第6話 天国と地獄
ペンションの管理人は、橋本夫妻という。年齢は旦那さんが四十五歳、奥さんが四十二歳。雰囲気としては、まだ三十代に見えるくらいに若い雰囲気だった。
このペンションで管理人を始めてから三年目だというが、どうしてどうして板についている感じだった。
このペンションに恭一が辿り着いたのは、ペンション巡りを始めてから、三軒目だったのは前述の通りだが、前の二軒も別に嫌だったわけではない。ペンションの管理人も優しかったし、小説家のタマゴのような言い方をすれば、喜んで迎えてくれた。数日間いたが、居心地は悪くなかった。
「もう少しいてもいいかな?」
と思える程度だったが、そう思っていた時にやってきた客が、芸術家の一人逗留だったので、一緒になることを嫌って、逗留をやめた。別に気を遣うとかいうわけではなく、一緒にいると、自分が作家のタマゴどころか、今までに小説など書いたことがないということを看破される気がして嫌だったのだ。
そんな風に考えてしまうと、そばを通っただけで、思わず身体を逸らしてしまいそうになる自分の卑屈さを思い知らされるような気がした。子供の頃、いじめられっ子だった記憶がよみがえってくるのも嫌だったのだ。
一つ嫌だと思うことが起こると、何もかもが嫌に感じられる。それまでうまくいっていたことであっても、すべてが悪い方に向いてくる気がしてくるのだった。
それがネガティブ思考とでもいえばいいのか、余計なことを考えていること自体が怖くなるのだ。そうなってしまうと、人と関わることの怖さを思い出してしまう。ほとんど強引な脅迫だったのだが、自分にも落ち度がなかったわけではないと思う。何が悪かったのかということを思い出そうとすると、以前、入院していた時に亡くなった記憶を思い出そうとした時に感じた頭痛に似ていた。
あの時の頭痛は、ズキズキするという感覚よりも、ムズムズが先にきて、イライラがこみあげてきて、そこから強烈な痛みが襲ってきたような感じだった。
ちょうどその頃、片頭痛のような症状もあり、それは、急に目の前のものにクモの巣が掛かったかのような、いわゆる
「飛蚊症」
のような状況になり、焦点を合わせたその場所を中心に、どんどん見えなくなってくることがあった時に起こるもので、目の前がどんどん暗くなっていくと同時に、飛蚊症も収まってきて、見えなかったものがまた見えるようになってきた。
しかし、それで終わりではなく、視界が正常に戻ってくると、その後に激しい頭痛が襲ってきた。
「まるで、頭の中が虫歯になったかのように、脈を打っているような感じなんだけど、ムズムズするものもあって、そのうちに、呼吸困難な状態に陥るんです」
と岡崎教授に相談すると、
「それは視力の急激な劣化によって引き起こされる、頭の中が何とか追いつこうとする本能のようなものが引き起こす現象ではないかと私は思うんだ。ハッキリとした研究結果が出ていないので、私の見解でしかないんだけどね」
と岡崎教授は説明してくれた。
それを一種の片頭痛のようなものだという先生の説明であったが、一番分かりやすい説明だったのだろう。
岡崎教授は、その時、
「君はこれから、いろいろ今までに感じたことのないことが襲ってくるかも知れないが、恐れることはない。すべては自分が自分の中で納得しようとするものなのだから、自分を必要以上に苦しめることはない。だから、きつい状態があったとしても、あまり悪い方に考える必要はないんだ。それに、君が感じるであろう辛さや痛みだって、他の人も感じるレベルのものなのだから、『自分だけがどうして……』なんて考えることは一切ないんだよ」
と言っていた。
それを恭一は、今思い出していた。確かに教授の言われたように、あれから今までに感じたことのない感覚を感じていた。それは、ひょっとすると覚えていないだけで初めてではなかったのかも知れないが、それもひょっとすると、教授には分かっていたことなのかも知れない。
恭一は、教授に対して申し訳ないという気持ちが大きかった。一番心配してくれていたのに、逃げ出すような形になった。後悔があるとすれば、教授に対しての申し訳のなさであろう。
それでは、教授以外の人はどうだろう?
