第7話 先輩の遺産
川北氏にインタビューをしてみたが、川北氏という人間を何となく分かったような気がした。やはり、上杉記者の考えでは、
「あの事件は冤罪だったんだろうな」
という思いが確定したかのように思えたのだ。
余命短い先輩記者が残した記事の内容、それは殺された勝沼博士にインタビューをした時の内容と、その時に感じた博士の気持ちがその中には入っていた。
まず、当時博士が研究していたのは、今回、川北氏が発表した、
「周波数県警の研究」
だったのである。
まったく同じ研究なのかどうかは分からないが、少なくとも研究員の誰か一人と共同で考えたようなことが書かれていた。実際に発表することになったのが川北助教授で、川北助教授が発表したことに、誰も意義を示さなかったことを見ると、先輩が書き残した、
「もう一人の共同発案者」
というのは、川北氏であることに、ほぼ間違いはないだろう。
そういう意味では、この間の研究発表披露の記念パーティは開かれて当然のものだった。
「だけど、どうして自分が殺したことになっている殺人犯である自分が、いくら禊が終わったとはいえ、あそこまで大げさなパーティを開けるというのだろう?」
と考えた。
先輩の遺産を見る限り、どうしても川北が、殺人犯には思えない。その中には、川北には余命の話はしたと書かれていた。博士にとって、周波数の研究は生涯を掛けた一世一代の研究であり、余命を考えると、とてもではないが、自分が生きている間に発表できるはずもなかった。
川北氏からは、
「博士、すべて私が行いますので、まずは精神的にしっかり持っていただいて、少しでも生きていたいと思ってくれるのを願っています:
と言われていたと書いているが、実際の川北の意志は違っているようだった。
川北から直接聞いたという風に書かれていた内容は。
「それは私も苦しいですよ。もう後わずかという人に対して、少しでも長く生きられるようになんて言う言葉を言うのはですね。本当なら、余命幾ばくかしかないんだから、残りの人生をどう生きればいいのか、もっと他に博士のためになることがあるのかも知れないのに、それらを考えずに、もちろんまったく考えなかったわけではないですが、長く生きてほしいなんていうのは、実に無責任ですからね。でも、これが博士の望んだことだと自分にも言い聞かせて、毎日研究をしています。それこそ、博士が生きている間にどこまでできるか分かりませんけどね。できるだけ進んだ状態で送ってあげたいんですよ。これが私の本音ですね」
という話だった。
先輩はそれを聞いて、
「川北助教授も、相当なジレンマを抱いていたんだろうと感じた」
と書いていた。
先輩は結局、勝沼博士が殺されたことを知ったのは、自分もすでに起き上がることすらできない状態になった時だったこともあって、この事件の真相に近づくことはできなかった。
そういう意味でも、
「もし、川北氏の冤罪を証明できる人がいるとすれば、先輩だけだったのかも知れないな」
と上杉記者は感じていた。
物証を持っているはずはなかった。何しろ、殺人事件が起きた時にはすでに病床に臥せっていたわけなので、勝沼博士が自分が殺されることを知りでもしない限り、会いにくることはないだろうと思った。
そこには、実は先輩の机の引き出しのキーが入っていて、どうやらスペアキーをわざわざ作らせたようだ。
そこには、重要なものがいくつか入っていたのだが、その中に封筒で、
「万が一の時に開けるべし」
と書かれていた。
相手の名前は上杉記者だったが、今回の博士の事件についてのことが書かれていると思われる内容を、この時初めて上杉は見ることになった。
勝沼博士は、自分が病床に臥せっている時、訪ねてきた。彼はまだ元気で、私よりも長生きすることだろう。
だが、その時の博士はまるで精気がなく、今にも自殺でもしてしまうのではないかと思えるほどだった。いくら余命を宣告されても、研究を、そして研究を続けることを諦めなかった彼からは想像もできないような感じである。それは、まるで幽霊にでもあったかのような衝撃表情で、何が彼をそこまで追いつめるのか、まったく想像もつかなかったのだった。
彼は言った。
