②
「由美子はえらいなあ。由美子は可愛いなあ。
お前は世界で一番賢くて可愛いタコだよお」
タコあらため由美子の生態は、とても不思議なものであった。
まず、彼女は水陸どちらでも生活できる。えら呼吸かも肺呼吸かも謎だが、どこにいても生活するに苦労はしていないらしい。
スライムのようにひんやりしているが、食事中の時は人間と同じくらいの熱を放つ。
人肌で触っても火傷しないどころか、熱々のシチューだろうと焼き魚だろうと食べる。ただし、タコだけは食べようとしない。
海水の環境を好みこそしたが、たいていは宙に浮かんでいたり、コウヤの肌にぴったりとくっついている。
必要とあらば、コウヤの開いた掌の穴にすっぽりと収まることもある。
開きっぱなしの掌の穴は、ただ穴が開いていること以外は、痛みも違和感も感じなかった。
もし人に見られたら心配されるかもしれない。
だがコウヤは「まあいっか、どうせ由美子が入るのだし」と気にも留めなかった。
「俺はパパだぞ~。いや、でも俺から産まれたならママなのか?
うん、ママでちゅよ~。いいこでちゅね~!」
また、由美子はとても頭がよかった。
一週間もすればコウヤの言葉を理解し、簡単な命令も聞くようになった。
物覚えもよく、一度覚えたことは大体忘れず、理解力も高い。
食べる量自体は大したことはないが、食べた量だけ、由美子は少しずつ大きくなっていった。
そして体の大きさに比例して、由美子の賢さも上がっていった。
ひらがなを覚え、マジックで初めてホワイトボードに書いた言葉は、「ぱぱ」であった。
初めてその字を見たコウヤは、感動のあまりその場で泣き崩れ、その足でホールケーキを買ってきた。
賢くなると、コウヤが褒めてくれると気付いた由美子は、もっと知識を吸収していった。
その所作は幼い人間の子供と大差なく、まるで人間の親子のようであった。
コウヤの掌から、小さなタコが生まれて二ヶ月。
大きさは両手に収まらないほどになったが、相変わらず由美子はコウヤが大好きで、掌の穴には不思議とすっぽり綺麗に収まる程度には体の大きさを自由にできるようになった。
コウヤも由美子が大好きで、病院に行くことも、自分の掌から産まれたタコに疑問を抱くこともないまま、移動販売車で各地を巡っていた。
行く先々で、タコ焼きを買う客は、水槽の中でぷかぷか浮かぶ由美子を見て目を丸くした。
「可愛い!」
「でっけえタコだなあ」
「マダコでもミズダコでもなさそうだけど、どこで拾ってきたの?」
「まさかタコ焼きに使っちゃうの?」
色々質問されるものの、コウヤはいつもにっこり笑うのだった。
「こいつは由美子!俺の大事な家族ッスよ!」
季節はあっという間にめぐる。
葉桜が濃い緑色になり、茶摘みの八十八夜の合間に梅雨が来て、紫陽花が色濃く咲いて、夏がゆっくりと近づいていた。
〇
コウヤの営む「瀧のたこ焼き屋」は、全国各地を巡回する移動販売車だ。
大阪スタートで中国地方へ、ぐるっと九州の外周を回るように巡ると、福岡の佐伯港からフェリーで高知の宿毛まで、更に四国を渡り徳島から和歌山まで南海フェリーで戻り、近畿、中部、関東、東北とのぼっていくルートが大半だ。
基本的には各地を巡る際に保健所へ各書類を提出せねばならず面倒な面も多い。
けれど、ひとところに留まることを基本的に好まないコウヤにとって、キッチンカーは実質的な我が家であり、たこ焼き屋は天職だと自負している。
「そういえば、そろそろ七月半ばだっけ……」
カレンダーを確認し、一人ぼやく。
空模様は雨。思い出したように梅雨の名残がざあざあと猛威を振るう。
客足も少ない時刻、ちらとキッチンカーの外を見やれば、夏服の学生たちがびっしょり濡れながらきゃあきゃあ悲鳴をあげて走る。
世間ではそろそろ夏休みをひかえ、ぼやぼやしている間に各地では夏祭りやイベントなど、移動販売業界が多忙となる時期が始まる。
さても、次はどこでたこ焼きをくるくるひっくり返そうか、と思案していた時のことだった。
由美子は退屈なのか、車内で買ったばかりのルービックキューブをかちかちと鳴らし、どうにか色を全部合わせようと、短い触手で躍起になっていた。
「そういえば、元気かな。彼女」
買い換えたばかりのスマートフォンで、連絡先を見やる。
この仕事を長く続けていると、全国各地に友人が増える。
時におしゃべりなおばあさんだったり、幸先の分からぬ同業者だったり、やけにフレンドリーな女子学生だったり、メタボリックに悩む内科医だったり、色々だ。
中でもコウヤにとって、忘れられない友人がいるとすれば、それは連絡先の一番上にいる少女であった。
何気なく彼女の連絡先をタップした後で、時間を見やる。
まだ昼と夕方の境目。電話は少し躊躇われたが、躊躇いが判断を下すより早く、指が通話ボタンを押していた。
静かな車内に、しばらくコール音が響く。五回ほど鳴り、やっぱりやめようと思った矢先、通話が繋がる音がした。
