第3話 発表された研究内容

「君は一体何に、そんなに驚いているんだい?? 余命を宣告されたことが、何か自白に支障をきたすとでもいうのか?」

 という捜査員に対して、しばらく頭を下げて考え込んでいたが、それを見ながら、

――いまさら何をそんなに悩む必要があるんだ? 犯行を自供したのであるから、素直に状況を話せばいいだけではないか。余命いくばくもないという事実に対してのことなのか、それとも博士がそのことを知っていたということが川北にとって、そのまま小片してもいいことなのかどうか、考えているというのか。よくわからない――

 と思わせた。

 取り調べの刑事としても、川北が考えているのが、

「いかに裁判で有利な証言をするかというのを、この男は考えているのだろう」

 と思っていただけだが、まさか、この期に及んで、自供を覆すなどというのは、ほとんど考えていただけに、驚きと怒りがこみあげてきた。

 その時の川北は下を向いたまま、ボソッと呟いただけだった。

「僕は博士を殺してなどいません」

 聞こえるか聞こえないかの言葉に、

「えっ? 今なんて言った?」

 と訊きなおしたが、今度は大きな声で、

「私はやっていないんだ」

 と、その場に崩れ落ちるかのように、頭を抱えて、机の倒れこむようにしていた。

 やはり、取り調べを行う立場とすれば、怒りが一番にこみあげてきて当たり前だろう。何しろ、ここまで捜査してきて、自供に持ち込んだことで、彼の証言の裏を地道に確認しながら、ここまでは少なくともウソが混じっていなかったことで、

「この事件も、あと少しだ」

 と誰の心にもそう思えたはずだ。

 しかし、それを根底から覆す言葉をいうことで、捜査員全部がやり切れない気持ちになることは分かり切っている。犯罪捜査において一番嫌な現場であり、、誰もが悔しさを抱く。それほどいったん犯行を認めた容疑者が、犯行を覆すということが、捜査員に対して苛立ちを感じさせ、自己嫌悪に陥らせることはないだろう。

 それも、自分たちの捜査が間違っていたのであれば、自業自得とも言えるが、今度のようにすべてを自供したことで、その時点からは、自分たちの想像はありえない常態になり、犯行の自供の裏付けを取るという、一種の事務的な作業を地道にこなすだけになってしまったのだ。

 捜査員とすれば、ここまでくれば、すでに自分たちの仕事のほとんどは終わっていて、いわゆる、

「自分たちの仕事は終わった」

 という一種の憔悴感のようなものに襲われる時期であった。

 捜査員の中には、軽い鬱にかかる人もいるくらいで、ただ、実施兄世の中は動いていて、次々に事件が起こっていることで、倦怠感に浸っている暇のないことが、幸いして、鬱状態を免れているという人も少なくはないに違いない。

 捜査員の数人が双六で変なところに止まってしまったことで、スタートに戻らされたような気持ちになる。だから、このような状態になった時、精神的に自分たちの中で意識している、

「夢と現実の世界の境界線」

 というものが曖昧になってきているち自覚することだろう。

 そもそも犯罪捜査というのは、最初から夢と現実が交錯しているかのように感じられるのが特徴であったのだ。

 事件の捜査をしている時、刑事の中には、

「本当に犯人は、川北氏何だろうか?」

 と思っている人も少なからずいただろう。

 何と言ってもこの事件では、犯罪を決定的とする証拠が存在しての逮捕だったわけではない。どちらかというと、消去法で残ったのが、川北氏だったということと、物証がなくとも状況証拠は確実に川北を犯人と示していることで、

「自供冴えあれば」

 というのがm捜査本部の見解だった。

 逮捕してからは途中までは順調だった。状況証拠がゆるぎない状況にあるということと、警察にとって有利だったことがあったことから、彼は自供したのだ。

 警察にとって有利だったというのは、何といっても、彼がアリバイを申し立てた相手が、簡単に裏切ったことだった。

 アリバイがなかったのは間違いのないことで、アリバイを申し立てられないことで捜査員から疑われれば自分が圧倒的に不利になることは分かっていた。だから、アリバイ証言は絶対に必要だったことで、アリバイ工作に関して、彼はそれほど心配しているわけではなかった。