会社の人に対して悪いという思いはもちろんあるが、それ以上に、綾羅木家の人には本当に申し訳ないと思っている。
だが、綾羅木家の人たちというのは、自分たちが交通事故などに遭わず、結婚していれば、義理の親であり、由紀子は妹だということになるのだろうが、唯子はすでに事故で死んでいるのだ。
本来なら、そこで関係がキレたとしても、それは仕方のないことであり、誰も文句を言える筋合いでもないだろう。それなのに、身元引受人になってくれたり、緊急連絡先として登録してもらえたりして、言葉にできないほどの恩義を受けている。
岡崎教授も、
「綾羅木家の人たちは本当にいい人たちばかりだよね。君のことを後見人のように見てくれているのは、きっと亡くなった娘さんの生まれ変わりのような意識でいるのかも知れないね。ただ、その思いが君に対してプレッシャーになってはいないかとも感じているんじゃないかな? だから、君がひょっとすると感じているかも知れない、綾羅木家の人たちのそこか、よそよそしさのようなものは、決して君に対してのものではなく、娘さんに対してのやるせない気持ちを、無意識に君にぶつけているんだって思うんだ。だから、君がその視線に対して何かを感じる必要はない。逆に受け止めてあげられるくらいの精神状態になってくれるのを、私は望んでいるんだ」
と言っていた。
綾羅木家に対して、どうしても後ろめたい気持ちを持ってしまったのも仕方がないのだろうが、
「君が後ろめたいと思えば思うほど、綾羅木家の人たちは、お姉さんの呪縛から解き放たれることはないんだ。だから、今は無理かも知れないが、後ろめたいという気持ちをいずれは断ち切れるといいんだろうね。そして早く綾羅木家の中に残っている娘さんの魂が成仏できることを私は願っているんだ」
と岡崎教授は言った。
医者であるのに、どこか坊さんのような言い方をする岡崎教授、実は家がお寺ということもあり、頭の中には仏の教えのようなものがあるのかも知れないと、恭一は感じるのだった。
そういえば、岡崎教授と、あの世の話などをしたことがあったっけ、本当であれば、病院内であの世の話などは、ある意味禁句なのかも知れないが、二人だけの話であれば問題ないということで、岡崎教授の研究室に招かれたことがあった。
「ここは君だけでなく、他の患者さんもよく遊びにくるところでもあるので、別に気を遣う必要はない」
と言われ、複雑な心境になった。
というのも、岡崎教授が自分を招いてくれたのは、他の人とは違った特別な意味があると勝手に思いこんだからだ。
人に招かれた時、人はまず最初に自分が特別な存在ではないかと思うものだろうと考えていた。
しかし、すぐにその気持ちを打ち消す自分がいる。その素早さは考えたことがまるで悪いことのように思うので、思い出したということを最初からなかったことにしたいという思いから来ているのではないだろうか。
それは、
「おこがましい」
ということが罪悪のように思うからで、そんなことを考えたということすら、抹殺してしまいたいと思うのであろう。
だが、そのおかげなのか、いつも同じように考えていると、最初からなかったことにできてしまうから恐ろしい。それだけに自分だけが特別だという意識を持ったその時、嬉しい反面、おこがましさから思わず否定してしまう自分もいる。
たまに、自分のことを好きになってくれた相手に対して、その気持ちを素直に受け入れることができず、素直になれずに、相手の申し出を断ってしまうということも起こってしまう。
素直に受け入れさえすれば、幸福になれるにも関わらず、幸福をみすみす逃してしまうそんな人を、皆、
「バカな奴だ」
というに違いないが、一歩間違えれば、そう言った人の、
「明日は我が身」
である。
「あの世というところは、天国と地獄に分かれているらしいんだけど、本当なんだろうか?」
と、教授は言い出した。
「坊さんがそんなこと言っていいんですか? そもそも天国と地獄という発想は、仏教からきているんじゃないですか?」
と恭一がいうと、
「確かにそうなんだけどね、坊さんであっても、その話に信憑性が感じられない人だっていると思うんだよ。坊さんだから、仏教徒。仏教徒だから、仏教の教えを信じなければいけないという理論は違うような気がするんだ」
「というと?」
「誰にだって間違えもあれば、勘違いもある。それらすべてを否定してしまってもいいのだろうかって思うんだよね。勘違いしていることの中にだって真実があるかも知れない。そう思うと、考えさせられることもあるというものだ」
と、かなりの問題発言にも聞こえたが、そこが医者としての意識が入り込んでいるからなのかも知れないと感じた。
「天国と地獄って、皆共通のものではないような気がするんですよ。広い世界ではなく、一人一人の心の中に、天国と地獄がそれぞれあるような感覚ですね」
と恭一がいうと、
「そ、そうそう、私が言いたいのもまさにそのことなんだよ。そういう意味でいくと、今自分たちが生きているこの世界だって、ひょっとすると、その人個人個人が持っているものなのかも知れない。言い方は唐突だけど、自分が存在している世界において、本当に存在しているのは、自分だけであって、他の人は皆虚像なのではないかと思ったことが、子供の頃にあった気がするんだよ」
