朝の六時半。それが瀧コウヤの一日の始まりだ。

それは大学内での共同生活が始まっても変わらず、アラーム音が聞こえなくとも、自然とぱっちり目を覚ます。

見慣れぬ天井とベッドに最初はぎくり、と驚くものの、次第に頭が起きてくると、記憶が蘇ってくる。

掌の中で、由美子もむにゃむにゃと寝言を呟いている。スクティラと顔を合わせて以降、由美子の声がはっきり聞こえるようになった。


「おはよう、由美子」

『おはよう、パパ。おなかすいた』

「そうだね、何か作るか。確かコンロと冷蔵庫あったよね」


どっこいせ、と身を起こすと、2mほど離れたベッドから子供の唸り声が聞こえる。

同室の七生真矢が起きたらしい。寝癖のついたふわふわの髪がひょっこり顔を出す。ネザーランドドワーフみたいだ。

くああ、と大きな欠伸をして、真矢はもぞもぞとベッドから出てくる。


「おふぁよ、おじさん」

「あれ、起こしちゃったッスか」

「へーき。前の人も早起きだったから、もう慣れた」

「へえ。どんな人だったンすか?」

「綺麗な男の人だったよ。カセーフってのやってたって。

あの人のご飯、すっごく美味しかったんだよなあ」


この研究棟は、一階に小さな食堂があり、それを改造して共同生活スペースとして利用している。

そのため、食事を摂るために必然と、共同スペースで面々と顔を合わせることになる。

時間帯によっては会えない人間もいたが、大抵は全員と挨拶を交わしたり、食事をすることが多い。

食事は大体はたかをはじめとした、料理の腕に覚えがある者が自主的に作っているようだ。

時には弁当屋に頼むこともあったようだが、配達にきたお兄さんにうっかりタコを見られて以降、料理を自作することが多くなったという。


「ちょっと前までは八王寺先輩、ハル、俺、ランさんのローテだったんですけどね。瀧さんが来るまでは」

「小野君たちに任せると、大体変なものが出てくるのよね」

「かといってランに任せると、沖縄料理しか作らねえし、つまみぐいする奴もいるし」

「つまみ食いは大罪ですからね。罪は重いですよ」

「次にやったら鼻の穴に練りワサビの刑とかにしようぜ。農学部にすげ~辛いわさび作ってるやつがいるんだってさ」

「えぐい、罰がえぐいよハル!」


宿主になって一番長いという、小野と有田。

小学校時代からの腐れ縁であるとは二人の談。大学内では、はたかの一年後輩であるという。

互いに「ハル」「ヨキ」と呼び合い、だいたい集団の中心にいるのがこのコンビだ。

二人の明るさと剽軽でとっつきやすい性格からか、この集団生活でなにかと笑いがたえない。

小野はリアクションが大げさで、なにかと怖がり。

有田は真逆で、アルカイックスマイル以外の表情がないため、何を考えているか分からない。

そんなアンバランスな二人だからこそ、ばかな悪戯を仕掛けたり、ふざけあう二人に挟まれるうち、生活に慣れる者が大半だ。


「おじさん、けっこう料理上手だね」

「料理できなかったらタコ焼き売れないッスからね!」

「それもそっか。うん、うまい」

「たこ焼きも食うッスか?」

「あははっ、朝からは重いって!」


同室の真矢は、いざ会話をしてみると、すぐに打ち解けることができた。

普段は警戒しているモルモットみたいにむっつりした顔をしているものの、いざ口を開くと人懐こく、はきはきと物を言う男の子だった。

聞けば、歳は九歳になったばかりであるらしい。

「おじさんがあと三日早く来ていれば、俺の誕生日パーティー出られたのにな」と彼は笑っていた。

本来なら側に親がいるべきはずの年齢だが、彼は家族がいなくてもしっかりとして、寂しいなんて顔をこれっぽっちも見せない子供だった。


「親御さんがいなくて寂しくないッスか?」

「ぜんぜん!ここ、面白い人いっぱいだし、ゲームいっぱいやっても怒られないし。むしろサイコー!」

「それは確かに、男の子からしたらサイコーっすね。ここは」


事実、真矢は両親と離れ離れであることに、然程ダメージを受けていないようだった。

小学三年生にしてはゲームが異様に上手で、近くの宿主たちを捕まえては、よく一緒にゲームをし、年上たちをコテンパンにする。

そんな彼の相棒は、うなじからうまれたタコで、「ショウちゃん」という名前だ。スクティラの子供たちは皆、少女の声をしているが、真矢は構わず男の子の名前をつけたらしい。


