「ちゅー、ちゅー、たこかいな!」と声が響く。

朝の六時半きっかりに鳴るようにセッティングした、タコ型の可愛い目覚まし時計のものだ。

六畳の床の上で、ひっきりなしに「ちゅー、ちゅー、たこかいな!」、と喚く。

敷かれた布団からぬうっと手が飛び出て、這いずるように時計を探す。指先がぴと、と時計に触れると、べしんとアラームを止めた。


「んあ……もう朝かあ……」


くあ、と瀧コウヤは大きな欠伸を漏らす。

きっかり八時間寝ているはずなのに、あまり眠った気がしない。

眠い目を擦り、煎餅布団からもぞりと顔を出した。

飲みさしのカップ酒を片付けて、歯を磨くための洗面所へ。顔を覗き見ると、寝起きで覇気のない自分と顔を突き合わせる。

プリンカラーの金髪は色が抜け落ちて黒色が増えてきたし、無精髭がだいぶ伸びてきた。

そろそろ剃らないと、とシェーバーに手を伸ばし、かちりとスイッチを入れる。

……充電が切れている。刃先を頭頂部に当てていたと気付き、充電切れに感謝した。

仕方ないので、剃刀で適当に剃る。髪は明日にでも自分で染め直そう。


「あー……昨日飲まなきゃよかったかな……」


未だに痛む頭を押さえ、よろよろと狭いワンルームを彷徨う。

ちゃぶ台の上に置き去りのままの皿を見て、若干辟易した。一人暮らしをしてみると、洗い物と洗濯物が意外と億劫だということに気づかされる。

特に、飲んだ日の翌朝と、繁忙期の最中は。

タコ焼き屋なんて稼業を営む以上、身嗜みだとか、衛生面だとか、気を使わないといけないのは分かっている。でも、ひとりだとやっぱり、面倒くさい。

目を覚ましてから、ついでに洗おう。汚れた皿を掴んだ時、違和感に気づいた。


「うん?なんか、手が……」


右手の掌の皮膚に違和感。もぞもぞとしてくすぐったい。

積んだ皿をシンクに置いて、そっと掌を見る。

掌にぽっこりと、それこそたこ焼き大程度の、大きな膨らみが出来ていた。

出来物かしらん。つんつん、と軽くつついてみる。

むにゅんと柔らかくて、若干凹む。

腫れているわけでも、痛みがあるわけでもなく、圧迫感を少し感じる程度。

しいて挙げるなら、出来物に小さな変な模様が描かれてある。漢数字の「八」に似ている。


「あ、結構気持ちいいな、これ……」


つんつん。何度かつつく。癖になりそうな感触。

感触を楽しんでいると、やおら、出来物がぐるうんと、一回転した。

「八」の字の模様が回転して、位置が変わったのだから、間違いない。

突然の異変に硬直するコウヤの目の前で、「ぽこん」とコルクが抜ける時のような、間抜けな音がする。


「うわっ、と、取れた!?」


文字通り、出来物が宙に引っこ抜けたのだ。

掌に、大きな穴を開けっぱなしにして、ぷわあんと宙に浮かんでいるではないか。

出来物はうねうねと空中で蠢くと、肌色から透明なわらび餅めいた透明に、半透明の青色に変化していく。

出来物が変形を終えると、コウヤは暫し言葉を失い、出来物を凝視した。


「――――……タコだ」


思わずその言葉が漏れる。

目の前に浮かぶ出来物は、たこ焼きの大きさ程の、小さな小さな、タコだった。

メンダコにも似た形状をして、短い触手をぱたぱた震わせ、クラゲのようにふわふわ漂いながら宙を泳ぐ。

その頼りない泳ぎ方をしばし目で追って、思わず両手で優しくはしっ、と包み込んだ。


「タコだ。どうみても、タコ」


今のは、夢か。眠気は完全に吹き飛んでいた。

蕾のごとく包んだ両手を、そおっと開いて覗き見る。……やはり、いる。

ぷわぷわと膨らんだり縮んだりしながら、小さなタコがじい、とコウヤを見上げている。

コウヤは口を開けたり閉じたりして、言葉を紡ごうとして、深く深呼吸する。

