⑨
七月半ば。
ますます夏が猛威を振るい、蝉の合唱が響く。
大学内は、ここ連日、夏休みであるにも関わらず人で溢れかえっている。
老いも若いも混ざって、めいめいが敷地内で屋台の準備や工作に励み、正門や学舎を夏の装いに飾り立てている。
時節は「やまかみおろし」を目前にして、新みらいヶ丘は西も東もおおわらわの頃である。
由美子は掌の中から、そっと外の世界を垣間見ていた。
『おとうさんみたいな人がいっぱい!』
「学園祭でもあるの?」
「ああ、そろそろ花火大会の時期だから」
『はなびたいかい?』
「夜の空に、炎と光で色んな模様を描くお祭りだよ」
『すごおい!ゆみこも、みたい!』
由美子が手の中ではしゃぐ。
コウヤとはたかは目を見合わせて、和やかに笑んだ。
祭りはいいものだ。人の生命力や活気というものを、五感で感じることが出来る。
やまかみおろしは、市内の殆どの人間が参加するだけあって、その活気もひとしおだ。
「見れるよ、今夜。人がいっぱいくるよ」
「にしても、花火大会のわりに、結構大がかりなんだなァ」
「門大の花火大会は、ちょっと変わってるの。
屋台も出して、皆で大騒ぎしながら花火を楽しむお祭りだからね。
山の方に打ち上げるための装置を用意してあるらしくてさ。
工学部の皆と花火師さんが一丸になって、花火を咲かせるわけ。
丸一夜かけてばんばん休みなく花火をあげるから、毎年近所から苦情が来るんだってさ。絶対やめないんだけどね」
「騒音問題じゃないか、それは」
「門代大学ですから」
コウヤは、はたかと二人でシャラ地区をめぐっていた。
今鵺教授のお使いのさなかである。
学園内は呆れかえるほど広いため、運動もかねて、宿主達は教授や生徒たちの「おつかい」を頼まれることが度々ある。
時に厩舎の清掃を手伝うだとか、教授の講義の準備だとか、はたまた備品の運搬だとか、おつかいの内容は様々だ。
大半の生徒たちは「どこかの学部の生徒だろう」「教授たちの関係者だろう」と思い、深入りせず頼みごとをしてくる。
教授などは、懐の次第ではちょっとしたお小遣いを渡してくれるので、真矢や学生たちなどは快く引き受けていた。
『あの木はなあに?』
「沙羅双樹よ。シャラとか、夏椿とか、サルスベリとか、色々名前があるの」
『たくさん名前があるの!いいなあ。由美子もいっぱい名前ほしい!』
「そんなにいっぱいあっても、呼ばれたら分からなくなっちゃうよ?」
『それもそっかあ。じゃあ、やっぱり由美子は由美子でいいや』
由美子の声につられ、沙羅双樹の木々を見る。
木に梯子をかけ、生徒たちがシャラの花弁の一枚一枚に毛筆で流れるような字をしたためている。
全員タオルを巻いて、汗だくになり、花弁を手汗まみれにしないよう細心の注意をはらう。
「何やってるの、あれ」
「花弁に古事記とか日本書紀を書き写してるの」
「なんでまた?」
「この大学の頓珍漢な伝統なんですって。しかも決まって美術科と哲学科の人たちの仕事らしいの」
「大変そうだね。あれも花火大会の一環ってやつなの?」
「そうだよ。いかに綺麗に書けるかってコンテストも兼ねているみたいよ。優勝すると賞品がもらえるの」
「いいなあ、何がもらえるの。単位とか?」
「新しいゲーム機とか、パソコンとか、ポメフライ人形とかだってさ」
「最後のやつ、いるかなあ?」
「私は欲しいよ。ハムカツの匂いがして美味しそうなんだもん」
「フライなのに……?」
話しながら、敷地の地図を確認する。
シャラ地区は特に坂が多い。
上がっては下りの繰り返しで、ぽつぽつと高等学舎やグラウンド、アーチェリー場、第二図書館などが、蜃気楼の揺らぎの向こうに見える。
何度か、荷台をがらがらと押す学生たちとすれ違う。中には浴衣を着た女学生の姿もあった。
浴衣の袖がひらひらと、金魚のひれのようにはためく。名残惜しそうに、はたかの曇り目が華やかな朱の袖を見送る。
「浴衣が気になる?」
「ああいうの、一度も着たことないなあ、と思ってさ」
「着ればいいのに。似合うよ、きっと」
「お金がないの。私、ビンボー人だから。もうちょっとお金ためておけばよかったな」
舌を出して、はたかは再び歩き出す。
サマーパーカーと素肌の隙間に、うなじの汗が、伝って吸い込まれていく。
日焼けて少し赤くなった首筋を見るうち、不意に彼女の首筋に手をそわせてみる。
「ひゃっ」と素っ頓狂な声をあげ、はたかは驚いた顔でコウヤに振り返る。
やけに自分の右手が冷たい。それともはたかの首筋が熱かったのだろうか。どちらだろう。
「なに、なに。どうしたの」
「痕が消えてるなって」
思ったままの言葉が出た。
合点がいったのか、はたかが「ああ」と小さく声を漏らした。以前よりもっと痩せて見えたのは、見間違いではなかったらしい。
右手の掌が少しじんじんと疼く。熱湯をかぶったみたいな熱さに近い。
日が南の空を陣取って、アスファルトがじりじり熱を照り返す。
「着てみたい?浴衣」
「ちょっとはね」
「後で先生に聞いてみようよ。レンタル屋さんに借りにいけるかも」
でも、と二の句を告ぐ前に、小さな手を握った。
互いの指先は異様に冷たくて、自分の手先の境界が水に滲んでいくようだった。
じんわりと腕から掌の方に熱が集まってくる感触を噛み締めるようにして、先を急ぐ。
しばらく無言で歩く。木々の梢と蝉の歌が、夏を歌っている。
夏は気を抜くと、蜃気楼がすべて幻だったと嘯くみたいに、景色のなにもかもを奪い去ってしまうんじゃないか、そんな妄想を抱かせてくる。
毎年上がりつつある気温のせいかもしれないし、紋田山の向こうにもくもくと聳える入道雲が妖怪のように見えるせいかもしれない。
二人で歩くさなかに、はたかが呟く。
「瀧くんって、たまにずるいよね」
「そうかな」
「着てみたい?って言われたら、着たいって言うしかないじゃない」
「じゃあ、本当は着たくない?」
「どっちでもいい。瀧くんは鈍いから」
拗ねたみたいに呟くけど、手を振りほどこうとはしない。
本当は何を言うべきか知っている気もしたけれど、それを俺が言うのは何か違うんじゃないか、とコウヤも口を噤む。
「あとたまに、敬語が抜けてる」
ぴ、っとはたかの自由な手が、コウヤの二の腕をつつく。
「そういうところが、ずるいと思う」
「そうでもないよ」
視線をそらし、空を仰ぐ。
昼間だというのに、空がにわかに昏くなっていく。
雨が降らなければいいけど、と思った矢先、ざあっと弾丸のように雨飛沫が降り注いだ。
二人はきゃあきゃあ悲鳴をあげ、笑いながら校舎の道を急ぐのだった。
〇
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