第9話 横山警部補と北川副主任

 そもそもダイイングメッセージなどというものは、

「小説の中などでしかありえない」

 と思っているのは、横山警部補だけではなく、北川副主任も思っていた。

 今回北川副主任が書かれている文字を見逃したのも、ひょっとするとこの思いがあったからなのかも知れないが、以前死体を発見したはずの意識があるのに、その死体が忽然と消えてしまい、それを自分が夢でも見ていたとして、強引に自分の中だけで解決してしまったことで感じたことだった。

 普通であれば、あんなにハッキリとした文字を見逃すはずがない。そう思うと、犯人も同じような思いがあるのかも知れないと、一瞬感じたが、

――同じような思いをそんなに身近な人が感じるというのも、偶然が過ぎる気がするな――

 と思い、すぐに気持ちを打ち消したのだ。

「それにしても、あの文字をまともに読めば、『さだお』と読めますね? この事件の関係者で、『さだお』に関連する人は、今のところ二人です。一人は松川社長のご子息の松川貞夫さん、そして、もう一人は異母弟である定岡哲郎さんということになりましょうか? 二人は同じようにこちらに現在一緒に研修に来ている間柄であり、社長がこの間から本来であれば、二人の研修に立ち会うことになっていたという矢先、誘拐されてしまった。しかも、同じ日の朝に、二人も失踪して行方が分からない。そんな状態ですよね。関連があるかどうか分からないが、その日に偶然というにはあまりにもと思うような放火事件に、黒焦げの死体まで発見されている。見るからに実に複雑な事件であるような感じですよね」

 と横山警部補は、事件のおさらいをしながら、北川副主任に話をした。

 さらに続ける。

「そして今回の死体は、木下課長。彼は放火の最初の発見者であり、ある意味、このK支店では、支店長に次ぐナンバーツーでもある。そんな人が他殺死体で発見されたということは、今度の事件がまた動き始めたと考えていいのかも知れませんね」

 と言った。

 それを聞いて北川副主任が今度は訊ねた。

「ところで捜査の方はどうなっているんでしょうか? 例えば、松川社長の誘拐事件などで、その後の進展は何かあったんですか?」

 と訊かれて、

「一応、本社の社長室、ご自宅、そして、ここの事務所と、それぞれに逆探知の装置を取り付けておいたり、捜査員が張り付いていたりしますが、今のところ犯人から何も要求はありませんね」

 と横山警部補は言った。

「そもそも犯人は金銭的な要求はしないという話ではなかったんでしょうか? そうなると犯人の目的がどこにあるのか、どうお考えですか?」

 と訊かれて、

「これはあくまでも私の個人的な考えなんですが、犯人にとって、何かの時間稼ぎではないかと思っているんです。だとすれば、事件がここで終わるわけはないと思っていたわけなんですが、そう思いながら発生したのが、今回のこの事件だったわけですよ」

 と横山警部補は言った。

「じゃあ、横山さんは誘拐事件と今回の殺人には、何か繋がりがあるとお考えですか?」

 と訊かれて、

「ええ、そうではないかと、私は思っています」

 と横山警部補は答えた。

「でも、何を時間稼ぎしているというんでしょう?」

 と聞くと、

「これも私の考えなんですが、社長が今回の事件において彼が普通に行動することが何か犯人にとって困ることがあるので拘束する必要があり、その犯行の本来の目的がどこにあるのか何とも言えませんがそれが終わるまでは大人しくしてもらっていてほしいという考えですね。ただ私には、今回の事件がそうだとは思えないような気がするんですけどね」

 と横山警部補はいう。

「どういうことですか?」

「今回の事件には、どこか計画性が感じられないんですよ。言い方に問題があるかも知れませんが、間抜けなところがある。どういうことかというと、もしこれが計画された殺人であるならば、なぜ、この場所だったのか、そして何よりも、ダイイングメッセージと思しきものを、普通に現場に残していくというのは、おかしいじゃありませんか? そもそもダイイングメッセージというのは、犯人にとっては残されて一番困るものですよね。しかも被害者が苦労して残そうとしても、犯人に見つかれば、消されてしまう可能性が大きいことで、ダイイングメッセージは小説の中だけのことで、実際の犯罪ではありえない気がする。それを思うと、どうして被害者があんなに簡単に残せたのかということですよ。中途半端にはなっているけど、読めない字でもないですよね。だから私が思ったのは、被害者がまだ虫の息だった時、すでに犯人は逃走していたと思うんです。犯人は、早く現場から立ち去りたかった。誰だって、死体の、しかも自分が殺した相手のそばにいつまでも痛くはないですよね。それでも普通なら絶命するところまでは見るはずだと思うんです。被害者は、犯人が逃走したと思ったから、あれを書いた。そうなると犯人は犯罪者としては実に素人で小心者ということになる。犯罪も陳腐なので、とても計画的だったとは思えない。そうなると、犯人が社長を誘拐してまでやりたかったことではないような気がするんです」