 むしろ、いずれ捜査でハッキリするであろう遺言書のことであったり、妻の借金に関しての状況が、すべて自分を不利に導く、

「状況証拠」

 たるることは歴然としていたのだ。

 アリバイ工作をお願いした人間から裏切られた状態だったが、そもそもそこまで信用していい相手でもなかった。

 お願いした相手は、スナックの女の子で、少なからずの買収だったのだが、刑事から責められたり、

「もし、これが偽証だと分かると、偽証罪となって犯罪になるんだぞ。もし刑を問われなくても、その話が世間に知られれば、商売がどうなるか、分かったものではない」

 などと言われれば、ビビッてしまうのも当然だ。

 そういう意味では、その頃の川北という男は、

「世間知らずだった」

 と言っていいだろう。

 証言が覆ったことを知って、ある程度そこでもう自分の容疑が固まってしまったことを覚悟したのだろう。人を信じ込んでしまったことが決定的だったと言ってもいい。

 あっさりと自白し、犯行を少しずつ話し始めた時、彼にとって、

「自供を覆さなければいけない」

 という事態に追い込まれたようだ、

 これは、最後まで誰にも言わなかったが、やはり博士の命があとわずかだったということが大きかったのではないだろうか。

 ただ、だからと言って、いくら余命宣告を受けていたとしても、その後、殺害に走らないという根拠はない。余命宣告を受けたとしても、一年の宣告で、三年近くも生きたという話も聞いたことがある、

 死が近づいているのは確実なのだが、それはあくまでも、

「限りなく死が近い」

 というだけで、余命通りにいく可能性はむしろ、かなり低いかも知れない。

 そう想うと、本当に博士が死なない限りは、借金という目の前の苦悩から逃れることはできないのだった。

――どうせ、死ぬことになるのだったら、手をこまねいて見ていて、結局最後、手に掛けることになるのであれば、その罪悪感は計り知ることができない――

 という気持ちにさせられた。

 人を殺すということが自分にとってどういうことなのかもわからず、

「死んでくれなければ、こっちの命が危ない」

 という妄想に取りつかれてしまった川北にとって、下手に博士が余命宣告されていたのを知っていたとしても、殺すことには違いなかったように思う。

 しかし、できることなら知りたくはなかった。知ってしまえば、罪悪感から逃れることはできない。その状態で罪を認めていたということは、またもう一度、覚悟を決めなければいけないということだった。

「こんな覚悟、そう何度もできるものではない」

 そう思ったことが、川北にこのまま最初の覚悟だけを持ったまま、罪を認めたことで、素直に刑に服すなどできないと考えたのだ。

 実際に彼が犯人であれば、何か一言で簡単に上述をひっくり返すなど、普通は考えられないだろう。

 ということは、

「彼が犯人ではないかも知れない」

 という考えがよぎってくるのだろうが、その予感は、意外と捜査経験の浅い捜査員の中で燻っているものであった。

 やはり、ベテランになればなるほど、プライドが許さないのだろう。

 そんな彼が、どうして犯行を否認し始めたのか、最初は誰にもその理由が分からなかった。

 実際に本人である川北本人も、

「まさかあの時犯行を否認するなど、自分でも思っていなかったですね。だからこそ、あれが本能によるものであると思ったことで、今の自分があるのだと思います」

 と、刑期を終えて出てくる時に、ふと話したことであった。

 もっとも、彼が犯行を認めたことは、事件関係者のほとんどが知っていたが、一旦、振り出しに戻して、事件が自分によるものではないということを証言し始めたなどと、ほとんど誰も知らなかった。

