「さあ着いた!ここだよ!」


狭い苔むした煉瓦の道を進んだ先。

古く大きな大学棟が、二人の前に聳え立っていた。

大学棟の周囲には、それこそ人の気配などなく、背の高い木々が規則正しく整列し、夏の日差しを遮っている。

鳥の囀りや人の声も聞こえず、寂しさと一抹の不気味な気配が潜んでいる。ホラーハウスのセットみたいだな、とコウヤは軽く唾をのんだ。


「もうすぐ先生が来るはずなんだけど……あ、来た!

 先生、こっちこっち!」


二人の到着を見計らったように、大学棟の扉から一人の男が出てくる。

くしゃくしゃの白髪交じりの黒髪に、痩せこけた頬、落ち窪んだ三白眼に、白衣という出で立ち。しかもスリッポンだ。

年は四十路ほどだろうか。まるで生き霊だ。

ずんずんと歩み寄ってくる男を見て、コウヤは次第に顔がこわばる。


「(いや、でかくね?)」


”巨きい”。並の高身長などというものではない。

関節という関節を脱臼させたかのような細長い手足のせいか、余計に巨漢に見える。2mはあるだろう。

のっそりと白衣の男は歩み寄ると、落ち窪んだ目で二人を見下ろし、ぬうっと手を差し出した。


「初めまして。はたかさんの紹介ですね」

「あっ、はい」

「門代大学哲学科所属、今鵺幹人いまぬえみきひとです。

 専門は精神医学や哲学、心理学などですが、まあこの大学の先生とだけ覚えていただければ結構ですよ」

「どうも。瀧コウヤッス。たこ焼き屋やってます」

「それはそれは。たこ焼き、大好きですよ。私」


うっすらと今鵺幹人は微笑む。

無精髭や小さな目、よれた白衣も相まって、どこかマッドサイエンティストみが伺えるのは、果たしてただの偏見か。

一方のはたかはというと「今鵺先生、いらしていたんですね」とフランクに声をかける。

今鵺はくしゃくしゃの髪を指でいじりながら、「妻の様子を伺いにね。お弁当を持ってくればよかったでしょうか」と返し、先だって案内するように棟内に足を踏み入れる。


スリッポンが床とこすれ合う音が、いやに響く。

電気の類は通っているようだが、天井の電球の光はどこか頼りなく、斑模様の天井や壁は、生気のない人の顔の穴を思わせた。

三人は廊下をひたすすみ、中庭をのぞむガラス張りの壁を見やった。

のびほうだいの、名前も分からない植物が好き勝手に茎や葉を伸ばし、日差しを浴びている。

中庭を取り囲むかのごとく、この大学棟は連続する二つのコの字の形をしているらしい。ガラスごしに、先ほど遠目で見たプールがちらとうかがえた。


「ここは元々、大学棟ではなく、水棲生物の研究施設として設立する予定だったそうですが――」 やおら今鵺は語る。

「計画が途中で頓挫して、中途半端に通路やプールだけが残されたそうです。

なんでも当時は、ジンベイザメを飼育するための設備を投入したかったんだとか」

「ジンベイザメですか。大きいですよね、あれ。育てられるんですか?」

「当時はかなり難しいとされていました。予算の関係もあり、大学内で賛成派と反対派が大きく論争しましてね。結局、ジンベイザメの飼育は見送りになりました。

それに伴い、内装も変化して、このような妙ちくりんな外見になったわけです。

中途半端に広いものですからね、医学部と獣医学部がそれぞれ棟の半分ずつを分け合うようにして使用するに至ったそうです。

まあ、今は新しいものが建った上、ここでは一時期幽霊騒動もあって、閉鎖しましたが」


話し始めと同様、今鵺はやおら黙り込んだ。

沈黙が三人と廊下を包む。

幽霊騒動という単語のせいか、この大学棟がより一層、不気味な空気の中に落とし込められたように感じられた。

薄暗さと煉瓦から仄かに漂うやや甘い匂いを、鼻腔から追い出す。

三人はひとつの扉の前で立ち止まると、今鵺が扉を押し開く。


「失礼いたします。今鵺です」


外観とそぐわず、内装は綺麗なものだ。白を基調とした防音ボードが部屋じゅうに敷き詰められている。

壁には小さな絵画、床にはカーペットやラグなどがかけられている。


「わ、タコがいっぱい──!?」


しかしそれ以上に目を引いたのは、空中に浮かぶ沢山のタコ、タコ、タコ!

