第6話 上杉記者の禊

 上杉記者は、五年前の事件に興味を持っていたが、今さら何かを調べても、それが社会的に何かの影響を起こすことはありえない。

 まず法律的に、もし、犯人が違っていたとしても、一度起訴され、裁判で刑が確定しているのであるから、よほどの新事実でも出てこない限り、いまさら蒸し返すことは、一歩間違えれば世間全体を敵に回ることになりかねない。

 だからと言って、このまま何も知らないというのは、精神的にきついものがあった。気になることをそのままにしておくことができない性格であった。

 もし、新たな証拠や新事実が見つかったとしても、それは自分の胸にだけ収めておくことしかできない。ただ、もちろん、そのきっかけがなければ、何もできないのも同じことであり、いまさら警察に聞いて教えてくれるはずもなく、捜査資料もすでに封印されているのではないだろうか。

 それに自分は仕事を持っている身である。自分の生活を犠牲にしてまで、いくら気になるとはいえ、そちらに重きを置くというのはできることではなかった。やはりきっかけと事実認定でもなければ調べなおすことなどできるはずもない。

 そもそも上杉記者がなぜこの事件に興味を持ったのかというのも曖昧であり、事実としてのものはあるのだが、そこまで入り込む必要性はまったくなかった。

 きっかけとして明確なものとしては、上杉記者の先輩で、

「俺が今あるのも、その人がいてくれたおかげだ」

 と思っている人が、病気で死んでしまったことが一つの原因であった。

 年齢は五十歳くらいになるであろうか。その人が、死ぬ間際まで気になっていることがあると言っていたのだが、ずっとその内容は教えてくれなかった。

 今ならどうして教えてくれなかったのか分かる気がする。その時のその人が抱えていたやるせない気持ちを、自分に味合わせたくなかったからであろう。もし、その事実が分かったとしても、いまさらそれを表に出すことはできない。ただどんな事実が待ち受けているのか分からないが、それはすべて自分の胸にしまい込んで、最後まで誰にも言わず、最後は墓場まで持っていくということにしなければならない。そんな消化不良な状態を、他の人に背負わせることはできなかったのであろう。

 その人はジャーナリズムの塊りのような人だった。

 しかし、人には優しく、人を中心としたものにも優しかった。

「気を遣うという言葉が、これほど似合う人はいない。気を遣うという言葉はこの人のためにこそあるようなものだ」

 とまで言われた人であった。

 精神的な基本は、

「勧善懲悪」

 である。

 そのため、いつも温厚で好々爺のような顔をしている人だったが、急に鬼と化す時があった。それは、彼の持っている「勧善懲悪」の気持ちを妨げられたり、刺激された時に起こす行動で、そのほとんどの場合、我に返ると、その時の記憶が残っていなかったりした。それほど勧善懲悪は彼にとって絶対であり、同情や情状酌量などというのは、その次に来るものだったのだ。

 そんな彼が気になっている五年前に発生した、

「勝沼博士殺害事件」

 刑も確定し、犯人も刑務所で刑に服しているというのに、秘密裏にいろいろ調べていたのだ。

「私にとって、あの事件はまだ終わっていない」

 と言い続け、まわりは、何の事件なのかもわからず、

「また始まった」

 とばかりに、彼の行動を、

「ほとんど病気」

 という目で見ていたのだ。

 だから、記者として記事にすることはできないことから、彼は事実が判明しても、それは事実解明ということよりも、研究という程度のものでしかないことは重々に分かっていた。

 彼は、自分の死を悟っていた。それは、殺される前の勝沼博士と同じだったのだろう。

「ひょっとすると、自分が長くないということを分かっていて。その気持ちが勝沼博士と共鳴したことで、あの人は事件に興味を持ったのではないだろうか。しかも、博士の助手であった川北氏が研究しているのが共鳴だということも、ただの偶然として片づけられるというのか」