 警察の方としても、なるべくであれば、世間には黙っておきたいことだった。一歩間違えれば冤罪ではないとしても、冤罪騒ぎになりかねない。そんな状況を警察みずからいうわけもなく、このことをいうのは、警察内部でもタブーとされた。

 それでも当事者は諦めない。一度は全面的に自供し、スムーズな事情聴取に応じていたわけだから、当然、話も辻褄が合っているわけだし、彼が犯人ではないとすれば、誰が犯人なのか、見当もつかなかった。

 彼が、最終的に事件を認めることになったのは、晩越しである佐久間先生のおかげであった。

 席巻の様子は警察にも分かるわけもなく、頻繁に佐久間弁護士が席巻に訪れるようになった時には、すでに裁判をいかに有利にできるかという話をしていたようだ。まだ完全に彼が犯行を認めているわけではなく、否認した状態でそこまで話し合っていたというのは、犯行を否認したということから、何か計算があったのかも知れない。

 どこまで警察が分かっていたのかは分からないが、とにかく一度覚悟を決めて自供を始めてから、何かの影響からか、掌を返して否認しはじめた。それをまた認めることになったのだが、その時に、彼にどれほどの覚悟があったのか計り知ることはできない。

「意外と、あっさりとしたものだったような感じだったけどね」

 と、佐久間弁護士は、そういった。

 佐久間弁護士というのは、企業の顧問弁護士を務めるくらいの敏腕弁護士としては遊泳であった。

 実際に裁判でも、もし負けたとしても、

「ただで起きるようなことがない」

 と言われる通り、最小限の依頼人の権利は保証された。

 彼の一番いいところは、

「機転が利く」

 というところであろうか、

「普段は様子見から入ったとしても、抑えどころはしっかりと握っていて、相手に主導権を握らせない」

 というところに、佐久間弁護士の真骨頂があった。

 だからm検察側も、

「佐久間弁護士とはあまりやりあいたくはない」

 と、招かれざる客のようなものであった。

 佐久間弁護士は、海千山千とも言われ、捉えどころのなさも特徴だった。そんなところもあってか、まるで、

「忍者のような弁護士」

 と言われていたのだった。

 それだけに、最初は急に川北が犯行の否認を行ったのは、

「裏で佐久間弁護士が意図を引いているのではないか」

 と言われたが、意外にも佐久間弁護士も犯行を否認されるなど、想像もしていなかったことらしく、佐久間弁護士にここまで意外と思わせる顔をさせたということで、簡単そうに見えたこの事件が、何か違和感を抱かせる事件として、今もくすぶっているものがあった。

 何しろ、人を殺して服役した人が、出所後二年後に、研究を完成させて、このような研究発表記念の披露パーティを開催できるようになるのだから、驚きの連続であることは誰の目にも明らかだった。

 連続というのは、出所後には借金問題もなくなっていて、博士の遺産がもらえないにも関わらず、結果を実力で残して、このようなサプライズを起こせるようになったのだから、世間の目も複雑であった。

「殺人犯のくせに」

 という人もいれば、

「見事な復活劇」

 と言って賞賛する人も多かった。

 ただ、殺人犯ではありながら、研究においての貢献から、彼を悪くいう人は思ったよりもいなかったようだ。そのおかげか、殺人犯だということもあまり大きな口では言えないという評判がたっていた。それどこから、

「警察による冤罪の可能性がある」

 とまで言われるようになり、刑期を終えて出てきたからの川北氏の動向は、彼に完全に追い風だったのだ。

 その影響は、どこから漏れたのか、

「川北氏は、途中で自分の犯行ではないと言い始めたのに、警察がそれを聞き入れずに、裏付け捜査もほとんど行っていないまま、彼を起訴し、そのまま有罪判決に至った」

 というものである。

 裁判の中では彼の否認が問題にはなったが、それで彼が無罪になることはなかったが、無罪にはならないまでも、情状酌量の要素になったのか、求刑に比べて実際の罰は、かなり軽いと言えるのではないだろうか。