 と横山警部補は力説した。

「じゃあ、横山警部補としては、これが本来の犯人の計画ではなかったということでしょうか?」

 と聞くと、

「少なくとも、犯人の最終目的ではないということだけは言えると思うんですよ。ただ、今回の事件の犯行が真犯人の手によるものなのか、別に犯人がいるものなのかは、絶対的なことは言えませんが。他に犯人がいるとしても、ひょっとすると、犯人には、これくらいのことは想定の範囲内だったのかも知れないとも思うんです。あくまでも私の勘なんですけどね」

 と、そう理を入れた横山警部補だったが、ここまで理論的な話を訊かされると、北川副主任も黙って聞いているだけでは気が済まなくなっていた。

「何となく複雑な事件にはなっているので、意図が絡み合ってしまったかのように見えてくるんですが、横山警部補には、糸を緩めるだけの何かがあるとお考えですか? 今のところだけで結構なんですが」

 と北川副主任が聞くと、

「何とも言えませんがね。松川社長の誘拐というのは、本当に殺人を犯した人がやったことなのだろうか? という気持ちもあるんですよ。先ほどは時間稼ぎのようにも思ったんですが、その前に考えていたのは、社長が誘拐されたのは、あくまでも、フェイクなのではないかとさえ思っていたくらいです。どちらにしても、社長が殺されるようなことはないと私は思っているんですよ」

 と横山警部補は言った。

「それならいいんですがね。ちなみにそれは捜査本部全体の意見ですか?」

「いいえ、私だけの意見です」

 という北川副主任のこの質問に対して、横山警部補は、ニッコリと笑って答えたのだった。

 正直、これだけの内容を一般人に話すということは普通はないだろう。

「少なくとも、横山警部補は、北川課長に何か疑念を抱いている」

 ということは確かではないだろうか。

 そうでなければ、いくら自分だけの視点だとは言いながら、ここまでの考えを漏らすわけはない。今のいろいろな話の中のどこかに確信めいたものがあるのではないかと横山警部補は思っているのだろう。

 実際には北川副主任も、横山警部補がどこまで自分に疑問を持っているのか分かっていなかったので、下手にうろたえて誤解を招くよりも、普段通りに接している方が、変にボロが出なくてもいいくらいに思っていた。二人にとっては、

「キツネとタヌキの化かしあい」

 とでもいうのだろうか。

 もし、

「どちらがキツネて、どちらがタヌキか?」

 と訊ねられたら、

「キツネは北川副主任で、タヌキは横山警部補の方ではないか」

 という人が多いような気がする。

 それはただ単に見た目であり、細見で少し目元が鋭い北川副主任と、まるで豚まんのような表情の横山警部補では、どちらが近寄りがたいかと言われると、たぶん、皆北川副主任だと答えるだろう。

 しかし、実際にはタヌキ顔の横山警部補は百戦錬磨の警部補であり

「目下、一番警部に近い男」

 と呼ばれているのが、横山警部補だった。

 実際にはキャリア組ではなく、実践現場を数多く経験してきて、事件解決という大きな手柄を積み重ねてきたことで掴んだ今の地位である。自他ともに認めるすいり推理力には、本庁の刑事たちからも、お手本と言われるほどであった。

 横山警部補の、

「武器」

 というのは、

「直観力」

 であった。

 普通の捜査では、直感に頼っての仕事は、違った時のリスクが大きいことから、あまりよろしくない考えだと言われている。地道な捜査が主流だった昔は、すり減った靴が勲章とまで言われた時代があったが、今のように科学捜査やプロファイリングによる犯人像の割り出しなどから、昭和の刑事は、

「ナンセンス」

 と言われていた。

 直感に頼る刑事も、一種の昭和のナンセンスだと言えるかも知れない。しかし、横山警部補にはそんなことはなく、直感というのも、

「今まで培ってきた刑事としての目を自分で信じることができるから、直感に頼ることができる」

 と横山警部補の言う通り、自分に自信を持つことがどれほど大切なことなのかを、身をもって証明してくれているのだった。

「先輩刑事が新米刑事に向かって、直感で簡単に動くものではないと言っているのは、何も直感を否定しているわけじゃないんだ。地道な捜査に裏付けられ、培ってきた経験があってこその直感なんだ。直感を持って生まれたものだと思っている人がいると思う。それはそれで間違いではないが、それを引き出すには、自分に自信を持つ必要がある、自分に自信が持てなければ、いつまで経っても袋恋路から抜け出すことなんてできやしないんだ」