「俺は、もう長くはない。いや、余命は分かっているつもりだが、ひょっとすると、この余命すら生きられないかも知れない。俺は死ぬことを怖いとは思っていない。研究に没頭していればいいからだ。だが、今は非常に怖いんだ。その死が自分の予想もしていないところからいきなり襲ってくるような気がするからだ」
という話をしたというのだ。
俺もまったくピンとくる話ではなく、聞き返したという。
「どうしたんですか? 博士らしくもない。今のお話を訊いていると、まるでいきなり命を奪われる可能性があるかのような言い方ですね、誰かに殺されるか、事故にでも遭うか、あるいは、自らで命を奪ってしまうか……」
と、言葉に出して笑ったが、決して私は笑ってなどいかなっただろう、
そして、この言葉の最後を口にした時、私は大いなる後悔が襲ってきた。
――自殺などということを口に出してしまうなんて――
という思いだったのだ。
「俺が今言えるのは、実は私のごく身近な人間によるものだと思うのだが、私の、いや、助手の川北君と一緒に進めている研究を盗み出そうという力がどこかで働いているようなんだ」
というではないか。
その話はまったくの初耳だった。
「そんな話、どこからも聞いたことはないですよ」
と私がいうと、
「それはそうだろう。脅迫されたという事実は昨夜からなんだからな。だから、この話は川北君も知らない、だが、俺はこれを完成できないまでも、無傷で川北君に託したいんだ。だから、もちろん、そんな脅迫に応じるつもりはないし、どうしたらいいか、少し君の意見を聞きたいと思ってきてみたんだが、どうやら君の方ではそれどころではなさそうだな」
と言われた私は、
「本当に申し訳ない。私ももうほとんど起き上がることもできないくらいになっているんだ。身の回りもヘルパーさんがやってくれていて、今は自分の残りの資料整理だけで精一杯なんだ。お前も警察に届けるわけにはいかないのか?」
というと、
「そんなことをすると、やつらは何をするか分からない。殺される覚悟を持ってやるしかないんだろうが、実は今の俺は、以前の俺のように殺されるということに対して、敏感なんだ、つまり、余命が分かっているだけに、それを自ら縮めるということに非常な抵抗がある。だから警察沙汰にはしたくない」
というではないか。
その気持ちは私でなければ分からないだろう。私は博士にどういっていいのか分からずに考え込んでいたが、
「とにかく、私は川北君に後を託したい。本来ならあなたに彼の相談相手になってほしいくらいなんだが、お互いにそうもいかないだろう。後は、正直川北君の判断にゆだねるしかない。本当に頑張って完成させてほしいんだ」
と書かれていた。
そこには、先輩と川北氏とはまったく知らないわけではないと書かれていた。
どうやら、博士は一度、先輩に会いにいくように、川北氏に話をして、一度会いに来たことがあったらしい。その時にどんな話をしたのかまでは書かれていなかった。
どうして書きこの差なかったのかを考えると、二つが考えられる。
一つは、博士の殺人事件が起こった場合、そしてもう一つが、先輩自体の容態が急変し、それどことではなくなってしまった場合、
上杉記者は、
「これは後者の可能性が高いのではないか?」
と思ったというのだ。
その時、川北氏と先輩がどんな話をしたのかは、あまり詳しく書かれていなかった。しかし、この時に川北氏が先輩に会っているということは、ひょっとすると、博士が殺される前に、博士の命が余命よりもさらに短くなるかも知れないということを、分かっていたのかも知れない。
それを考えると、川北氏が博士を殺したというのは、どう考えても矛盾しているような気がする。
ハッキリと下物証があるわけではない。殺していないという物証である。もし、彼が犯人でないとするならば、物証になることは一つしかない。
「真犯人を確定させる」
ということ以外には考えられないのではないだろうか。
川北氏が自白したのは、
「真犯人を庇いたいと思ったからだ」
というのが、理屈としては一番考えられることであった。
それでは川北氏が一番庇いたいと思っている人がいるとすれば誰になるというのだろうか?