 それを、被告側は控訴もせずにm簡単に刑が確定した、その頃には、

「早く刑を確定させて、一日も早い彼の復帰を」

 という意見があったことは否めない。

「川北氏は、プライドを捨てて、実務を取ったんだ」

 ということになり、彼にプライドを捨てさせてまで彼を追いつめたというのが、警察に対しての風当たりだった。

 それだけに、警察側とすれば、

「やつの途中で起こしたどんでん返しの目的はここにあったんだ」

 ということに気づかされた。

 それも彼が刑を終えて出所後、あっという間といっていいほど短期間で、新たな研究を発表するという偉業を果たしたのだから、当然世間の目は、

「彼は研究に何らかの自信があったので、早くこの事件を終わらせて、戻ってきたかったんだ」

 と思わせたのだった。

 彼は世間からの名声も同情も一緒に手に入れた。そんなことができる人はなかなかいないだろう。

 一度服役し、出所後に小説家などとしてデビューする人もいたりする。そんな人は、自分の服役をネタにしてのことなので、どちらかというと、

「あざとい」

 と追われることも多いだろう。

 しかし、彼は自分の服役をネタにしたわけではなく、元々の自分の職業で成功したのだ。それは賞賛に値すると言えるのではないだろうか。

 そのあたりからも、

「川北氏は冤罪だったのではないか?」

 という話にもなり、それが定説のようになってくると、警察の立場は微妙だった。

 ただ、彼が刑期を終えて出てきているので、もうこのことで彼を再度訴えることはできない。完結した事件として、世間では過去のことになっていた。

 何と言っても彼の動機とされた、

「遺産目当ての殺害」

 というのは、彼が捕まって、犯行を白状した時点で、遺産相続の権利を失ってしまっていた。

 自力で自分の財産を処分して、妻の借金に充てたのだったが、そのあたりのすべての手続きを行ったのは、佐久間弁護士だった。

 彼は実にうまく立ち回った。優秀な弁護士であり、亡くなった博士が全面的に信頼していたのであるから、相当敏腕なのは分かっている。

 それでも、彼の鮮やかさは群を抜いていた。佐久間をよく知っている人であっても、

「まるで計算されたかのような手際の良さ」

 とまで揶揄するほどであった。

 さて、川北氏が今回発表した研究成果というのは、近未来の科学の発展を、予知したかのような発表であった。

「こんなことってなかなか難しいよな」

 と言われることの発表であった。

 今までの科学や物理学の発表は、近未来に関して、ロボットやAIであったり、もっといえば、

「空飛ぶ車」

 などと言った、昭和三十年代から四十年代にかけての、初期のマンガや特撮ブームの発明が、まったくと言っていいほど実用化されていないではないか。

 特に空飛ぶ車や、タイムマシンや、ロボット開発などというものは、もう半世紀以上も前から叫ばれている、

「近未来」

 だったはずである。

 だが、実際はどうだというのだ? タイムマシンはおろか、ロボットと言ってもやっと最近になってから、二足歩行で、人の声を認識できるごく単調な動きしかできないものしか完成していない。インフラに至っては、新幹線開通の今から五十年以上も前に言われていた、

「リニアモーターカー」

 ですら、やっと、試験的に運用されるという話が政府から出てきたくらいではないか。

 それに比べて、コンピューターであったり、通信機器などの発展はすさまじいものがある。

 ただ、このあたりは、最初に基本形が開発されると、そこから先は、エーカー各社が、そのノウハウを生かして、どんどん新しいものを開発していくことで、急速な発展を見ることができる。だからある意味、扉を開けさえすれば、そこから先は、ドミノ倒しのごとく、大きな発展が見込めるのではないかとも言えるのではないか。