室内では老若とわず複数の男女が、テーブルでもくもくと作業したり、小さなタコを追い回したり、ソファでテレビを見るなどしていた。

けれども扉が開いた直後、皆それぞれが視線を向け、三人を注視する。


「新しい子だ」

「スクティラに選ばれた奴がまだいたんだ」

「あれで最後?」

「どうだろうね」

「金髪だ金髪。チンピラ?」

「でも優しそうな人だよ」


ひそ、と誰からともなく囁く。

皆が皆、コウヤを品定めするか、さもなくば好奇心の目で見つめていた。

正直、あまり気持ちのいいものではない。少しだけ肩身の狭さを覚える。

青年も老女も少女も、誰もがじいっと視線を突き刺す。はたかはその中を突っ切るように、部屋の最奥へと歩いていく。

コウヤは挨拶する暇もなく、視線の中をくぐりぬけるほかない。


「はたかちゃん、挨拶とかしなくていいの?」

「あの人たちは後。それより最初に、会っておくべき人がいるから」

「誰?」

「”スクティラ”」


振り向きすらせず、はたかがいう。

そのスクティラって誰なの、とコウヤが問うよりも先に、部屋の最奥に新たな扉があることに気づく。


「(暗……)」

「気を付けて、転ばないようにね」


扉がある周囲の壁は分厚く黒いガラスで覆われ、中の様子を伺うことは出来ない。

はたかが、壁に設置されたボタンを押すと、扉が電子音を立てて開く。

その先はかなり深い暗がりが広がり、目を細めなければ、何があるかも分からない。

エスコートするように、はたかはコウヤの手を引く。内部はあまり広くない。

あるものはソファと小さなテーブル、本棚、そして――巨大な水槽。ゆうに人が五人以上も入りそうなほどの規模のものだ。強化ガラスで出来ていることが伺える。


「──────連れて来たよ」


その水槽の中に、「彼女」はいた。

最初は腕が無数にある女のように見えた。

だが、近づいて目を凝らすことで、やっとその女性が、タコを模した人型の何かだ、と気づかされた。


頭はまるきりタコそのものだ。

皮膚は水の色を取り込んだように青く輝

短い首の下に繋がる胴体は人に近く、女性でいう乳房に近いものが複数ついている。

だが胴体や肩部にかけて生えた腕に、脊椎動物には必須たる骨がある様子はない。

内臓器官が僅かながらに、皮膚の下から浮かんで見えた。下半身もタコと同様に、六本の触手がぶら下がっている。

間違いなく、目の前に存在する人型生物は、この地上のどこにもまず存在しうることのない生命であった。


「はたかちゃん。”これ”は…………いや」


言葉を探し、やっとの思いでコウヤは声を絞り出す。

周りの空気に全て奪われたように、喉がからからに渇いて、上手く言葉が出て来ない。


「”彼女”は、何?」


その問いに対し、はたかは握っていたコウヤの手をそっと持ち上げる。

ずっと掌同士に隠されてた由美子の頭を、指で優しくなでると、由美子は自由を求めて宙にぽこん、と飛び出す。

由美子はふわふわと漂うと、タコに近い人型生物のいる、水槽へとまっすぐ近寄り、青白く発光し始めた。

その光に呼応するように、水槽の中の人型のタコも、触手の一部を青白く輝かせて、ガラスに触れる。コウヤの頭の中にさざ波の音が優しく流れ込み、その波が打ち寄せる音に交じって、声がする。


『はじめまして。わたし、スクティラ。うみからきた、はたかの、ともだち』


その声は、まるきり、はたかと同じ声をしていた。


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