第8話 周波数と殺人事件

 無限大という発想は、元々、先輩にもあった。よく上杉記者と話をする時、数列であったり、数字の魔力が好きな上杉記者は、無限について先輩と話をしたことがあった。

 賢明な読者には、この「無限」という言葉を聞いて、前述を思い出す人もいるのではないかと思うがいかがであろうか?

 そう、ロボット開発のところで話が出てきた、

「フレーム問題」

 がそれに当たる。

 揉言の可能性を考えてしまうことで、実際にはパターンに当て嵌めた可能性を考えれば、考え方が絞られてくるというのであったが、元々無限のものをいくらパターン化したとしても、そのパターンというのも、無限に存在している。つまりは。

「無限というものは、何で割っても、無限になってしまうのだ」

 という考え方である。

「ゼロは、何で割ってもゼロである」

 というのは、まったく何もないものなのだから、何で割ろうとも、ゼロにしかならないという一種の当たり前の考え方である。

 しかし、実際に考えられることとして、

「どちらも、何で割っても同じものになるのであるから、究極はゼロも無限大も同じなのではないか?」

 という考えである。

 そこでゼロというものは、何もないという発想はそのままにして、

「もう一つの解釈として無限というのもありではないか?」

 という考えである。

 ゼロという数字の解釈を両極端な二つに求めるということは、ゼロに見えているものがすべてであれば、理屈としての、

「オールオアナッシング」

 という考えがありえるのかも知れないという考えであった。

 この発想は実に危険を孕んでいるが、理屈としては当然のことである。究極を比較すれば、比較にならないのではなく、反転させることで、同じ理屈を見えるということで、まるで鏡に映った自分と鏡の中の世界のようなものではないだろうか。

「ひょっとすると、フレーム問題も、まったく逆の発想から、解決されたりしないのだろうか?」

 と、今になって思えば上杉記者はそう考えた。

「先輩だったら、こんな時、理屈を駆使して、新しい発想を裏付けてくれるのだろうが、惜しいかなもういない」

 もし、もう一人いるとすれば、勝沼博士なのだろうが、その人ももうこの世にはいないのだ。

 どうして、こんなにも惜しい人ばかりが先に亡くなってしまうのか、世の中は理不尽にできている。やっと自分が先輩の知識や頭で考えていた理屈に追いつけたと思ったのに、その背中すら見えなくなってしまったのだから、溜まったものではない。

 川北氏は、周波数に関しての発見をしていたのだが、それは勝沼博士から引き継いだものだと言ってもいいだろう。

 周波数といえば、以前聞いたことがあった話であるが、これは実際にあった事件ではなく、ミステリードラマでの話であったのだが、周波数や振動を使っての殺人トリックを描いていた。

 あれこそ、

「共鳴振動」

 と呼ばれるもので、ピタリと合う周波数は、物体に振動を起こし、その作用によって、予期していたよりも、大きな力を生み出すことができるという発想である。

 被害者を拘束しておいて、被害者の頭の上に落とすというやり方で、トリックの目的は、アリバイ工作だった。

 犯人がそこにいなくても、成立する殺人、それこそアリバイトリックの醍醐味である。遠隔操作とは少し違うが、振動を起こさせるという発想は、科学的なトリックとしては、なかなか高度なものではないだろうか。

 そういえば、コウモリの話を思い出した。コウモリには前述にあるような特性がある。哺乳類であるにも関わらず、鳥類のように空を飛べることで、有利に立ち回ろうとして、嫌われるという話であるが、吸血鬼「ドラキュラ」の話、あれもコウモリの化身ではなかったか、よほどコウモリという動物は嫌われているのか、人間の点滴のような発想である。

 それはコウモリが持っている特性の何かが影響しているのだろうか。一番の特徴というと、目が見えないことで発達した聴覚や触覚であろうが、ここで出てくるのは超音波である。

 他の動物には聞こえない特殊な周波数を持った超音波を発し、反射によって、障害物の存在を理解する。他の動物のように見えているわけではないので、障害物があったとして。それはどのような障害物なのか分からずとも大丈夫なのだろうか?