 それを思うと、亡くなった先輩記者の気持ちが分かる気がして、研究の後を引き継ごうと思った。そして同じ気持ちを川北氏も持っているとすると、上杉記者は、次第にあの事件の犯人が川北氏ではないように思えてならなかった。

 これも、精神的に何かが共鳴したということになるのだろうか。

 上杉記者が、インタビューをこの日に合わせたのも、ちょうど上杉記者にとっても、禊を今日だと思っていたからだった。亡くなった先輩記者は、上杉記者を後継者だと考え、それまでの彼が貯めていた日記や、メモをすべて上杉記者への遺産のつもりで残してくれていたようだ。

 川北氏も博士から遺産の分配を受けていたというではないか。ますます立場も見ていると言ってもいいだろう。

 ただ、彼は博士殺しのレッテルを貼られている。今の川北氏と自分の立場が同じだと考えると、どうしても彼が博士を殺したとは思えないのだ。

 きっと、それは亡くなった先輩の方が叙実に感じていたことであろう。だから、死ぬ前に真実を明らかにしておきたかったに違いない。志半ばで亡くなった先輩の無念さを思うと、自分が行動を起こすのは、川北が禊を解いた時だと考えるのは当然のことで、自分も先輩に対して何もしてあげられなかったという罪の意識を禊として解釈してれば、川北が解き放った禊と同じ今であるべきだと思ったのだ。

 川北氏は、さすがに普通の披露パーティのような晴れやかな舞台というわけにはいかないようで、絶えず緊張した表情が漲っている。同じように上杉記者も同じような緊張感をもって、初めて対面する川北に挑む気持ちでインタビューしたのだ。

 川北からは、さぞや、

「厚かましい記者」

 と思われたに違いない。

――いまさら過去のことをほじくり返してどうしようというのか。禊は済んでいるのである。

 川北はそう感じていることだろう。

 川北氏が初めて上杉記者の前に姿を見せた時、上杉記者の緊張感はかなりのものだった。そして彼には川北氏が自分を敵視していることがすぐに分かった。

 もっとも、普通であれば敵視であることは分かっているだけにビックリはしなかったが、今の段階で自分が川北氏の味方の立場でいることを知られたくはなかった。

 あくまでも今は味方の立場であって、味方ではない。味方になるためには、まだ何かが足りないのだが、その時の上杉記者には、その何かが分かっていなかった。

――川北助教授という人間は、相手に悟られないようにしようと思うあまり、悟られないようにするやり方ができていない。要するに不器用なのだ――

 と感じていた。

 自分もそんなに器用な方ではないが、川北氏ほどではないと思った上杉記者はますます川北氏を他人のように思えなかった。

 川北氏は、自分が先ほど何を話したのか、だいぶ忘れていたが、実は上杉記者の方も、書き込んだメモを見ないと分からなかy他。

 いつもであれば、ついさっきのことを忘れるようなことはないはずなのに、今回だけはまるで健忘症にでもかかったかのように、思い出せないのだった。

――急性というか、突発的にというか、健忘症がこんな風にして起こるものなのだろうか?

 と思ったが、健忘症についてほとんど詳しいことを知らない上杉記者は、少し自分の記憶力が気になってしまっていた。

 もちろん、弱遠征の健忘症というのはあるのだろうが、いきなりこんなところで急におこるはずもない。

 何か、意識の中で

――忘れてはいけない――

 と、猛烈に感じるものがあって、それを意識するあまり、他のことが覚えられないのだろうか。

 覚えられないことと忘れてしまうことではまったく違う。

 覚えられないことというと、幼児のように頭が固まっていない時は覚えられなくても仕方がないだろう。しかし忘れていくというのは、年を取ってからのことであり、頭が形成される場面での状況からか、それとも、一旦固まってしまった頭が老化によって衰えていく間に起こってくる現象なのか、それが大きく影響してくることではないかと、上杉記者は考えていた。