と教授は言った。
「それは面白い発想ですね。じゃあ、先生の世界の中には僕は幻で存在しているんですね?」
「そう言えるかも知れない。こういう発想がどうしてできるかというと、この発想、誰もが感じているある世界に似てはいないかい?」
と言われて、恭一は考え込んでしまった。
そして少しすると、あることが頭をよぎった。
「なるほど、そういうことですね。確かに夢の世界を解釈しようとする時に今の理屈を考えれば、納得できないわけでもない」
と恭一はいった。
「確かに夢の世界に、自分以外の人が出てきている感覚ってあまりないですよね。目が覚めるにしたがって忘れていく感覚がどこからくるのか考えてみたけど、なるほど、これが、人それぞれ別々に持っている世界だと思うと、都合のいい考えができるのも、分かるというものなんでしょうね」
という教授に対して、自分が今教授に頭の構造が近づいているような感じがして、不思議な気がしていた。
「天国と地獄の二つだけだとすると、世の中の人を皆どちらかに分けなければいけないという理屈になってきますよね。誰がどのように分かるというんでしょうね。お釈迦様なのかな それとも、閻魔大王なのかな?」
という質問に対して、教授は面白いことを言った。
「この発想は確かに今あなたが思い浮かんだこととちょっと違う発想を抱かせてくれます。それについて面白いと言ったわけですが、天国と地獄という発想は、ある意味仏教では矛盾した考えでもあるんですよ」
と教授は言い出した。
「矛盾した考えというと?」
と恭一が訊きなおすと、
「人間死ぬと、生まれ変わるというのが基本的な考えなんです。生まれ変われるのだから、天国と地獄が現実とかけ離れたところにあったのでは、辻褄が合わなくなるわけです。そうなると、天国と地獄という世界は、現実の世界にあることになるわけです。つまりは、現実の世界の中にその人にとっての、天国なのか、地獄なのかがあるということになると、先ほど君が言ったように、人それぞれの天国と地獄が存在していることになる」
「じゃあ、人間は生きている間に、その二つを経験することになるというわけですか? どちらかしか知らない人もうるんでしょうけども」
と恭一がいうと、
「その通りだと言えるでしょうね、また、天国と地獄という発想を次の世に受け継ぐとするならば、死ぬ時に前の世界の因縁が生まれ変わりに影響するという発想もあるでしょうね。現世でいいことをすると、来世でいい環境で生まれてくるが、厳正で悪いことをすると、その因縁が報いて、ろくでもない親から生まれてくることになるのかも知れないという発想ですね」
その後、恭一の中で大きくなってきた発想としての、
「人間は生れながらにして不平等だ」
という考え方に結び付いてくるのではないだろうか。
「人間は生れてくる時、親を選べないし、死ぬ時も自分で死を選べないという話を思い出しました。僕は、後者を自分で破ってしまいかしたけど、前世から来世に繋がっているということを考えると分からなくもない発想なんですが、そもそも、自分が生まれてきてから、今に至るまで、まったく生まれ変わったという意識はこれっぽちもないじゃないですか。それで、今の自分の行動が来世の自分に繋がっていると言われても、生まれ変わったら自分ではないわけなので、説得力なんてないわけですよね。要するに、どうして自分ではない来世で生まれ変わる人のために、今を生きなければいけないのかって気持ちにさせられる気になるでしょう?」
と教授は言った。
「ええ、まあ、そうですよね」
と曖昧に答えたが、恭一は必死で教授が何を言いたいのか自分の中で咀嚼して考えていた。
「人間は年を取ると、何もできなくなる代わりに、昔のことをよく思い出すというではないですか。それは先が見えているからだということもあるんでしょうが、結局最後には、すべてのことを思い出すのだと言います。感謝された時にはいい思い出として、恨まれたり反省したことは、辛い思い出として思う出すのだといいます。これこそ一種の天国と地獄と言えないでしょうか?」
と教授は話した。
恭一もその意見に概ね賛成ではあるが、全面的に賛成というわけではない、なぜなら、話の理屈がいまいち分かっていないからだった。
どこをどのように理解できていないのか、ハッキリとは分からないが、イメージとしてではあるが、
「この話を理解しようと思うと、一度自分の一生をすべて経験してしまわないと理解できない気がする」
というのだ。
しかし、一生をすべて経験するということは、次の瞬間には死んでいるということなので、このことを考える時間はないということになる。
それを教授に聞いてみると、
「それくらいの時間は、死ぬ時に用意してくれているんじゃないかな? つまりは死んでから生まれ変わるまでの間にどこかの場所があって、それまでそこにとどまれるとすれば、分からなくもない」
「要するに、今まで見てきた天国と地獄を自分で理解するための時間と場所という意味ですか?」
と恭一が聞くと、