全身がぶわっと汗ばんで、両手が震える。呼吸がにわかに乱れ、両足が震える。

力を入れて握り潰してはかなわないので、掌の先に全神経を集中させる思いで、手を開き、彼は絞り出す声で呟いた。


「かッ………………わいいッ………………………!」



瀧コウヤ、28歳。職業たこ焼き屋。彼は狂気的なタコ狂いである。

食の対象としてでも、愛でる対象としてでも、瀧コウヤにとってタコは特別であり、格別だ。

築地だろうと水族館だろうと、タコの前で何時間も時間をつぶせるほど、彼はタコに夢中であった。

そんなコウヤにとって、目の前に現れた小さなタコもどきは、まさに地上に舞い降りた天使といっても過言ではない。

何よりまず、見た目からして可愛い。腕がちゃんと六本、足と思わしき触手が二本あり、よく見れば愛らしい目玉も二つ、ちょこんとくっついている。

泳ぐ所作はややタコと異なるものの、空中と水中で勝手が違うのだろうか、と納得することにする。


「おお~……見れば見るほど滅茶苦茶かわいいじゃないか……。

 食べちゃいたいほど可愛いって言うけど、食べちゃったらなくなるよなあ……」


感嘆の声を漏らしながらも、コウヤは目で動きを追う。

小さなタコはぷよぷよと柔らかな動きで宙を舞い、コウヤの掌の上で浮かんでいる。

声をかければ反応し、くるんと回転したり、目を動かす。

見ているだけで癒される。ささくれた心が一気に浄化されるような喜び。

もし並の人間ならば、まず掌に穴が開いたことに驚き、掌から小さなタコが出たことに驚き、怯えたりするのだろう。


「世界一可愛いな。天才の造形だよこれは」


だが生憎、瀧コウヤは人並み以上のタコ好きであった。

その上、季節は五月を過ぎた春と夏の境目。

酒をしこたま浴びた翌朝で、頭が大変に緩くふわふわと、目の前のタコのように浮かれていたので、驚くよりも感動してしまうほうが先であった。


「ほ~れ、何か食べるか~?」


冷蔵庫の中を開けて、片っ端から食べられそうなものを並べてみる。

刺身、貝類、先日のハンバーグの残り、野菜類、とりあえず人間が食べられるものを一通り見せてやる。

ぷわぷわ浮かぶタコもどきは、どれがいいかしらとばかりに宙をスライドして、ひととおり一口ずつ試食することにしたようだ。

結果、並べた食べ物にハムスターの食い散らかしたような歯型が残り、瀧コウヤはその噛み痕全てを写真におさめた。


「はあっ……可愛すぎる。何をしても可愛い生き物が、この世にいたなんて……!」


感涙に噎び泣く。

見る人が見たならば、気が狂ったか、連日たこ焼きを焼きすぎて疲れているのだろうと心配するところだろう。

だがしかし、彼は常人離れしたタコ狂いであった。故に、手前勝手にタコを愛でているのみである。

タコはどうやら刺身と芋類をお気に召したようだった。

掌から産まれ、宙に浮かぶ上に、芋を好むタコなど聞いたことがない。だが、タコである上に可愛いという理由で、コウヤはすべてを良しとした。


「ようし、今日からお前は由美子ゆみこだ!」


感動の昂ぶりが赴くままに、コウヤはタコに名前をつけた。

性別などそもそもあるかは謎だったが、フィーリングで名前をつけた。我ながら美しくも愛らしい名前である。

彼がすべきことは、早急に開いたままの掌の穴に疑問を持ち、タコの正体について疑問を抱き、病院にかかるなり然るべき研究機関に連絡することだっただろう。


だがしかし、瀧コウヤは呆れかえるほどタコを愛していた。

故にすべて頭からすっぽ抜け、由美子が食いつきのよかった食べ物を片っ端からメモすることが、彼の重要な仕事になった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る