 もし、相手が自分を襲ってくるようなモノであれば、逃げなければいけない。目に見えていればすぐに分かるのだろうが、コウモリのように音の反射でしか判断できないとなると、相手が危険なものかどうか、判断ができない。

 人間であっても、他の動物であっても、一瞬の判断の間違いが命取りとなるというのに、判断材料のないコウモリは、その場で死ぬしかないということなのだろうか?

 それとも、その周波数の超音波には、他の動物には分からない特殊な力が備わっていて、敵索能力のようなものが存在するということであろうか?

 音には無数に周波数というのが存在しているのだろう。

 本当に特殊な存在の周波数も我々は知っていたりする。例えば、

「一定の年齢から上の人には聞こえない音」

 という謂れのある、

「モスキート音」

 などというものがその一つであろう。

 蚊の飛ぶ時というイメージで呼ばれるモスキート音は、軍事目的にも使用されたりするという。

 軍事目的という意味で、拷問などにも一定の周波数の音が使われることがある。

 脳波を狂わす特殊な周波数も研究されていて、時には拷問で相手を屈服させたり、白状させたり、または、実際に自白させるための周波数もあるのかも知れない。

 それこそ、最大機密であろうから、それを探ることはもちろん、分かったとして公開などできるはずもない。それこそ、

「命がいくつあっても、足りない」

 というものであろう。

 自分たちにとって、周波数というものはほとんど意識することはないだろう。生活の中で考えるとすれば、ラジオを聴く時のチャンネルのチューニングくらいであろうか? それこそ、夏になった時、鬱陶しいと思うのが耳元で聞こえてきた、

「蚊の飛ぶ音」

 である。

 蚊に刺されると、痒くなることから、蚊を避けて生活するという癖が人間にはついている。蚊帳であったり、蚊取り線香など、駆除や虫よけという意味でのアイテムはいくつもある。

 そういえば、蚊に刺されると痒くなるというのも、蚊というものが、血を吸って、同時に何か分泌液を流し込むことからだと聞いたことがあったが、ここで同じ、周波数という共通の話題に浮かぶコウモリの吸血鬼と言われるゆえんと絡んでくるというのも。考えてみれば面白いものである。

 そんな周波数にどのような力があり、今回川北助教授が発見したことがどれほどに科学界の発展に貢献するものなのか、一介の記者には、想像もつかなかった。

「パーティを開くくらいなので、相当なものなんだろうな」

 という想像はつくが、それによって、助教授から教授への昇進であったり、学術界での発言権がましたり、さらには。博士と言われるにふさわしいほどの発見となるのであろうか?

 さすがにこの年で博士というと、かなりの年少ということになるのだろうが、ありえないわけではない。

 何と言っても、勝沼博士への殺害疑惑を認めてまでも、最悪の人生を歩んだはずの川北氏にとって、研究だけが心の支えだったのかも知れない。

 勝沼博士にしても、先輩にしても、

「惜しい人を亡くした」

 という言葉がまさにピッタリと呼ばれる二人だった。

 共通するものも結構ありそうで、この二人ほど周波数の合う二人はいないのかも知れない。

「二人の間に言葉はいらない。周波数があればいい」

 まさしくその通りなのではないだろうか?

 確か、先輩の書き残した、

「遺産」

 の中には、どうも自分だけにしか分からない暗号めいたものや、何かを暗示させるものなどがちりばめられている。なぜ、そんな書き方をしたのか分からないが、ひょっとすると、その答えが、今回川北氏によって発表された内容に関わってくるものなのかも知れない。

 安易に書き残して、せっかくの博士の身内から発表されるはずのものを他人に発表されては困ると思ったのではないだろうか。

 そのために、わざと暗号のごとくしているのだが、あまり暗号が難しいともらった本人が分からないということになりかねないので、そのあたりはうまく分かるようにしていた。

 ただ、その中で、内容は分かるのだが、なぜ書き残したのかが分からないというものもあったりする。

 例えばその中の一つとして、イヌがところどころで出てくるのだった。そのイヌがいきなり出てきて、何をすることもなく、話から消えているという不思議な登場の仕方なのだ。先輩の遺産の中に、意味のないことが含まれているとは思えず、

――このイヌにも、何か意味があるはずだ――

 と思い、見ていた。

 やはり気になったのは、いきなりという登場の仕方であり、去り際もいきなりであった。先輩のところでは犬を飼っているわけではない。それではこのイヌはどこのイヌだというのか?