「――瀧くん?」
聞こえてきた一年ぶりの声に、何を返すか一瞬悩んだ。
別に気取った再会を期待したわけではないのだが、彼女を相手にするときいつも、わずかに緊張してしまうのは、単なる気まずさだけなのだろうか。
結局返した言葉は、月並みな返事であった。
「ひさしぶり、はたかちゃん」
〇
八王寺はたか。歳は20歳ほどだ。
年齢が曖昧なのは、彼女自身が正確な年齢を知らないからだ。
その辺りの事情にはあまり詳しくないし、彼女も話そうとしないので、コウヤも「そういうものだ」と思って接している。
身長は女子としては平均的で、コウヤより頭半分ほど背が低い。亜麻色の茶目っ気たっぷりに跳ねた髪が特徴的だ。
本人曰く癖っ毛だそうで、いつもくるんとした毛が、新芽みたいにぴょこぴょこと伸びていた。性格も癖っ毛に引っ張られるみたいに、いつも元気で声が跳ねる、明朗快活な少女だと記憶している。
けれど、曇天の空みたいな目を見ると、時たま人は「どきり」とした顔を浮かべることがあった。
その「どきり」は胸の高鳴りというより、見てはいけないグロテスクな虫の集合体を見てしまった時の気まずさや困惑に似ていた。
彼女も、周囲のそうした気配を感じ取っているのか、いつも目を伏せたり、できるだけ視線を合わせないようにしていたように思う。
はたかは新みらいヶ丘市という、中国地方の某県にある地方都市に住んでいる。
今は祖父母と三人暮らしで、商店街の小さな雑貨店が彼女の住まいだ。
「一年ぶりだね、瀧くん。元気にしてた?」
「めっちゃ元気ッスよ~。そろそろ夏だから、そっちに店出そうと思っててさ」
「ああ、もうすぐ七月半ばだものね」
ふくふくとした声で、はたかが笑う。
新みらいヶ丘市では七月下旬から八月いっぱいにかけて、市全体で大きな祭りが繰り広げられる。「やまがみおろし」という祭りで、市町村の各所にある山々の神社の神様を、日付ごとに分けて盛大に祭る「巡回」型の一風変わった祭りだ。
この巡回を見るために、長い休みをとって祭りをめぐる観光客もいるほどである。コウヤも、年に一度はこの祭りを稼ぎ時と見て、祭りにしばらく着いていくことがしばしばであった。
客も多いとなると、人手が必要になる。はたかは毎年、コウヤが新みらいヶ丘市で店を開くときの若き助っ人であった。
「またバイト頼んでもいいッすか?」
「……ごめんなさい。今年は無理だと思う」
「えっ。あー、そうッスか!いや、大丈夫ッスよ。……大学、大変なんスか?」
一拍遅れて、思い出す。
彼女は一年前から大学生だった。セーラー服の上からエプロンを着る姿ばかり記憶していたので、すっかり忘れていたのだ。
年老いた家族を介護しながら大学に通うともなれば、多忙を極めるだろう。
けれど、返ってきた言葉は意外なものだった。
「大丈夫。というか、大学はやめたの」
「えっ!?」
「お金が足りなくなっちゃって……ああでもね、代わりに大学内ですごいバイトやってて、お金沢山貰えるようになっちゃったから、そこは大丈夫」
「お金がないから大学をやめたのに、大学でバイトしてるンスか」
「うん。先生たちが勉強を教えてくれるから、むしろ単に大学に通うより楽かも」
彼女の声は楽しげなもので、いっそ能天気とすら感じるほど底抜けに明るい。
はたかの背後からは複数の男の声が聞こえた。まじめに何かを議論するような語調だ。誰かに呼ばれたのか、はあい、とはたかが答える。
「そういえば瀧くん、ここだけの話だけど。今やってるバイトの話、瀧くんにならしても大丈夫かな」
「?」
「実はね……私が今やってるバイト、タコのバイトなの」
「タコ!?」
思わず興奮して声を荒げる。
はたかはコウヤのタコ狂いに対する、数少ない理解者だ。
予想通りのリアクションだったことが嬉しいのか、またくすくすとはたかが笑う。
「瀧くん、最近テレビとか新聞見てる?」
「テレビ?いや、ラジオとかは聞くんスけど、あまり見る機会なくて」
「もったいないよ!今、すごいニュース流れてるんだよ」
そう言うと、彼女は声のトーンを絞って、囁くように言った。
「いま全国各地でね、”人体からうまれるタコ”が話題なんだよ。
コウヤくんなら絶対知ってると思ったのに、意外」
その一言で、コウヤの視線が、車内の隅で遊ぶ由美子に注がれる。
掌からうまれるタコ。そういえばここ暫く、ちらとも疑問に思わず由美子と過ごしてきた。
テレビや新聞を見ないのは、ネットニュースで十分だったのと、彼自身があまりマスメディアに関わらない生活サイクルを過ごしていただけだったのだが。
もし由美子と同じような存在が、自分だけでなく、全国にいるとしたら――この生命体は、何者なのだろう。
今更ながら、由美子が何なのか、コウヤの中で僅かな疑問が首をもたげた。
「はたかちゃん、詳しく聞かせてくれる?」
〇
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