「ショウちゃんは俺の、一番の友達なんだ」

「へえ」

「あ、タコじゃなくて、人間のほうだぜ。勿論、タコのショウちゃんは大好きだけど

、こっちのショウちゃんは家族だから」

「友達の名前を付けたんスか」

「うん。早く仲直りしたくてさ。名前を呼ぶ練習に丁度いいかなって」


真矢は友達の話をする時、すこし寂しそうな顔をする。

タコのショウちゃんが生まれてくる少し前に、彼は一番の友達と喧嘩をしたという。しかも、理由はゲームだった。

「三年生にもなってゲームに夢中だなんてガキっぽい」と切り捨てられてしまい、カッとなって喧嘩になり、口を利かなくなったのだそうだ。

コウヤからしてみれば、三年生で「ゲームはガキっぽい」と言い切るなんてよほどおませだな、とくらいにしか思えないが、真矢にとっては死活問題だろう。

子供にとって世界はとても狭く感じる。友達一人失うだけでも、世界の見え方はがらっと変わってしまうものだ。


「ショウちゃんはああ言ってたけど、俺はゲームが大好きだし、ショウちゃんともまた遊びたい」

「大好きなんスね、ショウちゃんのこと」

「うん。ま、アイツが反省するまでは言ってやらないけどね。俺だけ大好きだなんて、なんか……そう。フェアじゃない」


小生意気な子供ではあったが、夏休みの宿題を前にすると、彼は借りてきた猫のように大人しく手を付けていた。

その理由が、黒島ランだ。

大学生と家庭教師を両立しているのだと彼女はいう。


彼女は自身の大学の課題をこなしながら、同時に真矢の宿題をチェックしたり、同じ大学生である小野や有田の課題の面倒まで見ていた。

真矢は母親が熱心なプロテスタントであり、ランも養父が牧師であることから、どことなく通じ合うものがあったのかもしれない。

普段は「女の子とは話をしない」という真矢も、ランには不思議と素直に懐いていた。

ランは淑やかで口数が多い方ではないが、不思議と見てきたようにぴたりと言い当てたり、確信を突く物言いをして、周りをぎょっとさせることがあった。

特に悪戯好きな男衆にとって、ランはちょっとした天敵のようなものだった。

例えば、有田がふざけて激辛ベビーカステラを作り、他のカステラと混ぜてランダムに周りへ手渡した時だ。

彼女だけはカステラを一つ、ぴたりと激辛味をまさぐり当てて、有田の口にえいやっと押し込んだという。

激辛ベビーカステラに悶絶する有田へ、ランは穏やかな凪のように微笑んだ。


「食べ物で遊んじゃ駄目ですよ。これは戒めです、ちゃんと反省してくださいね」


それ以降、有田は迂闊にランの傍へ近寄ろうとさえしなくなったほどだ。

尤も、後日懲りずに「ロシアンたこ焼き」を作ろうとして、「たこ焼きを侮辱しやがって」と激怒したコウヤに、文字通りタコ殴り一歩手前まで追い回され、今度こそ反省する羽目になるのだが、それはまた別の話。