 ただ、専門家になればなるほど、その意見に一定の評価を示しながら、本当のところは違う理由が存在し、そこには、

「開発を進めるには超えてはいけない結界があり、その結界が倫理的な不可能を形成しているのだ」

 という考え方があった。

 タイムマシンや、ロボット開発に関してはその発想が大きく影響している。

 タイムマシンの研究というと、まず何と言っても、倫理的に、SF小説などで言われてきた問題が大きいのではないだろうか。

 例えば、

「タイムマシンを使って、過去に行くとする。そこで、自分の親にあったりして、自分の存在に関係のある人の歴史を変えてしまうとどうなるだろう? 自分が生まれてこない可能性があるではないか。しかも、ここからが難しいところなのだが、自分が生まれてこないのだから、自分がタイムマシンで過去に行くということもない。そうなると、歴史が変えられることはなく、自分が生まれてくることになる」

 といういわゆる、

「タイムパラドックス」

 と呼ばれるものである。

 タイムパラドックスは、

「変えてはいけない歴史を変えてしまうと、それが未来に影響を及ぼす」

 というものであり、SF小説などでは、王道と呼ばれるジャンルだと言ってもいいだろう。

 だが、これも、

「歴史はすべてが繋がっている」

 ということから成り立っている考えであって、

「いったん狂ってしまった歴史は、絶対に元に戻らない」

 という考えから来ているものだった。

 だが、果たしてそうなのだろうか? 

「少々歴史が歪んでしまったとしても、ほんのちょっとした無意識のことであっても、歴史を変えられるのであるから、元に戻すことも、さほど難しくはないのではないか?」

 そう考えることも可能なのではないかと思えるのだった。

 だが、あまりにもそれを証明することはリスクの大きなっことである。実際に過去に行って歴史を変えてみなければ結果は分からない。変えてしまうことで戻ってくる世界がなくなってしまったら、それこそ、浦島太郎の話のようではないか。

 と、そこまで考えた時にふと、川北氏は思った。

「浦島太郎という話は、実はタイムパラドックスの話を描いているのではないだろうか? 何しろ、二、三日の間に生みの仲の世界に行っている間に、世の中は七百五十年が経過しているという設定だった。それは、アインシュタインの相対性理論によって、照明されることであって、浦島太郎が書かれた時代に、そんな発想があったとは思えない」

 つまりは、この時代における話としては、超人的な想像もつかないような力が働いていたという考え方である、

 それが未来人に対しての教訓のようなものなのか、それとも、未来への挑戦なのか、少なくともそのどちらかであり、ただの童話や民話ではないことは確かな気がしたのだ。

 こんな話は世界の仲にも存在しない物語であろう。それだけに日本人という人種は、たまに全世界でも、全時代を通しても、トップクラスの人が登場する民族だと言えるのではないだろうか。

 ある雑誌の評論で、科学者についての評論を書いている人がいたが、これとまったく同じ発想をしていた。そういう意味で、今の日本の科学者の中でランキングがあった。

 今、科学者として成功していて、世界に名を馳せている人を始めとして、これからの世の中にて、科学者界をしょって立つ若手として。川北氏の名前も書かれていたのだ。

 そういう意味で、この記事を書いた記者の鼻は高いことだろう。自分の記事で話題にした人が、前代未聞呼ばれる発明をしたのだ。

 彼の発明は、ある一定の周波数に関わるものであり、その研究は、それまで行っていた研究とは少し違っていた。

 目的が違っていたというだけで、彼はただ視点を変えただけのことだったのだが、そのおかげで発見できたこの研究。視点の転換を思いついたのは、ちょうど博士が殺されてから、彼に疑いが掛かりかかった時だったという。

 川北が自分の将来を考えた時、ふと思いついたのかも知れないが、だからこそ、すぐに自供して、早くこんな事件を終わらせたかったということであろう。

 彼が元々研究をしていたのはロボット開発であり、当然のごとく、皆が行き詰まるであろう結界を目の前にして立往生をしていたのだった……。


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