 イヌの種類は、小型犬で、フサフサした毛が特徴で、シーズーやパグが混ざっているのではないかと思えるような正面から見ると不細工なのだが、その表情は愛くるしい。どうやら、

「ペキニーズ」

 と呼ばれる種類のイヌで、前述のシーズーやパグの祖先であるということが分かってきているということだ。

 ペキニーズというくらいなので、中国産のイヌである。中国の歴代王朝で門外不出で飼われているという高貴なイヌであり、気位の高さを示している。

 さらに、ペキニーズは、

「一番イヌらしくない」

 と言われているようで、実に勇敢な犬だということだ。

 自分から相手に攻撃を加えるようなことはしないが、決して引き下がることはないという。実に勇猛果敢なイヌと言ってもいいだろう。

 飼い主に忠実ではあるが、独占欲が強かったり、頑固で、気まぐれとも言われていて、イヌというよりも、ネコのようなところがある。

 ペキニーズをペットショップで買った人が、店の人から、

「イヌというよりも、ネコと思って飼ってください」

 と言われたという。

 気まぐれなところは実際にあるようで、忠実な飼い主相手でも、他の犬のように、四六時中飼い主に尻尾を振って媚びるようなマネはしない。それだけ、気位が高いのだろう。

 その証拠に抱かれるのを嫌うところがあるようで、それが飼い主であっても、機嫌の悪い時は、飼い主にも抱かせないほどのようだ。

 だが、上杉記者は、ペキニーズが大好きだった。シーズーやパグも可愛いが、その二種のいいところを掛け合わせ、さらに、気位が高く、気まぐれなところも、ご愛嬌の思わせるほどに憎めないのだ。

 愛玩犬として飼われているペキニーズがどうして、ここに書かれているのかよく分からないが、どうやら、鳴き声が何かを暗示しているかのようである。

「ペキニーズはめったに鳴かない。それを鳴くように躾けておいて、その声で反応させる工夫が取れれば、大いなる研究に役立つのではないか」

 というような話であった。

 確かに周波数の研究をしている研究所を調べている先輩なので鳴き声に何か意味があると思っているのか。人間のように同一種であるから、別人であれば、何を言っているか、あるいは性格的なところまで分かってきて、相性が合う合わないの判断もできるというものだ。

 だが、イヌというのはどうであろうか? イヌという動物はあくまでも総称であって、イヌにもたくさんの種類がある。ペキニーズや、シーズー、パグもそうであるが、大型犬もいれば中型犬もいる。それらは、人間でいえば、「日本人」、「中国人」、「アメリカ人」などと言った種類になるのか、それとも、肌の色で判断する、「黄色人種」、「白色人種」などという種類わけになるのかというのも微妙だ。

 そもそもイヌの種類わけは明らかに、その特性から分けている。だから、人間のように、特徴が皆同じであれば、ペキニーズなどの種類が、人間と同列になるのではないだろうか?