 という横山警部補がいつもいるような気がしていた。

 そんな横山警部補の今の直感が、北川副主任を突いてみることにあった。

 実は横山警部補の中で、

「もし次に殺人事件が起こるとすれば、北川副主任か、木下課長だだろう」

 という思いがあった。

 どちらもK支店の中で支店長の次の実務者であり、どちらが上という雰囲気ではなく、一種の両輪として君臨している二人だったからだ。この二人がいるからうまく回っていたのであって、どちらかが崩れると、何かぎこちなくなるだろうと思っていたが、何とか崩れることもなくできている。そう思うと、北川副主任が犯人だとは思っていないが、突けば何か行動を起こすのではないかと思うのだった。

 ただ、まさか死体の第一発見者になるとは思っていなかったので意外だったが、ある意味、第一発見者になったことで、北川副主任が殺人事件に関してはシロであることを証明しているように思えてならなかったのだ。

 横山警部補が考えていることで今一番自信があるのが、

「松川社長の誘拐事件」

 であった。

 横山警部補が、この事件の中核になるところで北川副主任が、立て続けに起こっている事件に対して、

「順番」

 という言葉を使ったことだ。

 確かに、いろいろな小さな事件が重複して起こっている。そのつながりがあるのかないのか、たぶんあるのだろうが、それらを見ていると、横山警部補の中では、順番という言葉を口にするのは控えていた。

 それは、捜査の中で順番を考えてしまうと、重複している事件があるだけに混乱を招いてしまう。確かに捜査に関しては素人の北川副主任が口にするのには差支えはないのかも知れないが、それは、事件を一つ一つ単独で考える場合と、連結している部分を考えるうえで、考えるタイミングを間違うと、ミスリードされてしまうのが、順番の発想だった。

 つまり最初から順番を考えてしまうと、組み立てるものが分からない。まずは、すべてのパーツが揃っていることを確認しておかないと、途中から組み合わさらないものを必死で組み立ててしまおうとして前が見えなくなってしまうだろう。北川副主任ほどの人物がそのくらいのことを分からないはずもないと思い、それを最初に口にしたのもこちらをミスリードするためだと思えてきたのだ。

 そうなると、松川社長の誘拐事件、何を置いても、一番優先されなければいけないのは、誘拐された社長が無事に戻ってくることではないだろうか。誰もが気にしながら業務をしているので、皆おかしな雰囲気での仕事場となっている。木下課長や北川副主任の二人が支店内を仕切らなければいけないだろう。支店長は、警察との対応、本社との対応、マスコミの対応と、相当な神経を消耗していたことだろう。それを思うと、支店内をまとめることに二人は集中し、手が空いた方が、支店長を補佐するくらいの余裕がなければいけないに違いない。

 ただ、木下課長は、まわりをいさめながらも、社長の心配をしていることが垣間見られた。しかし、北川副主任に関しては、社長のことを実際に気にしているようには見えなかった。

「現場を回すことが一番」

 と言いながらも、実際には余裕もあるように見られた。

 そのため、支店長の補佐にも回っていたのだが、この三人の中で一番落ち着いていたのは、明らかに北川副主任だった。

 それを見て。横山警部補は、

「北川副主任が誘拐事件に絡んでいるのは間違いない」

 と思った。

 だが、そうなると、今回の木下課長殺害が分からない。もし何か都合の悪いところを見られて脅迫でもされていて、殺すことになったとしても、この殺人における、お粗末さは、いくら何でも、北川副主任が起こした殺人ではないと思える。

 少なくとも誘拐が狂言で、北川副主任が一枚噛んでいるとするならば、木下課長殺害は衝動的でもなければありえない。

 ただ、北川副主任に衝動的な殺人ができるだろうか。いきなり襲われての正当防衛のようなものであれば、分からなくもないが、正当防衛であれば、そういえばいいだけで、このまま死体を放っておいたのもおかしい。

 木下課長の殺害現場を調べた鑑識の話によると、指紋が拭き取られた形跡もあければ、見ている限り、偽装工作などまったく施されておらず、殺人とすれば、

「これほどお粗末なものはない:

 ということであった。

 しかし、それだけに、指紋も無数についているだけに、指紋から犯人を特定することは難しいし、お粗末であればあるほど、実に自然体による殺人ということになり、捜査とすれば、困難を極めることは分かっていた。

「まさかとは思うが、これはこれまでとは関連していない犯罪?」

 とも言えるのではないかと思った。

「連続殺人というほどの殺人が行われていないことから、自分たちが求めている真相の中で、本当お殺人事件など存在していないのかも知れない」

 とさえ感じたほどだ。

 しかし、刺殺されているのは間違いない。横山警部補は、これらをどう考えればいいというのだろうか?

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