第8話 第二の殺人

 行方不明となっている異母兄弟の二人の捜索、さらに誘拐された松川社長の状況、放火の跡で見つかった黒焦げ死体の正体。まったく分からなかった。

 特に社長を誘拐した誘拐犯からは、結城亜翌日に連絡があったきりで、それ以降はまったく音沙汰がなく、三日が経っていた。

 誘拐したのだから、何かの要求があってしかるべきで、犯人が言っていたように、金目的ではないのかも知れない。金目的であれば、早めに勝負を決めようとするのが犯人側であろう。何しろ誘拐した時点で、向こうは綿密な計画を立てていて。こちらはまったくの青天の霹靂の状態なので、立場は明らかに警察側の不利だ。

 しかし、時間が経てば捜査が及ぶことで誘拐犯の方は、相手と立場が近くなることで

いかにも不利な状況が相手に近づけるようになるはずだ。そうなる前に片を付けなければせっかくの優位性が意味をなくしてしまう。それだけに誘拐というのは、一気にけりを付けなければいけない犯罪の一つなのではないだろうか。

 ただ、身代金目的であれば、一番逮捕の危険があるのが、金の受け渡しの瞬間だ。普通の誘拐であれば、

「警察には知らせるな」

 という方法での驚愕になるのだろうが、今度の誘拐は、最初から警察を相手に話をしていて。まるで警察に挑戦しているかのようではないか、大胆不敵というか、身の程知らずというか、よほどの素人か、よほどの知能犯かのどちらかだと言えるのではないだろうか?

 さらに、この誘拐が、放火とその後の黒焦げ死体の発見とどう繋がってくるのか、そもそもあの死体は、犯人殺されて、その後に火にかけられたものなのか、それとも生きたまま縛られていて、火やぶりの刑に処せられたのかも分からない。まさか、どこかから死体を盗んできて、放火したなどという昔の探偵小説のような話があるわけもない。何しろ、今は昔のように土葬が残っているところはほとんどないのだからである。

 しかも、そんなことをして何になるというのか、犯人が精神疾患のある人間だったり、異常神経の持ち主であったりするという偽装目的でもなければ成立しない。そんなことを思わせて何になるというのか、それよりも、

「顔のない死体のトリック」

 を考えた方が、よほどマシなのではないかと感じた。

 そう考えてみると、一つ気になるのは、社長の息子である、研修に来ている異母兄弟の失踪である。

 まさか、

「黒焦げの死体をあの二人だ」

 ということもないだろう、

 少なくともあの二人は九時頃まで会食をしていて、十時には宿に帰りついたことでのカードキーを差し込みで防犯カメラでも確認ができたではないか。確かに身体の大きな方は兄の松川に見えないでもないが、プレハブ倉庫が火事になった頃には、まだ会食中だったことは、レストランの複数の人間が見ていたのだ。

「木下課長と、松川社長、それに若いにいちゃんが二人で仲良く会食をしていたよ」

 という証言があった。

 だが、木下課長と松川社長の顔は知っていても、異母兄弟の顔を知っている人は誰もいない。しかし、別人だとすれば、社長も木下課長も気づかないわけはない。

 ここでは、皆個室での食事になり、一種の接待に使われることが多い。密室の談合などを行うには、ちょうどいいのかも知れない。

「何時までいましたか?」

「ええっとですね。九時くらいまではいましたかね」

「皆一緒にですか?」

「そういえば、木下さんは、途中で一度外出しはったような気がするんですが、私の気のせいでしょうか?」

 とフロア担当がいうと、

「どうしてそう思われたんですか?」

「最近では、食事中に庭に降りたり、庭から、通路を抜けて表に出られる人もいるんですよ。商談のために、ケイタイ電話を手に持ってですね。他の人に訊かれたくないお話もあるでしょうからね。だから表に出はったとしても、詮索しないようにしているので、そういう人が頻繁にいると、誰が表に出たかなど、ほとんど意識がなくなってしまいます。その中に木下さんがおられたとしても分かりませんからね」