 川北助教授にもモノを覚えられないことと、健忘症に関しては独自の考えを持っていた。それは、上杉記者と似てはいるが、同じものではないという、そんな感じのものだった。

 川北助教授には、悪い癖があった。

「モノを捨てられない」

 という意識があったのだ。

 頭の仲が整理できないのだろうが、それなのに、

「よくあそこまで緻密な計算の元に、学説を作ることができたものだ」

 と彼を知っている人は、皆口を揃えて、そういうに違いない。

 特に一番そのことを感じているのは、妻のつかさかも知れない。インタビューを受けた時など、

「旦那さんとしてはどんな人ですか?」

 と私生活のことを聞かれることがあったが、よほどこのことを言いたいと思っていたが、さすがに名声を手に入れた学者のことを、ディするわけにもいかないだろう。

 だが、実際には、モノが捨てられず、はやの仲は荒れ放題だった独身時代の部屋を思い出すと、気持ち悪さがこみあげてくるくらいのつかさだった。

 彼にそのことをいうと、

「いいじゃないか、俺の部屋なんだから、別に迷惑を掛けていない」

 と言って、却って怒らせることになる。

 要するに、彼にはモノを捨てられないということ、そのために部屋が荒れ放題になっても、それが悪いことではないと思っているのだった。

 人に迷惑を掛けているかどうかは、相手がどう感じるかということなので、当人が決めることではないように思うが、川北氏の言っていることもあながち間違っているわけではない。

「子供の頃に、親からいろいろ捨てられたんだよ。いるモノ、いらないモノ関係なくね。だから俺は、どんなものでもいつ必要になるか分からないじゃないか。その時はいらないと思っても、後で実は必要だったと思いたくはないんだ。そんなことで後悔するなんて、くだらないことなんだけど、実に重要なことなんだ。だから、それなら最初から手を付けなければいいという考えなんだ」

 と言っていた。

 この考えにも賛否両論あるに違いない。

「最初から整理しておかないから、後で探す時、どこにあるか分からなくなる」

 という考えもなるほどと思えるのだが、やはり勝手に捨てられたという意識がトラウマのようになっていることで、捨てることの恐ろしさを最初に知ってしまったことで、どうしてもまた同じ思いをしたくないと思うことで、モノが捨てられないのだ。

 今では、断捨離というものが流行っていて、少しでも身軽にしておこうという考えがあるようだが、どうにもその考えもできる人、できない人、さまざまだろう。できない人は一律に絶対にできない方にあり、できる人は、絶対にモノを減らしておかなければいけないと思っている人、なるべく少ない方がどちらかというとマシだと考えている人、さまざまであろう。

 断捨離とモノを捨てられなくて、頭の中が混乱している人とは同一次元で解釈してはいけないのかも知れない。

 断捨離をする人でも、物持ちのいい人もいれば、モノを捨てられないからといって、決して頭が混乱していない人もいれば、断捨離に邁進する人もいる。きっと、何かのきっかけで、それまで見えなかった向こう側が見えるようになり、その瞬間に壁がなくなってしまったかのようなそんな感覚になるのかも知れない。

 混乱している頭を整理するのを、頭の中の断捨離のように思っている人もいるだろうが、そうではない。頭の中は意外といろいろなものが入るだけのスペースは半永久的な大きさとして持っているのではないだろうか。

 だから、どんなに記憶を封印しようが、記憶の封印には限度がないかのように思われる。だから、断捨離をしても、ある意味、意味がないのではないだろうか。頭が混乱するのはモノに対してスペースが足りなくなった時、融通が利かなくなることで起こる混乱ではないかと思う。

 混乱が起きるはずもない大きなスペースであれば、断捨離などする必要は最初からないのではないだろうか。

 川北氏の中での断捨離は、すでに済んでいると思っている。最初に断捨離した中で、これから少しずつ増やしていくという考えを最初に持っているか、持っていないかで、モノを捨てられない自分が頭の中が混乱しているとは思えない。