普通に考えればやはり奥さんのつかさのことであろうか。しかし、その時の容疑者の中から一番最初に外されたのは、確か奥さんだったはず。どんな内容だったのかまではハッキリと覚えていないが、鉄壁のアリバイが確か存在したからだったはずだ。
それを思うと、奥さんは絶対に犯人ではないと分かっているのだから、奥さんを庇うという理屈は成り立たない。
それ以外に川北氏が庇う相手は誰もいなかった。何しろあの時に勝沼博士を殺害する動機があったのは、川北夫妻しかいなかったからだ。
状況的には佐久間弁護士もありえるが、佐久間弁護士にも鉄壁のアリバイがあったし、動機という意味ではむしろ、勝沼博士には死なれては困るくらいで、殺害など、考えられない。
しかも、犯行現場から見て、とても衝動的な殺人ではないのは確かだった。それを思うと、博士が殺されたというのは、
「容疑者は最初から限られていた」
ということである。
だが、ここにもう一つの可能性が考えられた。
今まで封印してきた
「先輩記者の遺産」
ともいうべき書置きを見たからである。
勝沼博士は、川北氏と一緒に研究を進めていた。二人で共同で進めていて。まだその頃は外観が見えたくらいの頃であったので、川北氏にとっても、博士に今死なれてしまっては、困るという事情もあった。
それは警察が掴んでいない情報であり、博士は誰にも言わなかったので、知っているのは、川北氏と先輩記者の二人だけだったのだろう。
そして、研究が狙われているということを知っていたのも、この二人ということになる。それが意味することはどういうことなのか、川北はどこまで分かるというのだろうか。
「川北助教授が、犯人だとすれば、確かに借金というリアルな問題があったが、科学者としてもう少しで、世界があっと驚くような発見ができるというのを、みすみす見逃してしまえるのであろうか?」
それを考えると、上杉記者は、よくわからなくなってきた。
「川北氏が一体何をしたかったのか、なぜ実刑を受けてまで、前科者という烙印を押されてまで、自供したのか、そして、出所後にいきなり研究を再開し。二年という期間で、教授のいない環境で開発を完成させることができたのは、早いのではないか」
と思えるほどであった。
上杉記者は、本当はそこまで深く聞いてみたかったのだが、まるで過去の確定した事件をほじくり返しているようで、特にこちらがジャーナリストという立場であることもあり、きっとその後に抱いた不信感のせいで、二度と彼は上杉記者に心を開くことはないに違いない。
そんなことを考えていると、一つ気になってきたことがあった。
「この研究に関しては、あくまでも川北氏と勝沼博士、そして先輩記者の三人が私から見ると見えてくるのだが、事件を背景にしても、この三人しか出てこないというのはおかしい気がする。確かに、鉄壁なアリバイに守られているとはいえ、まったく関係者としても、その名前が出てこないのは、いかにも不自然な気がする。その名前というのが、佐久間弁護士ではないか?」
と上杉記者は思った。
「この事件での佐久間弁護士の役割がいまいち見えてこない」
というのが、不思議であった。
佐久間弁護士には、一応、遺産の一部と、顧問弁護士としての会社の経営に参画できるようにしてくれたことが大きな収穫であるので、まったく殺す場合の動機がないことは分かった。
「では、何か弱みを握られているのではないか?」
という疑問も、どうやらなさそうである。
そもそも、そんな危なっかしいことをしなくても、事務所経営はそれほど危機に瀕しているわけでもない。むしろ研究所の顧問をやっている方が、よほど利益には繋がるというものだ。
先輩は、佐久間弁護士の女性関係を疑ってみたようだが、どこからも、怪しい話は出てこない。つかさ夫人との間にもそんなウワサはなく、
「二人で共謀し、博士を殺した」
という説もありえなさそうだ。
借金をつかさがどのように考えていたのかまでは分からないが、いくら怪しくても、鉄壁のアリバイがある以上、犯人ではありえないと思うと、それ以上の詮索は、プライバシーの侵害に抵触してしまう。それを考えると、つかさには、捜査の手はほとんど伸びていなかった。
ただ、一つ、鉄壁のアリバイがあるにも関わらず、先輩の調査で分かったこととして、「つかさ夫人は、勝沼博士の死期を知っていた可能性がある」
と書かれていた。
それは、夫である川北よりも詳しいということであり、ここに二人の間にただならぬ関係があったのではないかという邪推も生まれてくる。
しかし、あくまでも邪推であって、何の証拠も裏付けもないのは、前述のとおりであるにも関わらず。先輩がなぜつかさを意識するのかが分からなかった。
つかさも気になるには気になるが、先輩の書いてある中によく出てくる研究材料の、
「共鳴の問題」
ということであった。
今回の川北が発表した内容を、先輩は博士から、ある程度まで聞き出していた。
それは見ている限りでは、先輩が訊き出したというよりも、勝沼博士が自らが語っているかのような書き方だった。
そして、ある日の日記の中に、博士と先輩の間で、
「ミステリー談義」
のようなものがあった。
それを見て、面白かったので、少し話しておこうと思う。