 と言った。

「木下さんだけなら、すぐに分かるかも知れないけど、木下さん以外の誰かと一緒に出たというようなことは?」

「あるかも知れませんね」

 ということだった。

 その日の夜になって、第二の殺人が発見された。死体発見現場になったのは、原罪の厚川コーポレーションK支店の倉庫兼修理工場だった。近代的な建築にはなっているが、やはり倉庫であることに違いはなく、だだっ広い倉庫内に、所せましと、資材や修理に必要な機会が置かれていた。

 専門家にしか分からない機会も多いので、説明にもおぼつかない。そんな感じの倉庫だった。

 倉庫は事務所とくっついている部分があり、その事務所側の入り口に面した形の前の部分が大きな敷地であり、シャッター部分に車をつける場所もあり、トラックなどでの部品入荷が行われる場所であった。

 シャッター部分の奥は倉庫内の詰め所になっていて、事務所や更衣室、小さな給湯室、からなっていて、現場の事務所となっていた。

 詰所の奥には畳の部屋があり、?忙期には数人で泊まれるようになっていた。

 最近では、あまりざ行はさせられないという会社の方針にしたがって、残業を減らすと、それに合わせたかのように、仕事も減ってきて。そのあたりが少し気になっているところであった。

 しかし、それはこの会社だけではなく、しかも今始まったものでもない。世の中不況になってきて、しかも、

「高いものを修理して使うよりも、安いものを使い捨てた方が、経皮的にはいい」

 という、どこかの研究所の論文がベストセラーなどになったものだから、修理業界はたまったものではなかった。

 そんな状態なので、宿直室が使われることは年間を通してたまにしかなく、まったく使われない年も増えてきた。今では祝職質というよりも、昼休みの休憩時間に使う人もいるという程度で、ほぼ、当初の目的が何だったのか、知っている人も少なくなってきたくらいだ。

 工場の朝は結構早い。一番の出社が午前六時くらいにやってくるのだが、始業自体は九時からで、社員が出社してくるのは八時頃が平均ではないだろうか。

 最初に出社してくる社員は決まっていた。修理工場副主任の北川さんだった。

 北側副主任は、年齢としては三十五歳くらいであろうか、高校を卒業してK支店に就職、転勤はしたくないということで、現場の叩き上げであった。

 もうそろそろ入社してから二十年が経とうとしていたが、本人の意識としては、

「二十五歳くらいまではあっという間に過ぎたが、そこから先は、毎年毎年があっと言う名に過ぎるような気がする」

 と言っていた。

 K支店の中では木下課長と仲が良く、途中入社の木下課長が、この会社で皆に慣れるために考えたのが、昔kらの叩き上げとして君臨している北川さんの存在だった。

――昔からずっと同じところにいるのだから、それなりのプライドを持ったひとだろうから、少し変わっているかも知れないな――

 という覚悟は持っていた。

 しかし、思っていたよりも堅物ではなく、逆に人に気を使えだけの余裕を持っていて、一緒にいて、飽きることのない人だった。

 北川副主任の方としても、途中入社の人に頼られるのは嬉しかった。ずっと同じ人しかまわりにいないということに疑問を感じていた北川氏は、年齢的には上だが、慕ってくれる木下課長に嬉しさを感じていた。

 お互いに似たところや共通点も結構あり、話をしていて飽きることはない。まったく違った畑を歩んできた二人だったが、話をしているうちに、二人とも、

「ずっと前から知り合いだったような気がする」

 と感じていたのだ。

 朝最初に会社のカギを開けるのが、北川副主任、そして、最後に会社の戸締りをして、警備を掛けて帰るのが木下課長と、役目はいつも決まっていたような感じだった。

 そういう意味で、北川氏はまだ副主任ではあったが、実質上の現場の責任者のようなイメージだった。

 主任は、本部の人事が適当な配属で、主任クラスは三年もしないうちに、どんどんいろいろな支店を巡回していくような感じであった。中には北川氏よりも若い主任もいるが、そんなことは気にしない。転勤をしたくないと言っても雇ってくれている会社に半分感謝しながら、自分の仕事に邁進する、それが副主任としての北川氏の気概であり、モットーでもあった。