「部屋が汚いのは、頭の中が整理できないわけではなく、ただ単に、汚い方が落ち着くんだ」

 と言っている人がいるが、ほとんどの人は、

「そんなのは欺瞞を利かせた言い訳にしか過ぎない」

 というだろうが、川北氏がいうと、どこか信じられるような気がするのは、川北氏の役得のようなものであろうか。

 実は上杉記者も、モノが捨てられない性格だった。彼はどちらかというと、ただ単に頭の整理がつかない方だからだと思われがちなのは、彼の会社のデスクの上が、ひどいことになっているからだった。

 そもそも新聞社や雑誌社の編集部と言うと、机の上が綺麗な方が珍しいくらいで、まるで仕事をしていないのではないかと思われるくらいである。

 それでも彼はその中でも群を抜いて散らかっていて、いつも編集長から、

「たまには片付けろよ」

 と言われていた。

 さすがに大きな声では言わず、静かに耳打ちするくらいなので、却って脅しにはなるかも知れない。

 だが、その時は整理しても(と言っても、無作為に置かれているものを、一か所に纏め、積み重ねただけだが)結局はまた少しして、元の木阿弥だった。

 注意を受けても、よほどその気にならなければ、ここまで散らかってしまうと、片づける気にはならない。自分でも、

「どうせまた散らかるわ」

 と思っている以上、どうしようもないというものだ。

 少々汚くても、汚いという気持ちが湧いてこないのだから、しょうがない。

「掃除くらいしろよ」

 という方は、本人がどのように掃除していいのか分からないから、一度せっつくことで、片づけるという意思が生まれるのではないかと思うのだろうが、本人がその状況を嫌だとは思わないのだから、別に問題ないはずだ。

 しかも、

「机の上が散らかっている方が落ち着くんだ。変に片づけると、落ち着かない」

 というのを一般の人であれば、

「そんなのは、言い訳にしか聞こえない」

 ということになるだろう。

 だが、実際にその通りなのだ。普段から散らかっている中で作業をしていると、散らかっていないと落ち着かない。それがその人のやり方であり、効率がいいのであれば、放っておいてもいいと思うのだが、どうなのだろうか?

 スポーツ選手のように、結果がハッキリと数字に出れば、数字さえ残せば誰にも文句を言わせることはないだろう。

 バッティングフォームが、理論的におかしいということで、コーチからの指示で、直されることが多いが、実際にその人にとっては、今までの打撃フォームが理に適っているようで、コーチの言ったように直してしまうと、数字が伸びないが。元のフォームに戻すと、結果が出るということは往々にしてあるものだ。

 ひょっとすると、コーチが言ったようにフォームを変えて、それでだめで戻したことで、その選手の才能が覚醒したのかも知れないが。

「元に戻して成績が上がってきた」

 ということが数字に出てくれば、選手は、

「名選手」

 そして、直すように指示したコーチは、先見の明がなく。さらには教科書的な凝り固まった指導法しかできないということで、

「ダメコーチ」

 というレッテルが貼られてしまうに違いない。

 実際に今のアスリート界は、そういう選手が多いのかも知れない。

 コーチの中には型に嵌った指導しかできない人もいるのだろうが、本当は、

「選手個々を知ることもコーチの仕事だ」

 ということを知るのも、コーチとしての最初の勉強なのではないだろうか。

 まあ、こんなことを書いている筆者も、プロではない。思ったことをただ書いているだけの野次馬のようなものだ。だが、それが小説のネタになるのだから。世の中というのは面白いもので、小説を書いていると、喉から手が出るほどネタがほしいというものだ。似たような発想であれば、いくらでも使わせてもらうことにしよう。

 さて、余談はこれくらいにして、

「机の上が散らかっていないと落ち着かない」

 と、いうのは、新聞や雑誌の記者にはあるあるではないだろうか。

 上杉も同じようなもので。

「俺たちは記事をいろいろ拾ってきて、拾ってきたピースを積み重ねていくだけだ。整理整頓ができていないと、頭が整理できないという理屈で考えれば。この積み重ねで勝負が別れるはずである。

