を吹き込む。音は出なかった。

その様子を伺い見て、感心した顔で土方は整った顎髭を撫でる。


「まあ、ここに身を置いていたからこそ、こんな珍しいものを研究できているわけだし、長い人生、何が起きるか分からないなあ」

「そうッスねえ。俺がタコに出会えたのも、運命ってヤツっすからね」


うんうん、とコウヤも感慨深げに頷く。

短い触手で由美子がぺちぺちとオカリナを叩いて、音を出そうと躍起になっていた。

ふふ、とはたかがオカリナをハンカチで包み「小野くんなら直せるかな」と呟いて、残りのごみをやっつけにかかった。


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