 そのあたりの区別が難しいことから、動物の特性がいまいち分からない気がする。

 イヌの鳴き声でも、種類によってきっと共通性があるのだろう。一匹一匹でも当然違っているが、それは当然のことで、人間が言葉をしゃべり会話しているのも、それと同じことなのだろう。

 公園などにいくと、夕方など、よく犬の散歩を見かけるものだ。毎日のように来ている人たちもいて、イヌも皆顔見知りのはずだ。

 その時に感じたのだが。イヌ派同一種類が相手でも異種のイヌが相手でも、それほど違った態度には見えないのだ。

 人間から見れば、名前をつけられるほど特徴が違って感じるのに、イヌの世界では、同じ国の人種並みの扱いなのかも知れない。

 ただ、人間でも考えてみれば、同じことで、確かに外国人を初めて見た人というのは、恐怖から後ずさりして、声も掛けられないほどになってしまうのではないだろうか。それでも慣れてくると、つまりは言葉が通じるようになり、意思の疎通がうまくいきさえすれば、相手が日本人と遜色のないほどに付き合えるというものだ。

――犬の世界も同じなのだろうか?

 つまりは、意思の疎通をすぐにできるのが同種であって、時間を掛けさえすれば、同種のイヌの仲間として理解するのではないだろうか。そうなると、犬以外にはまた別の対応方法があり、相手が人間であれば、媚びるというのが、生まれつきの性分として宿っているのかも知れない。

 だが、逆もあるかも知れない。同種のイヌに対してだけ、人間が人間として接しているのを同じ感覚で、同じイヌであっても、別の種類であれば、相手が人間だったり猫だったりと違う種類の動物と同じ感覚で見ているのではないかとも思える。

 ただ、公園でのイヌの様子を見ていると、

「イヌというものが一括りにあり、そこから種類ごとに集団を組んでいる。言い方を変えると、ペキニーズの国というものがあり、そこで集団で生活を営んでいるかのように感じているのが同種であり、まわり全体がイヌという世界で形成されているという考えだ。だが、実際にはイヌは、野良犬であっても、同種でつるむことはなく、人間に飼われていれば同種という意識はないだろう。

 だが、それはあくまでも、

「生きていくための術である」

 と考えれば、理屈に適うというものである。

 そんな犬について書かれたその遺産には、

「飼いならして何かをやらせる」

 というニュアンスのようなことが書かれている。

 つまりは、

「研究における実験材料のようなものなのか、特殊な、イヌにしか、いや、ペキニーズにしか分からない周波数を勝沼博士が開発していて、それを匂わせる内容を上杉に書き残したのではあるまいか?

――じゃあ、何のために?

 つまりはそこに行くのだ。

 その理由が分からないと、どう解釈していいのかもわからず、この内容を理解するには、まわりも解き明かさなければならないように思えたのだ。

 そのまわりに何が書かれているのかというと、何やらモノが捨てられないという性格について書かれていた。

 最初それを見た時、

「何だって、僕の性格をこんなところに書いておいたんだろう? 僕が自覚してないとでも思ったのかな? そもそも、ここで出てくる話題なのか? それもよく分からないではないか」

 と言いたいくらいであった。

 さらに先輩は、

「ものを捨てると、イヌがそれを咥えて戻ってくるのだ」

 ということも書いている。

 これも意味深ではあるが、これはモノを捨てることに対しての言及なのか、それともイヌが咥えて戻ってくるということへの言及なのかが分からない。それが分からないと、まったく意味不明な事案であり、まるでなぞかけか、禅問答でもやっているかのようだ。

「一休さんでも呼んでくるか?」

 という笑い話が出そうなくらいであった。

 しかし、一休さんという発想は、なまじ冗談でもなかった。先輩記者の残した「遺産」にはそれなりの答えが用意されているのだ。先輩も、

「上杉君なら、それくらいのことは思いつくだろう」

 という思いがあって残したものだったに違いない。

 そもそも、なぞなぞやとんちに掛けては、上杉記者は結構長けていた。本人としては、

「なぞなぞやとんちが解けても、新聞記者としての実力には関係ないので、別に自慢にもなりませんよ」

 と言っていたが、

「そんなことはない。それだけ柔軟な頭を持っていることであり、それが足で稼いできたネタを、うまく積み木のように組み立てる柔軟な頭がなければ、新聞記者としては、半人前なんだって私は思うんだ。だから、私は君のその柔軟な発想に期待しているんだよ。君はきっと、その武器を使って、将来一流の新聞記者になれるんだってね」