 しかし、実際に勝負の分け目は、別に机が綺麗だから、早く積み重ねられるというわけでもない、却って、机が散らかっている方が能率が上がる人が多い。

 それはきっと、その人のリズムがそうさせるのだろう。散らかっていることで、妄想により早く入り込むことができ、機械的な作業をしている間でも、妄想の世界に入ることができるのだ。

 普通はそんなことなどできるはずはない。だから、他の人と同じように、整理しないと発想が生まれてこないような世間一般の人間の考え方しかできなければ、頭が回るわけもないのだった。

 科学者というのは、凡人とはまったく頭の構造自体が違っているという話を訊いたことがある。まさか頭を解剖して比較したわけではないだろうから、何を根拠に言っているのか分からないが、根拠のない代わりに、結果としての何か裏付けのようなものがあるに違いない。

 それさえハッキリしていれば、もう、誰も、

「机の上を整理しろ」

 などとは言わない。

 むしろ汚い状態が、いつもと変わりはないかということを見る方が、その人の調子やバロメーターを図る意味ではいいのかも知れない。

 川北助教授の方は、別に汚くないと、頭が回らないというわけではないが、もし汚くても意識がないのだとすれば、それは妄想に入った時、どちらが違和感がないかということになるのだろう。

 そういえば、川北助教授は、亡くなる前に勝沼博士が断捨離をしていたのを見たことがあった。

「どうしたんですか?」

 と訊いた時は、机の上を掃除しているところで、その頃には机の中にはほとんど何もない状態だった。

「そんなに捨ててしまって大丈夫なんですか?」

 と聞くと、

「ああ、大事なことはパソコンに入っているし、ネットの方でも保管をしてある。今はネットもセキュリティの問題などがうるさいので、お金さえ出せば、かなりセキュリティに関しては厳重なところに保管することだってできるんだ。今、佐久間弁護士に相談しながら、研究室の重要資料は、そっちに保管するようにしている。だから、君たち助手であっても、いや、この私であっても、そう簡単に閲覧することはできないようになっている。ネットの世界ではなりすましであったり、侵入などは専門家がいるので、簡単にできるようなんだ」

 と博士は言っていた。

 博士は思ったよりもしっかりしている。さすがに机の上を汚くするようなことはない。川北もそこは感心していた。

――僕も研究が成功するようになるためには、断捨離だったり、整理整頓ができるようにならないといけないんだろうか――

 と考えていた。

「僕は博士と違って、いつも散らかしてばかりいるので、それが研究に支障をきたしているんでしょうかね?」

 と、まるで小学生のような質問で、そんなことを博士にいうのは、少し恥ずかしかったが、今の世の中、今まで長年言われていた定説が、研究が進むにつれて、実は違っていた。迷信だったというようなことも少なくないだろう。

 博士は川北がモノを片づけることができない。そしてモノを捨てることのできない人間であることを分かっている。分かっていて、敢えて何も言わないのだ。

「まさかとは思うが、博士は僕のことを反面教師のような扱い方をするんじゃないだろうか?」

 と思ってはいたが、果たしてどうなのだろう?

 今はなき博士の跡を継いで、研究に邁進してきたが、本当なら、前科がついてしまったことは、もう消すことのできない汚点として残ってしまったが、川北の中では、

「これも病む負えないこと」

 と思っている。

 まるであの時の事件がなければ、そして自分が犯人ということにならなければ、この自分が研究を完成させるなどできるわけもなかったと思っている。

 しかも、そのことを博士は最初側分かっていたのではないかとも思えた。もしその通りであれば、これほど怖いものはない。

「以前の毎日と今の毎日では見た目は変わっていないが、今の方が数倍いいところもあり、逆に悪いところもあった、波乱万象な人生だ」

 と思うようになったのだ。

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