「世の中には、皆周波数を持っていて。その力は、普通であればありえないようなことも実現させるだけの力だってあるんだ。ひょっとすると、人を殺すこともできるかも知れないほどなんだよ」
と、勝沼博士が興奮しながら語っていたという。
「小説家のアリバイトリックに使えそうだね」
というと、
「アリバイトリックだけではなく、密室トリックにも、一人二役だってできるかも知れない。周波数を使いさえすれば、ロボットなんかいらないんだ。人間を一人誰か洗脳する形で、殺害に協力させればいいんだからね」
と言っていたという。
それにしても、恐ろしい会話である。二人ともそれぞれに余命が短いのが分かっているのに、殺人事件のようなおどろおどろしい話をするなど、尋常では考えられないような心理状況であろう。
だが、お互いに覚悟が決まっているからなのか、それとも同じ心境の相手だという意識が働いているのか、どうやら話に異常なまでの盛り上がりを見せているようで、普段は考えることができないような発想が思い浮かんだりしたという。しかし、最後の方で、疲れたのか、話が出尽くしたのか、内容は一度膨張してしまうと、そこから先萎んでいくのも結構早いスピードであったようだ。
「結局は平凡な殺人トリックにしかならないんだよな。何か一本筋が足りないだけなのかな?」
と、博士がいうと、
「そんなことはないと思いますよ。それだけ完全犯罪って難しいということなんでしょうね。特に考え込まれた犯罪の方がボロが出やすかったり、複雑すぎて、シナリオ通りにいかなかったりして、それが問題となって自滅するというパターンが多いのかも知れませんね」
と先輩が言った。
「でもね、ミステリーなどでトリックはほぼ出尽くされているので、これからはそのバリエーションだ」
という。
あれだけミステリーの本が出ているんだから、少しくらいは、
「どこかで見たことがあるような小説だ」
という思いがしてくるのではないだろうか。
「完全犯罪というのは、意外と偶然から成り立つことのできるもので、下手に計画するとどこかに歪が出るものなんじゃないかな?」
と博士がいうと、
「それは加算法、減算法の考え方に似ているんじゃないでしょうかね」
と先輩がいうと、
「うん、その通りだ。なかなか面白いことをいうね」
「完全犯罪を最初から計画すると、計画した時点が百点満点で、そこから少しずつ粗が出てくる。それが減算法というもので、逆に偶然から加算法が積み重ねていくと、徐々に積みあがってくる積み木のように形ができてくると、案外、守りが堅固なだけでなく、攻めにも守りと同じくらいの力が発揮できるだけの能力を有するものではないでしょうかね。それが加算法であり、偶然の積み重ねといえるんじゃないでしょうか?」
「なるほど、偶然というのは、見た目偶然であっても、必然の可能性もあるということだね。私もその可能性には大いに感嘆する気分だね」
と博士も感心していた。
博士は続けた。
「世の中には。目の前にあるのに、誰もその存在に気づかずに、いきなり目の前に現れてビビッてしまい、普通なら避けられるものを、避けることができなくなってしまう場合もあるということを言い出いんだろうね」
「究極はその方向の話になろうかと思います。発想というのも、ある程度までは膨張していくと、そこからはどんどん縮んでくるという、Ⅴ字とは逆のカーブを描くこともある。どちらにしても、加算法と減算法兼ね備えられたものとして考えることができるのでしょうね」
と二人は話していた。
ところで、少し数学の話になるんだけど、
と、博士が言い出した。
「はい、どういうお話でしょうか?」
「君は、ゼロに何を掛けてもゼロになるということを知っているかね?」
と訊かれて。
「ええ、もちろんですよ。それくらいのことは十分に分かります」
と答えると、
「じゃあ、ゼロという数字をどう考える? ゼロというものは、何もないものだという一般論だけを信じるかね?」
と、博士がまるで禅問答のような話を始めた。
「どういうことですか?」
と聞くと、
「確かに何もないものに、何を掛けても何もないゼロにしかならないというのは、理屈として分かる。じゃあ、何を掛けても同じものになるという発想は、ゼロだけかい?」
と聞かれた。
一であれば、掛けたものと同じ数字になるので、ありえない。ゼロの次の整数は一しかないので(マイナス一であっても、同じことではあるが)、一が違うのであれば、他の数字はありえないように思う。
しかし、教授はニッコリ笑って、してやったりという表情をしているんではないか。
「分からないかね?」
と訊かれて、実は先輩には他に考えていることがあったが、
「実際には同じものであっても、微妙に違うのではないか?」
という発想から、自分の中で違うものだと決めつけていた。
「ええ、降参ですね
というと、博士はまたニコリと笑って、
「それはね。無限大という発想なんだよ」
と言われて、思わず、
「あっ」
と叫んでしまった。
実はこの叫びは、まったく予想もしていなかったことを博士が口にしたからではない。自分も同じ発想を抱いていたにも関わらず、教授がそれを口にしたことで、
「やられた」
というよりも、
「それは最初から考えていたことだったのに」
という悔しさからだったのだ。
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