 その日も、出社時間に変わりはなかった。入社してから最初に出社することに快感を覚えてから、その状態は変わっていない。だから、まわりの人も普通であれば、

「副主任さんがいつも一人で早く出社させて申し訳ない」

 という気を遣うこともあるのだろうが、この支店ではそのようなことはない。

「あの人、自分が好きで一番に出社しているんだから、俺たちが気を病むことはないんだよな」

 と良くも悪くも、まわりに余計な気を遣わせないタイプであった。

 そのため、職人肌のところもあり、絶えず孤独だった、北川氏についてくる社員はおらず、いたついてこれないと言った方が性格か、下手についていこうものなら、まわりから変わり者というレッテルを貼られそうで怖いのだ。

「昔は私のような食品肌の人もいっぱいいたのにな」

 と北川氏は自分の立ち位置は分かっているようだ。

 しかし、いまさら変えられないし、変えようとも思わない。もし変えたとすれば、

「何、あの人、結局信念なんかないんじゃない。まわりにいまさら媚びて、どうしようっていうのよ」

 と言われるのがオチである。

 北川氏の性格からいけば、そんなことを気にするような「タマ」ではない。そんなことはまわりが勝手に思うことだ。

 かといって、北川氏が偏屈だというわけではない。彼くらいの年齢になれば、性格がそれほど変わっていなくても、偏屈に見える人もいるだろう。性格が変わっていないからこそ、少々普段と違うことをすれば、それが目立つのだ。ギャップとして見えている分にはいいか、変わり者と言われるようになると、孤独だけではすまず、孤立してしまうことになるだろう。

 そういう意味で、北川副主任は、

「孤独かも知れないが、孤立はしないない」

 と言えるだろう、

 孤独は、それなりに楽しめるものではあるが、孤立になると、そうもいかない。変に委縮してしまったり、まわりの枠から、自分の枠を弾き出そうとするに違いない。それは完全に無理のある鼓動なのだ。

 北川副主任も、この間、旧倉庫が火事になり、中から黒焦げ死体が出てきたことで、事情聴取を受けた。聴取したのは、横山警部補直々であり、その時の北川副主任に対しての横山警部補の印象は、

――実に冷静沈着な人だ。まるでロボットのようだな――

 と感じた。

 事情聴取に対しても、何も考えることもなく、その時の状況を包み隠さずに話しただけだった。

 こういう時に、下手に何かを考えたり、迷ったりすると、変に警察の疑いの中に入ってしまうことくらい分かっている。何しろ相手は商売で、犯人を見つけ、新装を明らかにするのが仕事だからである、

 だが、最後に横山警部補が、

「何か気になることがあれば遠慮なくおっしゃってください」

 と言葉を掛けた時、明らかに表情が変わった。

 何かを言おうか迷ったようだが、すぐに思い直したのだ。

「何か気になることでも?」

 と横山警部補が聞くと、

「黒焦げになった死体があったとお聞きしましたが、話によると、二体だったとお伺いしたんですが、それは本当ですか?」

 という意外な質問が返ってきた。

「あ、ええ、そうです、二体です。男性女性の区別がつかないほどの黒焦げだったんですが、一人は身体が大きく、もう一人は普通よりも少し小さいくらいでしたかね。それくらいしか分からなかったですね」

 という話だった。

「ありがとうございます」

 と北川副主任がいうと、今度は横山警部補が質問した。

「ところで、あの建物ですがね。あれは昔の本部だったとお聞きしましたが、あの建物が完全防火だったことをご存じですか?」

 と訊かれて、

「というと?」

 と答えると、

「あの建物は中から火をかけたみたいなんですが、中なら日が出ると、表に燃え移らないように、なっているんです。だから、逆にいうと、密室にしてあそこに火をかければ、確実に燃えるということですね。まるで火葬場のような感じだと言えるでしょうか」

 と横や課警部補は言った。

「ええ、それくらいのことは知っています。火事が起こっても、そこだけで収めるようにしているということですよね?」

「ええ、そうです。それをご存じだったのかどうかと思いましてね」

 と言われて、少し、北川副主任はあっけにとられたかのように唖然とした態度になったが、

「それはもちろん、知っていますよ。逆にそのことを一番知っているのは、この私だと言ってもいいくらいですからね」

 というではないか。

「それは、どういう?」

「このK支店では、すっかり私が一番の古参ということになってしまいましたが、私はあの事務所を併用していた時からの勤務経験があるんです。だからよく分かっていますけど、前の事務所がでボヤ騒ぎが一度あったんですよ」

