スクティラ。

彼女は暗闇の中、僅かな光を浴びて、雪のように光っている。

巨大水槽に蓋はなく、傍に梯子がある。

水槽の上部からスクティラが長い触手を伸ばし、ゆるりとした動きで、触手の先端がコウヤの額に優しく触れた。

ひんやりとして、粘液に覆われているものの、粘着性は薄い。

やや硬いスライムに近い感触だ。


『はじめまして、コウヤ。おかえりなさい、ユミコ』

『ただいま、ママ!』

「喋ってる……!由美子の声と、これはスクティラ?」

「怖がらないで、スクティラのテレパシーだよ。

由美子ちゃんと話せたのもスクティラの力なの。私の声を借りて話してるんだ」

「怖いっていうより、ドキドキしてるよ……俺の名前、なんで知ってるの?

 それもテレパシー?」

『はたかがいつも、はなしてた。はたかのともだち』


もしコウヤが視線を横にずらしていれば、薄暗がりの中で、はたかの頬が僅かに朱にそまる様が見えただろう。

けれどコウヤ自身は、頭の中に響く優しくも不思議な声を相手にするだけで精いっぱいだ。

掌からうまれたタコ、喋るタコ人間、これ以上に驚かされることが果たしてあるだろうか!

スクティラはすっと目を細めて、笑顔をつくったような気がした。


『今日からよろしく、コウヤ。あたらしいなかま』


触手が離れ、水槽にひっこんでいく。

すう、っとスクティラから光が徐々に消えていく。

やがて握りこぶし一つ分だけの輝きにまで光が萎むと、声もさざ波も止んだ。

未だに頬がかっかと熱い。今までに体験したことがない出来事がわっと押し寄せて、知恵熱を起こしそうだ。

はたかが「寝ちゃったみたい」と囁いて、二人は音を立てぬよう静かに部屋を出た。


「八王寺くん、彼が電話で話していた人だね」


水槽室を出ると、新たに白衣を着た女が、今鵺を伴って待っていた。

きりっと吊り上がった紫の瞳に、切り揃えた前髪と右目のほくろが特徴的な、ショートカットの女性だ。

歳は三十代ほどだろう。いかにも厳しそうな女教師という印象である。

顔を暫し眺め、僅かな既視感。

彼女とどこかで一度会った気がする。それを思い出すより早く、女性はコウヤに握手を求める。


「初めまして、今鵺射羽いまぬえいるばだ。職階は助教授。研究分野はバイオニクスおよびバイオサイエンス、遺伝子工学などだね」

「私の妻です」 今鵺幹人が隣で付け足す。

「瀧コウヤっす」 


コウヤは白い手を握り返し、その手の温かさに一瞬どきりとした。勝手に雪のような冷たさを想像したからかもしれない。

その時、ふと幹人と射羽を交互に見て、逡巡して、はっと思い出した。

二人の顔を見て、既視感が確信に変わったのだ。


「あーッ!どっかで見た事あると思ったら、「謝罪会見プロポーズ」の二人!」

「ぶッ……!」

「おや、御存知でしたか」


「謝罪会見プロポーズ」。

一年前、ある博士論文捏造の疑惑が上がり、その謝罪会見が行われた。

博士論文の捏造を行ったのは、当時の射羽の元夫であり、当の本人は捏造発覚を境に行方不明となっていた。

代わりに射羽が夫の捏造疑惑を認め、謝罪する最中に、コトは起きた。

何故か会見の席にしれっと座っていた今鵺幹人が、謝罪会見が終わる頃にすっくと立ちあがり、中継カメラが回っている目の前ではっきり宣言したのだ。


『あ、謝罪終わりました?私と結婚してください』

『は?』


これには会見席に座っていた記者たちも、カメラを回していたスタッフたちも、警備員も、謝罪会見に出席した関係者たちも、そしての当の射羽も面食らった。

プロポーズを受けた射羽は不意を突かれて思わず「あっうん」と答えてしまった。

この「あっうん」を肯定とみなした幹人は「有難うございます、では後程婚姻届けを持ってきますね」と告げて颯爽と退場していった。

というより警備員が追ってきたので逃げた。

この件で再び射羽はマスメディアから質問の豪雨を浴びせられ、注目と批判を浴びることとなり、連日茶の間で射羽を見ない日はなかった。

続報によれば、色々あって幹人と結婚したと聞いていたが、まさかここで会うとは思ってもみなかった。