「そういうことになるんだろうね。実は、死後の世界で、天国か地獄に行く前に立ち寄る世界があるという発想は結構いろいろ考えられているようなんだ。そこで、天国に行くか、地獄に行くかが決まるまで待機しているという発想もあれば、天国か地獄に行くのは自分一人でいくわけではなく、誰かを伴っていくことになるので、その人を待っているという発想だね。お互いに広いその世界の中で、二人は出会うことになるんだよ。もっとも、この発想は極々少数派の考えでしかないんだけどね」
と教授が言った。
「人は一人では生きられないとよく言われていたけど、死後の世界にもそういう発想があるんですね」
「この世では、その相手を自分で決めようとするけど、あの世では、相手が最初から決まっていて、それも。現世での行いが左右するという意識があるらしい。私にはこの話に対して、現世での行いが左右すると言った時点で、どうも胡散臭さを感じてしまったんだけど、これは私の考えすぎなのかも知れないとも思っているんだ」
という教授の意見であったが、恭一は、またしても、考えが袋小路に入っていくような気がしてきた。
「どうも頭がなかなか整理されていないせいか、よくわからなくなってきました」
というと、
「そうでしょうね。でも、今の私とこういう話ができるのは、今の状態のあなただからなんですよ。私はここまでの考えを他の人に話したことはありません、あなただからついてこれた話なんです。そのことだけは心に刻んでおいてほしいという気分になっていますよ」
と教授は言った。
その話を思い出しながら、恭一は今一人でいる自分の境遇について考えないわけにはいかなかった。
だが、一人がこれほど気が楽だということを、初めて知った気がする。人に気を遣うこともなければ、気を遣わないと気にする人の相手をすることもない。今までどんな人を相手にするのが嫌だったのかと訊かれたとすれば、
「気を遣わないと気にする人を相手にすることだ」
と答えるだろう。
気を遣うなどというのは、自分からするものではない、つまり相手にそれを求めてはいけないと思っている。あくまでもさりげなく、ただ無意識であれば、相手に気を遣っていると思わせても構わない。相手が気にする人であれば、却って下手に隠そうとすれば、あざとくなってしまい、変な印象を与えてしまって、誤解を受けることになるのではないだろうか。
何事も人間はさりげなく生きるのが一番なのではないだろうか。確かに人は一人では生きられないのかも知れないが、それでいて、人に頼ることを、
「甘えている」
という言い方をされるのも事実であり、これこそ誤解の元だと言えるのではないだろうか。
甘えてばかりいると、
「人は最後は、自分自身だけになる」
ち言われることになる。
「一体、どっちなんだ?」
と言いたくもなるというものだ。
同じ人が同じ相手に、ちょっとしたことで手のひらを返したように、正反対のことをいうのだから、言われた方は、何を信じていいのか分からない。要するに、人にアドバイスをするというのも、
「その人の勘がでしかない」
のである。
まともに信じてしまうと、バカを見るというのは、
「正直者はバカを見る」
という言葉に置き換えることもできるだろう。
例えば、おとぎ話や童話などで、教訓となるような話であっても、その捉え方で、いかようにも考えられるだろう。
「最初に来た人を食べようとした輩が、『後から来る方が大きくておいしい』と言って、その言葉を信じて、次に回す。そして次に来た最初よりもちょっと大きなやつが食べられそうになると、『次にまだ大きいやつが来る』と言って、三匹目の大きな奴が、その輩をやっつけてしまう」
という話があるようだが、ある人は、
「団結が大切で協力し合えれば、助かる」
というのが教訓だと思っていたが、別の人は、
「いいや、そうじゃない。この話は、正直者がバカを見るという話だ」
と、まったく正反対のことを言っていたという。
考えてみれば、それぞれ、反対の立場から見た話なので、まったく正反対の教訓があっても不思議ではない。ここで重要なのは、
「見る方向によって、まったく別の見方が出てくるのは必然なのだ」
ということも教訓ではないかということである。
つまり笑い話のようなこの話にこそ教訓があるという考えである。
人はそれぞれの立場あるから、それぞれ自分に違い立場から見るのも当然である。
この話のように、
「食べようとする側と、食べられたくないという側」
にそれぞれ言い分があり、正当性があるのだ。
食べようとする方は、相手を騙してでも食べなければ自分が生きていけないという正当性、食べられそうになっている方とすれば、どんなことをしてでも食べられたくはないというものである、
普通であれば、食べられたくない方が必死なので、結構あくどい卑怯な方法を取ってでも免れられれば、それが正義として賞賛を受けることもあるだろう。それが、版画びいきの日本人にはウケるというものではないだろうか。
人間、一人になると、本性が出てくるものであり、下手に人と一緒にいると、気を遣うことから、どうしても、悪いことはしてはいけないという消極的に考えてしまう。それがいざという時に自分にどのように影響してくるか分からないのだ。
「食われてしまってからでは遅い。後悔は先に立たないのだ」
その教訓は、孤独を知っている人間だから言えるのではないかと恭一は感じていた。
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