 というではないか。

「昔もあったんですか?」

「ええ、もう相当昔の話で、まだ私が高校を卒業して入社してすぐくらいの頃だったので、平成になってすぐくらいでしょうか? 本部機能はすでに他に都心に移転してしまいましたけど、この事務所も少しの間利用していたんですよ。もっともそれはK支店の新社屋ができるまでだったんですけどね。だから、一年もなかったくらいでしょうか? あの時は、皆慌ただしかったので、火の始末もしっかりできていなかったんですよね。特に時代としては、そろそろタバコへの風当たりが強く鳴った頃でしょうか? それでもまだ禁煙ルームというのがあるだけで、事務所ではタバコを吸ってはいけないなどという決まりはなかった頃です」

「じゃあ、タバコの火の不始末だったんですか?」

「ええ、そうです。その人のタバコの火が、ちょうど、研究員の研究していた可燃物に燃え移ったから、大変でしたよ。社長はカンカンになって怒っていましたね。本当ならあの場所は最初取り壊す予定だったんですが、その頃、急にあの建物を残そうという話になって、壁を完全防火にしたんです。だから、あそこは、表で火事があっても、中に火が入ることはありませんし、逆に中で火が起きても、まわりに飛び移ることはないんです。だから以前は、あの場所のまわりには草が生え放題だったんですが、この建物に執着していた社長も何も言わなかったんですよ。むしろ、草が生え放題の方がよかったかのような感覚に思えるくらいでしたね」

「それはどういうことなんでしょう?」

「一度私も変に思ったことがあったんですが、どうも社長はあの場所をあまり人に見せたくなかったような気がするんです。一応、創業祭の日にはここにきて、お参りのようなことはしていますがね。そして実は年にもう一回ここでお参りを密かにしているんです。それが例のボヤのあった日なんですよ。別に何かの区切りのある日でもないので、最初は私も何の日なのかすぐには分かりませんでしたが、気が付いてみると、それがボヤのあった日だったんですね。それなのに、社長はこの建物が目立たないようになるのをほくそ笑んでいる。きっとまわりの人には分からない、何か社長の思い入れがあるんでしょうね。それがあの建物を今後もずっと自分だけのものにしておきたいという気持ちなのかも知れません」

 と北川副主任は言った。

「なるほど、社長には何かここに対して、並々ならぬお考えがあるということなんでしょうね? そのことと、今回の一連の事件、ここでの放火騒ぎと、その後の黒焦げ死体の発見、そして、二人のご子息の失踪と、さらには社長の誘拐。これだけ立て続けに起こってしまうと、それらはすべて何かで繋がっていると思うのが普通だと思うんですが、北川さんはどのようにお考えですか?」

 と横山警部補が聞くと、

「ええ、繋がっているんでしょうね。あまりにもいきなりの立て続けなので、順番もよく分かりませんが、それぞれに因果関係はありそうな気がしますね」

 と横山副主任がいうと、

「先ほどの話の、あの旧本社事務所の建物が何か今度の事件に関係しているとは思いませんか?」

「あるかも知れませんが、よく分かりません」

 それを聞いて、横山警部補が引っかかったのが、

「順番もよく分からない」

 ということだった。

 つながりがあるかどうかという段階なのに、順番というのは明らかに何かを知っているのではないかという口ぶりに、横山警部補は、北川副主任という人物が、とても印象に残ったのだった。

 北川副主任は、朝出社すると、当直室にある厨房でお湯を沸かすのが恒例になっていた。お湯を沸かしておいて、当直室の掃除から始める。畳の部屋はついつい掃除を忘れがちになりそうなので、最初に日課として行うことにしていた。

 いつものようにやかんにお湯を入れて沸かす。ポットで沸かすのもいいのだが、十年ほど前からオール電化の給湯室にしたので、やかんを使うようにしていた。こだわりというよりも、ただの癖だと思っている。

 そして、前の日に洗っておいたぞうきんを水に浸して軽く絞り、畳の部屋を拭こうと覗いたその時、北川副主任は、その場に凍り付いてしまった。畳の部屋には奥にテレビと手前にこたつ机のようなものが置かれているが、テレビとこたつ机の間で、誰かが横たわっていた。