それだけでなく、真矢が真夜中にこっそり食べ物をつまみ食いすることを予見したり(「だってすごくお腹が減るんだもの!」と真矢は食事量改善を求めた)、

教授たちへの悪戯を思いついた男性陣たちにそれとなく警告したり(今鵺教授にばれた際は全員が「ルンバへのラブレター」を書かされる罰を受けた)、

なにかと相手の動きを見ているかのようだった。


「ランって魔法使いみたいだ」

「実はそうなのですよ。私、魔法が使えるんです」


一度、メンバーの一人が呟くと、耳聡くランは笑顔でそう返したという。

中にはランが魔法を使った瞬間を見た、なんていう者もいた。

未確認生命体がいるくらいなのだから、ランが魔法使いでもおかしくはないと誰もが思うほどに、ランは謎めいた淑女である。

ラン自身がふくふくと笑って否定しないものだから、なおさら謎は深まるばかり。

けれども、サーターアンダギーを頬張る姿を見ると、少なからず悪い魔法使いには見えないな、とコウヤは思うのだ。


「瀧クンとはたかちゃんって似てるよね」

「そうッスか?」

「顔とかじゃなくて、空気が。笑っているけど、たまにピリッとしてる。マスタードをかけたチョリソーみたいに。

 でも二人が一緒にいるときは、そのピリッとした空気が消えてる。二人は仲がいいんだね」


ランは、時々どきりとするような事を口にする。

観察眼に近いものだろうか。無意識に彼女は、人の纏う空気を察して、それとなく距離を置いたり、逆に諭したりすることもある。

教師然としたランの一言を受けると、どうしてだか背筋に物差しを突っ込まれたような気持になるのだ。


「そう見えるッスか~?俺はともかく、はたかちゃんは誰に対しても優しいと思うッスけど」

「見えるっていうか、感じるのですよ。

二人に似たタイプの人を知ってるから。なんか、放っておけないんですよね」


放っておけないといえば、とランはおやつを頬張りながら、ちらと三好を見やる。


「あっちもある意味、放っておけないですねえ」


ランが言うのも無理らしからぬことだ。

三好は外見通り快活で、人当たりの良い好青年だ。

誰とも仲良くなれるムードメーカーその二、といった具合である。

芝のように短く刈り上げた髪を、いつも七生にじょりじょりと触らせるままだったり、温厚な性格らしい。

けれど時々上の空であったり、ふらっと姿を消すこともあった。

後々聞いた話だが、付属の総合病院に、植物状態の幼馴染が入院しており、まめに見舞いに向かっていたらしい。

他にも色々と濃い人物はいたが、割愛する。


コウヤは誰とでも仲良くなったが、今鵺射羽とあまり話すことはなかった。

無理に会話することもないと思ったからだ。

代わりに、射羽が時々、はたかと話す姿を見かけた。大抵はタコの話だったりしたが、射羽はむしろはたか自身について問う事も多かった。

はたかは初めこそ射羽の質問に答えていたものの、次第に顔色が悪くなり、最後にはコウヤの元に逃げるように駆けてくる。

彼女たちがどんなやりとりをしているか知る由もない。

遠目からじ、っと見つめてくる射羽の視線は、どこか猜疑的で、ひとりだけ別のものを見分けようとしているような鋭さがあった。


「瀧くん、少しだけいいだろうか」


一度だけ、彼女から声をかけられたことがある。

コウヤが共同生活を初めて十日ほど経った頃のことだ。珍しく射羽のほうから声をかけてきたもので、しかも突拍子もないタイミングだった。

彼女を前にすると、自然と背筋をぴんとのばしてしまう。


「何か用ッスか?」

「二つ、質問がある。嫌なら答えなくてもいい」

「たこ焼きの隠し味以外なら、だいたいは答えるッスよ」

「そうか。君は八王寺くんと知り合ってどれくらいになる?」

「大体……4~5年くらいッスかねえ。といっても、夏の間にバイト入ってもらうくらいッスけど」

「そうか。もう一つ」


彼女はぴら、と一枚の写真を見せた。

一人の男が写っている。スーツを着こなし、いやみなほど長い足を見せつけるようにして歩く青年だ。

目鼻の整った顔に、ややツンツンとはねる癖っ毛をオールバックのようになでつけ、長い睫毛がぴんと立っている。


「彼のことを知っているか?」

「…………いいえ」

「そうか。協力に感謝する」


今にして思えば、なぜ嘘をついてしまったのか。

単にコウヤからしてみれば、写真の男を見た時、「関わり合いになりたくない」と衝動的に感じたからだろう。

顔見知りだ、といえば、根掘り葉掘り聞かれていたかもしれない。その男に関してだけは、はっきり断言できる。


「知り合いだなんて思われたくない」


次からは、新たに言い添えなくてはならないだろう。

質問されたなら、大体は答えよう。

たこ焼きの隠し味と――海崎来栖かいざきくりすという最低な男の話以外は。



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