 と言って、先輩は言った。

「そんなおだてないでくださいよ。積み木なんて、子供の頃にしかやったことがなかったな」

 と、照れ臭さからごまかしていたが、その後に先輩は少しおかしなことを言った。

「そういえば、昭和の頃のことなんだけど、『積み木くずし』という言葉が流行ったのを知らないだろう?」

 と言われて、頭を傾げた。

「積み木くずし? それって何か子供の遊びか何かですか?」

「やっぱり、知らないようだな。今でこそ社会問題として定借してきたけど、家庭崩壊だったり、家庭内暴力などがなかった時代から、家庭内暴力が増え始めた路、ドラマであったんだよ」

 と先輩が言った。

「それを罪季くずしっていうんですか?」

「ああ、家族が崩れていく様子を描いたんだが、俺の考えでは、子供が非行に走るということで、子供の玩具である積み木を崩すというイメージに当て嵌めたんじゃないかな? 俺の小さい頃、学校の先生が、成績の良くない生徒の回答を、まるで積み木遊びのようだと言っていたのを思い出して、急にその積み木という場が気になったものだよ」

 と先輩は言っていた。

 さらに先輩は続ける。

「積み木くずしってさ、俺は実際にテレビを見ていたわけではないんだけど、見ていた人に訊けば、やっぱり見なくて正解だったっていうんだ。それだけ、内容がすごいというか、本当に積み木が簡単に崩れていくようなものだったんだろうな、今の時代は、苛めも家庭内暴力も当たり前のようになっているから、感覚がマヒしているかも知れないが、どっちがいいのか、俺にもよくわからないんだ。とにかく、いいことでも悪いことでも、先駆者というのは、注目を集めるもので、本人は自分たちが始めたことがここまで社会現象になって、そのまま日常茶飯事になるなど思ってもいなかったと思うんだ。要するに。あの頃暴力をふるっていた連中は、世間で他の人も騒がれる中で、本当の苛めは自分だけなんじゃないかって思っていたと思うんだ」

 と、先輩は話していた。

「確かにそうなのかも知れませんね。昭和の頃の学園ドラマなんかを、学生の頃にビデオを借りて見たことがありましたけど、気持ち悪くなって、最後まで見れなかったのを覚えています。それが今では新聞記者なんだから、笑っちゃいますけどね」

 と言って、笑って見せたが、どこか引きつっているかのように感じ、先輩の言っていた「積み木くずし」

 というビデオも置いていたような気がした。

 その頃の苛めや家庭内暴力などをテーマにしたドラマもいくつか製作されているようで、上杉記者は、気持ち悪いというよりも、憎悪と嫌悪に満ちた複雑な思いが、気持ち悪さを印象付けたのだと思っていた。

 あの頃からどんどん、先生や親の力が無力であるということが分かってきたようで、それまでは、父親に家族が逆らうなどありえないという時代が、そこから遠くない過去には存在していたということを聞かされて、ビックリしたものだった。

「時代がまったく違ったんだよ。高度成長の時代で働き盛りが偉い時代であり、さらに、昔からの家というところでは家長である大黒柱の父親が一番権威があって、一番風呂も父親が最初であり、夕食も父親が帰ってくるまで誰も食すことなく、帰ってきたら、全員で食卓を囲むという、それが昭和という時代だったのだよ」

 と説明してくれた。

「本当に今からでは信じられない時代だったんですね?」

 というと、

「ああ、昭和というと、戦後という言葉が、経済成長に関係なく、家族構成を象徴していたんだろうな」

 と、先輩が話してくれた。

 先輩の残してくれた「遺産」とも言えるメモの中に、

「積み木くずし」

 という文字を見つけた時、昔。先輩と話した内容のことを思い出していた。

 結構、難しい話を深堀して話していたはずなのに、いまさらのように思い出すということは、本当に忘れていたのだろうか?

 忘れていたわけではないことは間違いないはずなのだが、上杉にとっても、なぜ忘れていたのか、理由がまったく見つからなかった。それほど、話の内容が深かったのを覚えている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る