ー 幕間 海崎来栖① 



 ○


初めて出会った時、はたかは高校一年生だと名乗った。

コウヤが初めて新みらいヶ丘市に足を運び、店を開いて三日目のことだ。

彼女は今よりも小柄で、学生服に着られているようで、とても鬱屈とした目をしていた。

私服も地味な色ばかりで、髪も黒く染めていた。亜麻色の地毛は教師に目をつけられるからだと、彼女は後に寂しげに語った。


「貼り紙を見て来たんです。高校生以上で料理できるなら年齢不問って」

「確かに書かなかったけど、君、料理できるんスか?」

「一応は。お願いです、どうしてもお金が入り用で」


あまりにも必死だったので、他に人手もないし、とコウヤは彼女を採用した。

実際、助っ人としては十二分なほどに戦力となってくれた。

手先はそれなりに器用だし、気配りもできる。

声が小さいこと以外に、特に彼女の欠点はないように見えた。

それに何より、彼女はコウヤのタコ好きを好意的に受け入れてくれる人のひとりだった。

材料の仕込みのために、いけすの前で何時間コウヤが粘ろうとも、はたかは文句ひとつ言わず付き添っていた。


「瀧さん、本当にタコが好きなんですね」

「まあね。見ていて飽きないし、食べても飽きない」

「好きなのに食べちゃうんですか」

「可愛いし、好きだし、だから食べるよ。愛情がなくちゃ、きっとタコは食べれない」

「なるほど」


高校に通う彼女から得られる情報は、限られた程度のものだった。

血の繋がりがあるかも怪しい、祖父母と二人で生活していること。そう離れていない学校に通っていること。

一つ上の彼氏がいること。友達はいないこと。

あんまり学校は好きではないこと。

飼育小屋で飼っているウサギが可愛いこと。

口数は少ないけれど、彼女は思い出したみたいに、自分のことを話す。

コウヤのことについて根掘り葉掘り探りを入れないところが、好感が持てたし、なんとなく居心地はよかった。


「その首の痕、どうしたの」


二年目の夏に、何気なく尋ねたことがあった。

出会った時からはたかの首には、ぐるりと一周するように赤い奇妙な痣があった。

それは彼女が髪を伸ばす一因でもあったと、後に知ることになる。

彼女はこともなげに言った。


「今付き合ってる人が、首を絞めるのが好きなんです。

「お前は緩いから」って。酸素が足りないと、全身がきゅっと固くなるのがいいんだ、って」

「な……」

「大丈夫ですよ。手加減はしてくれるし、現に一度も死んだことはないですから」


言葉を失い、それ以上は何も追及しなかった。

彼女もそれを承知であるかのように、それ以上は語らなかった。

けれど数日後の雨の夜、店じまいをしようという時に、彼女が店まで来た。

ぜえぜえと荒く息をして、顔も手も足も痣だらけだった。

どうしたのかと驚き、彼女をタオルで拭いていると、堰き止めていたものが溢れ出すみたいに、彼女は話し始めた。


「殴られると痛いのは知っていたけど、怖いと思ったことはなかったんです」

「うん」

「殴らせてほしいって言ってくれたら、まだ我慢できたのに、

 いきなりだったからびっくりして、どうしよう、戻らなきゃいけないって分かってるんですけど、

 沢山いるんです、男の人に沢山囲まれて、好きでもないし知らない人もいっぱいいて、どうしていいか分からなくて、気づいたらホテルから出ていて」


混乱しているのか、彼女の口からは涙の代わりに、誰に向けているかも分からない言い訳ばかり溢れてくる。

「恋人」とやらと何があったかは、容易に想像できた。

震える体は、冷えているだけではないと分かっていた。

ブーッブーッとアラームが鳴る。はたかは携帯電話の画面を開き、さっと顔が青白くなった。恋人の名前が表示されているのだろう。


「戻らなきゃ」

「だめだ」


咄嗟にコウヤの手が、通話ボタンを無理矢理切った。

「だめ!」とはたかが青ざめて携帯電話を奪おうとしたが、体格差ではとてもコウヤにかなわない。

彼女をあの場に戻すという選択肢を、流石に選べるほど冷酷にはなれない。

だから代わりに、コウヤは車内の仮眠スペースに彼女を押し込める。

また鳴り出した携帯電話をひったくって、その場で電源を切って投げやった。


「乾くまでここにいて。そんなびしょ濡れだと、風邪ひいちゃう」

「でも」

「たこ焼き食べよう。な。試作作ったからさ、味見してよ」

「戻らないと怒られる」

「怒られない。大丈夫。俺がなんとかするから」


まだパニックを引きずる彼女を、どうにか宥めすかす。

