君はともだち ─タコと君との12ヶ月─

上衣ルイ

水面の章 ー瀧コウヤー




敬具、掌の夢の中より。



あの日は蒸し暑い八月の午後のことで、三十七度を超える暑さになり、これは例年より二度も高い猛暑となる、とラジオの天気予報が告げていた。

たこ焼きが焼ける音と蝉の歌、近くに聞こえる潮騒が夏を奏でる。


視界が湯気で踊る。海からは磯の香りが冷たい風に乗って顔をなで、そう遠く離れていない白い浜辺からは、たえず黄色い笑い声が飛んでいる。

移動販売車の店内はまるでサウナのようで、氷水で冷やしたタオルが常に手放せない蒸し暑さだった。

匂いにつられてか、肌の焼けた客たちが「お兄さん、たこ焼きください」と駆け寄ってくる。

手元の焼きあがったばかりのたこ焼きを盛りつけて手渡すと、隣で「彼女」が「500円です」と明るくお勘定する。


客はうまいうまい、と熱々のたこ焼きを口につっこみながら去っていく。

自分が作ったタコ焼きを「美味しい」と言われると、たまらなく幸せな気持ちになれる。

ずっとこんな日々が続けばいい。

誰に責められることも、重圧をかけられることもなく、自分のやりたいことを、自分の出来ることを出来る、のんびりとした日々。

それにタコ焼きがあれば、きっと人生はそれでなんとかなるし、良い人生だといえるはずだ。


「──海を見ると、わけもなく、どこでもないところに帰りたくなるよね」


タコ焼きの匂いをはらんだ白い煙を隔てて、隣で不意に彼女が呟いた。

海が見えるから、彼女からそんな言葉が出てきたのだろうか。

夏の日差しを受けて、濃い青がダイアモンドをばらまいたみたいに煌めいていた。雲も高くにょきにょきのびて、蜃気楼がいくつも列をなす日。


「そうかな」


彼女の呟きに、思わず問い返す。聞かない振りをしたほうがよかったかもしれない、と後から反省した。

「私だけかもね」と笑って、それきり彼女は黙ったきりだった。

帰る場所もないからかもしれない。

だだっぴろくて昏い青を見て、君はどうしようもなく美しく死にたくなったんじゃないのかい、と思った。


「一緒に来る?」


なんでもない風に、隣の彼女に、そう尋ねる。

パラソルの陰になって、小麦肌に焼けた彼女の顔が、黒い影に塗りつぶされる。

亜麻色の髪がさらりと悩ましげに揺れて、彼女の曇り空の目が僅かに揺れていた。

彼女の手首には赤い切り傷の鎖と、首には臙脂色の縄がぶら下がっていた。


「行けない。ここから離れるなんて、出来ないもの。

 居場所をせっかく作ってもらったのに、それを捨てるなんて。

 裏切るなんて出来ない。私に、自由なんてあげちゃいけない」


タコ焼きのあげる白い煙が、分厚い入道雲に変わっていく。

彼女と自分を阻んで、どんどん高く昇って、しまいには巨大な柔らかい壁に変わっていく。

このまま中間圏を突き抜けて、夜光雲すら飲み込んでしまいそうだ。


「不誠実な生き方は出来ないわ。神様に誓って」


入道雲が阻む先で、くぐもった、泣きそうな声が聞こえてきた。自分も彼女も瞬く間に包み込んで、視界が白く染まっていく。

鼻の奥をつくような冷気と、潮風の匂いが吹き抜けた。


「責任のない自由なんて、許されちゃいけない。

 あの人がそう言ったんだもの、それが正しいんだわ」


諦めを帯びた声が響いた。彼女と、自分の喉から漏れた音だった。

白い光の痛みに目が眩み、思わず瞼を閉じる。


再び目を開けると、そこは暗く黒々とした海の中。

荒れ狂う波に揉まれて、上も下も右も左も、数秒ごとに分からなくなるほどかき混ぜられる。

口を開けようものなら海水が否応なしに流れこんできて、呼吸が出来なくなる。

肺いっぱいが冷たい水に満たされて、全身の血管が悲鳴を上げる。

酸素がない。呼吸が出来ない。パニックになる。


「なんで、なんで、なんで!?」

「これがね、せけんなの。

 貴方はどうやってエラを得たつもりなの?

 魚みたいに気ままに生きるなんてね、どだい無理なのよ。人間には」


じたばたもがいても、全身が重い。

なんでよりによって海なんて選んでしまったんだ、ともう一人の自分が叫ぶ。

知らないよ、そんなことと訳もなく怒り狂う矢先、歌が聞こえてくる。

声が海の水で滲んだように曖昧で、何を歌っているかも分からない。

ただ、頭上に淡く優しい光が見える。

泡が人の形をとって、こちらに手を差し伸べる。


「わたしは、ここだよ」


知らないはずなのに、懐かしい女の声が囁く。

何と声をあげたかも分からないまま、呼吸すくいほしさに、その手を掴んでいた。



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