 最初は、ここで誰かが徹夜でもしたのかと思ったが、そんな話も聞いていないし、一人だけで徹夜というのも、そもそもがおかしい。そこに転がっている人物が誰だかということもすぐに分かったし、その人物がここで横になっているということが信じられないことからも、固まってしまった理由だった。その人物とは、木下課長だったからである。

 北川副主任の頭の中には、すでに最悪の形しか残っていなかった。

「死んでいるんだろうな」

 と思って近づいてみると、畳の上には、うつぶせになった木下課長が横たわっていて、畳に血が沁みついていた。部屋には鉄分を含んだ嫌な臭いが残っていて、それが血の匂いであると分かると、身体中の血液が逆流しているような悪寒すら感じられた。

 急いで、警察を呼んだ、こちらを向いているその顔は、完全に土色に変色していて、生きているとはとても思えない、とにかく何も触ってはいけないと思い、畳の部屋から少し離れた。

 とりあえず時間的には、たぶん、警察の方が他の社員よりも来るのが早いだろう。他の社員の出社が早ければ、警察の指示なしで動く人も出てくるかも知れない。それを抑えることは自分にはできないと思った。

 何よりも死体の発見者という自分は、精神的に参っているのは分かっていたのだ。

 通報してから、三十分もしないうちに警察がやってきて、あれよあれよという間に、殺人現場の捜査態勢が出来上がった。現場は完全に立入禁止の紐が張られていて、現場では監察官による、死体検分が行われていた。絶え間なく光っているフラッシュの光を眩しいと感じながら、完全に自分がこの渦中にいるということを嫌というほど思い知らされた板川副主任は、あまりのことに声も出ないというのが実情だった。実際に警察がテキパキと動いているのを他人事のように見ていたのだが、こんな感覚は、入社して初めてだったような気がした。

「第一発見者で、通報された方ですね?」

 と最初にやってきた警官がそう言ったが、

「はい」

 と答えると、

「北川副主任さんですよね?」

 と言われてビックリしたが、

「この間からの放火や誘拐事件で私も何度かこちらに来ていますので、北川さんのことはよく承知しているつもりです」

 という返事が返ってきたのだった。

「ところで、北川さんは、救急車をお呼びにはなっていませんが、すでに死んでいるということが分かったんですか?」

「ええ、脈をみたわけではないんですが、顔色などを見て、すでに死んでいると判断したものですから」

 と言った。

「まるで以前にも死体を見たことがあるかのようですが」

 と言われて、一瞬、ギクッとした北川副主任だったが、

「ええ、それがいつ、どこでだったのか覚えていないんですが、そんな気持ちは記憶の奥にあるようなんです。その時は死体を見たとハッキリと感じたのですが、その場からちょっと離れている間に、その場から死体が消えていたんです。あの時は脈まで図った気がしたんですが、その死体がまったく最初からなかったかのように消え去っていたので、まるで夢でも見たのかと思ったんです。冷静になって考えると、夢を見た方がどれほど気が楽かということですよね。理由は疲れていたとか、何とでもつければいいわけですからね。私もその時は、それでやり過ごしたつもりでいました」

 と、警官に話をした。

 警官の方も、今回の事件に直接関係のあることではないと思ったのか、その話にはさほど興味を示していないようだった。そのうちに、県警の方から見たことのある人たちが続々とやってきて、北川副主任に声をかける。

「いやぁ、これは大変なことになってきましたな」

 と言って、一番の馴染みの横山警部補が北川副主任をねぎらったのだ、

「やはり、殺人事件なんでしょうか?」

「ええ、そうでしょうね、胸を刺されて倒れています。出血量も結構なまのですので、出血多量化も知れませんね」

「即死じゃないんですか?」

「違うと思います」

 それを聞いて、北川副主任は少し驚いた。

 確かに現場を見る限り殺人事件にほぼ間違いはないだろうが、即死かどうかをすぐに判断できるのかと思ったからだ。

「理由は?」

 と聞くと、

「あなたは、あれに気が付かなかったんですか?」

 と言われて、横山警部補が差し示したその先には、被害者の右手の先に人差し指で何か赤い文字が書かれているのがあったからだ、

――どうして最初に気づかなかったんだろう?

 と思ったが、その指の先に見えている文字は、

「さだお」

 と書かれたところから先、事キレてしまったのか、流れるように手前、つまり平面的には下の方に流れていたのであった。

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