「いやあ、思わぬところでユーメージンに会えるなんて、世の中分かんないッスね~」

「その話は下級的に、早急に忘れてくれないかッ……!」

「良いじゃないですか、私達にとって忘れ難い思い出ですよ」

「黒歴史というんだ、あれはッ!」

「あははは……でも射羽先生、普通に助教授してるンすね」

「私自身が不正をしたわけではないからな。

まあ、あんな騒ぎがあった後で、私を雇ってくれる大学はここしかなかったわけだが」


ぼうん、ぼうん。部屋の壁に設置された壁時計が時刻を鳴らす。12時28分だ。

半端な時間に鳴るのだな、と時計を見ていると、「あれは少々壊れていまして」と幹人がつけ足した。

この夫妻を含め、四人の教授を主としてスクティラを研究しているのだと射羽は説明を始める。

コウヤのように掌や体の一部からタコが生じた者達を「宿主」と呼称する。彼等は皆スクティラによってランダムに選ばれた「親」であるらしい。

その選ばれた基準も、なぜ全国かつ日本限定なのかも未知の領域だという。そもそもスクティラには謎が多い。


「ってことは、はたかも宿主ってやつなの?」

「ううん、私はちょっと違うっていうか……」

「彼女はスクティラを発見した張本人で、同時に保護者でもある」

射羽が付け加えた。

「保護者?」

「スクティラは我々と同じように高度な精神や感情、それに未知のパワーを持ち合わせている。テレパスを始めとしたさまざまな能力がね。

 だが、スクティラは八王寺はたかが傍に居なければ衰弱してしまい、パワーも使おうとしない。故に、スクティラの精神面として、彼女が保護者を担っている」

「バイトっていうのは、そういうことなの」

「なるほど……」


スクティラは約十ヶ月前に、この新みらいヶ丘の南部に位置する砂浜で発見された。

発見した八王寺はたかは、最初夜で天気も悪かったことも相まって、海でおぼれた人間だと勘違いして保護したらしい。

総合病院の救急外来に連れて行った矢先、ライトの明かりで、やっとスクティラが人間ではないと気付いたのだそうだ。

因みに、応対したナースはスクティラの姿を見た瞬間、悲鳴を上げてその場で気絶してしまったらしい。


「よくそれで世間が大騒ぎしませんね。絶対黙っちゃいないでしょ、色んな所が」

「うむ、外にスクティラの情報が漏れていないのは、ひとえに彼女の超常的な能力のおかげだ」 と射羽。

「さっきの未知のパワーッスか」

「彼女は人間をマインドコントロールすることが出来るようです。

その能力に限界はありますが、大抵の人間はスクティラを見ても「普通の生き物」と誤認するよう働きかけているらしいですね」 と隣の幹人。

「……俺はそんなことなかったッスけど……」

「スクティラに宿主として選ばれた者や、普通の精神と異なる者は、彼女のマインドコントロールの範囲外にいるようだな。まさに、我々のような」と射羽。

「通常の精神と異なる?」

「強力な精神力、自己分析能力が高い人、知能が桁外れに高い人などが該当するようです」

「ともあれ、彼女の超常能力のおかげか、世間は彼女の存在を認知しないまま現在に至るというわけだ」


人型の未知の人型知的生命体!

その正体ははたして宇宙人か、それとも人類と分岐した進化生命なのか。謎が謎を呼んだ。

混乱を防ぐため、この生命体の存在は隠匿されることとなった。

三ヶ月ほどの協議の末、紆余曲折あり経緯は省くが、結果として国はこの知的生命体の研究と調査を、門代大学に依頼した。

そして現在、こうして大学内の使われなくなった敷地を用いて、研究施設として再利用されている次第らしい。

社会で流布している「ヒフダコ病」も、タコの発生のカバーストーリーなのだという。病気について知った宿主が集まるよう、スクティラの力を使いサブリミナル効果をかけているらしい。

実態に反して、世間がそこまで騒ぎ立てない理由はここにあったようだ。

なんだか、予想以上の大事に巻き込まれた気がしなくもない。


「まあ、何はともあれ歓迎しよう。よろしく頼むよ、瀧コウヤくん」


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