翌日分の仕込みの生地や材料を引っ張り出して、その場でタコ焼きを作る間、彼女は呆然としてコウヤの背中を見つめていた。

ぐつぐつとタコヤキの表面が泡立つのを、じっと見つめることで、心を平静に保った。

そうして出来上がったたこ焼きを差し出され、はたかはぽかんとしたまま口にして、「おいしい」と呟き、無我夢中で食べた。

食べながら、彼女の目から次第にとめどなく涙が出た。

たこ焼きにまけないくらいの大粒の涙だった。


「う、えうっ、ぐうっ、ううううぅぅぅ……」

「急いで食べると詰まるよ。熱かった?」

「うううん、うううううう、おいしい、あつい、おいしいっ……」

「そっか、そっか。タコ焼きは逃げないよ、ゆっくり食べな」

「うん、うん、ふぐっ、えう、あうううう……」


食べるだけたこ焼きを頬張って、余った素材でバナナチョコのクレープも作って、それすらも全部平らげていた。

疲労と緊張からか、はたかは仮眠スペースに横になって、そのまま眠ってしまった。

よく見れば、肌には痣だけでなく、殴打や根性焼き、針を刺した痕跡もあった。


無断で見るのは気が引けたけれども、投げ捨てた彼女の携帯電話をそっと開いて、中身を見る。

電源をつけると、恋人の名前と共に、着信履歴が執念深く表示されていた。

画像ファイルを開く。半年ほど前に保存した画像が最後だ。

最新の画像に、はたかと一緒に写る男子学生が写っている。

女慣れしてちゃらちゃらした男を想像したが、その反対で、爽やかで生真面目そうで、暴力と無縁そうな男だった。


「しつこい男は嫌われるっつうの」


これだけ執念深く電話をかけているなら、おそらく近辺にまだいて、彼女を探しているのだろう。

さてもどうしたものか。瀧コウヤは生憎、ヒーローではない。

正義の味方を目指したことなどないし、期待されたくもない。かといってこの場で何もしないわけにはいかないのだ、きっと。


暫く悩んだ末に、コウヤは逡巡して、一人の男の元に電話をかけた。

”彼”にだけは頼りたくなかったが、荒事に慣れていて、荒事に首を突っ込みたがり、荒事に巻き込んでくるのは大抵”彼"だった。

今回くらいは、こっちから巻き込んでやったって、ばちは当たるまい。

コールが鳴ってきっかり8回目に、しぶしぶといった具合で通話が繋がった。


『おう、何の用だクソタコ野郎。冷やかしなら切るぞ』

「うるせえ下半身脳みそ1マイクロ野郎。ちょっと手を貸せ」

『三回まわってチンチンのあとにワンが言えたら、耳だけ貸してやる』

「俺が間違ってた。お前の彼女のメグちゃんに三股の話してもいいってなら切るぜ」


舌打ちの後、席を立つ音が聞こえる。

数十秒後、あからさまに苛立った声で男の声が響く。


『はい、こちら新開情報株式会社、営業担当の海崎来栖です。ご用件をどうぞ、お客様』

「タチの悪い高校生のガキがいるんだ。名前と顔、携帯番号なら割れてる。どうにかして”穏便”にことを済ませたい」

『かしこまりましたあ、後ほどそちらに向かいますねえ~。

 ――事の次第じゃ、テメエもろとも八つ裂きにして山に埋めてやるから覚悟しな』


この電話以降、目を覚ました彼女を家まで送り、海崎を待った。

入れ替わりに現れた海崎に、コウヤは「穏便」に済ませる方法をいくつか提示され、一番まっとうな方法で、海崎はことを「終わらせる」と約束した。

翌日以降、恋人と連絡がつかないことを、はたかは不思議がっていた。

家にも学校にも、どこにも彼の姿はなかったそうだ。

数日後に彼の失踪届が出され、その話はそれっきり打ち切られたらしい。


それから更に暫くして、今度はコウヤの電話番号に非通知で電話がかかってきた。

掠れた男の声が、電話口で大音量で喚いていた。


『お前のせいだ、聞いたぞ、お前が俺を地獄に堕とせって言ったそうだな、

 ゆるさない、お前のせいで俺の人生は滅茶苦茶だ、殺してやる、絶対殺してやる、

 お前を見つけてアイツもろとも海に沈めてやる、覚悟しろ、絶対にだ、

 ここを出たら絶対に、』


言いたいだけ喚いた矢先に電話は切れた。

電話の主がどこの誰で、何をしているのか、どこから逃げていたのかは分からない。

けれど個人情報が漏れた先は大体予想できたので、悪態をつきながら電話番号を変える羽目になった。

そしてそのたびに思うのだ。

頼った自分も悪いのだが、やっぱり海崎に関わるとろくなことはないのだな、と。


 ○

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