第5話 「顔のない死体」のトリック
探偵小説などでは、いわゆる「顔のない死体」のトリックと言われるものが存在する。昔からの探偵小説黎明期から存在するもので、昭和初期の、いわゆる戦前、戦後という時代には、よく探偵小説のトリックでは、王道のように言われていたものだ。
顔のない死体というのは、顔が腐乱していたり、首を切り取った首なし死体で、特徴のある部分を傷つけたり指紋のある手首を切り取ったりして、要するに死体が誰であるか分からないようにするという話である。
それこそ戦後くらいまでであれば、首がなく、指紋もなければ、被害者が誰なのかということは、その場の状況からでしか判断できなかった。
照合する顔もなければ、指紋もない。そうなると、後は消去法しかなかった。
死体が見つかった場所に住んでいる住人であったり、住人の関係者であったり、死体が見つかった場所が誰にも関係のない場所であれば、ある意味被害者の特定はほぼ難しいだろう。
死体が見つかった場所が誰かの住居であったとしても、死体の特定には重要な要素が必要になる。それは周知のごとく、死体に該当する人間が、一人行方不明でなければいけないだろう。
もし、行方不明者が複数いれば、どうなるだろう?
二人の場合であれば、どちらかが被害者、どちらかが加害者ということになる。二人が知り合いで、二人の間に因果関係が存在すれば、間違いなくどちらかが被害者で、どちらかが加害者ということになるに違いない。
だが、難しいのはここからだ。
どちらかが被害者であることが分かったとしても、そこまでで停まってしまう。被害者と加害者が特定できなければ、捜査は完全に当てずっぽうでしかできないことになる。それならまだ何も分からない方がマシだったりするだろう。
ある程度まで絞れたのに、そこから先が進まないというのは、ある意味ほとんど迷宮入りしたも同然だと言えるのではないだろうか。もちろん、犯人の狙いはそこにあり、それを目的に、顔のない死体、つまりは死体損壊のトリックと無理やりにでも作ったのだとすれば、この事件は犯人の完全なる勝利とも言えるだろう。
このまま迷宮入りになってしまうと、完全犯罪と言ってもいい。ただ、ここで一つ問題になるのは、この次第損壊のトリックが何かの理由で分かってしまい、被害者が誰だか分かってしまうと、犯人はすぐに分かるのではないだろうか。
死体損壊のトリックほど、他のトリックと併用できるものではないからだ。
何しろ被害者が分からないのだから、加害者、つまり容疑者が分かるはずもない。だから、アリバイトリック、密室トリック、そんなものを弄することもない。なぜなら、死体損壊トリックも、アリバイトリックも、密室トリックも、最初から明らかになっているものでなければありえないということだからである。
さらに今の時代に、死体損壊トリックというのは、あまり推理小説であっても見かけるものは少ないかも知れない。なぜなら科学捜査も行き届いていて、DNA鑑定なるものも捜査の証拠として十分なことから、何も指紋や顔の有無だけに頼るものではなくなってきた。
また、トリックの中で、一つ、
「これは、トリックとして使うには、何か意味がなければ、成立しないのではないか」
と思えるものがある。
逆にいえば、死体損壊などのトリックとは違い、他のトリックと併用しなければ、これ単独ではあまり意味のないものがある。それが、
「密室トリック」
なのではないだろうか。
密室トリックというのは、カギがかかって逃げられない場所で人が死んでいて、犯人がどこから入ってどこに逃げたのか分からない場合を指す。確かに密室トリックはフィクションであれば、謎解きなどの醍醐味はあるであろうが、何も意味がなければ、密室などにする必要などない。なぜなら、殺人事件としてオーソドックスな、
「動機を持った犯人がいて、その人が殺意を持って、殺したい相手を殺す。そこにアリバイトリックなどを弄しておけば、怪しまれたとしても、アリバイがあるのだから、犯行は絶対に不可能だ」
ということになるだろう。
しかし、密室にしてしまうと、犯人を殺す動機があったとしても、アリバイトリックをいくら弄しても、表に出ているアリバイトリックがあまり意味のないものとなる。
だが、これを逆に利用して、
「もし、密室のトリックが看破されてしまった時、その密室を作ったのが、例えば殺人現場が別であったなどというトリックを使って、死亡推定時刻が変わってしまった場合に、犯人にとって密室があった場合にはなかったアリバイが、逆に証明されたなどという風になると、これこそ完全犯罪である。ミステリー小説などは、その逆で、密室の謎が解けてしまうと、せっかくあったはずのアリバイがなくなってしまうことで、犯人もそこで分かってしまうということになる。つまり、密室を作ることで、犯人は自分のアリバイを構成しようとしたということであれば、ミステリーとしては成立するのである。ただ、完全犯罪にはならない。なぜなら、基本的な密室トリックというのは、そのほとんどが機械的に作られたトリックだからである。
もちろん、中には違うものもある。
人から絶えず監視されていて、逃げることも入ることもできない状態にあることも密室の一つだ。だが、その場合は、少しでもその場から誰かが離れたであったり、その中の一人に共犯者がいたなどというトリックであれば、ありえないことではない。しかもその犯罪はいかにそのシチュエーションを作り上げるかが命であり、ある意味、人間の油断であったり、犯人にとって予期せぬ出来事か発生したりすることで、完全犯罪が瓦解するということもあるだろう。
さらに、トリックではないが、
「探偵小説やドラマなどのフィクションではよく見られるが、現実の犯罪ではこんなことはありえないよな」
と言われるようなものもあるだろう。
これは一種の殺害方法とでもいえばいいのか。この場合は、心理的に可能か不可能かという話になってくる。
それは、
「交換殺人」
と呼ばれるものである。
いわゆる交換殺人というのは、
「お互いに誰かを殺したいという強い殺意は持っているが、もし犯罪を犯してしまうと、自分が真っ先に疑われる。しかし、相手を殺さないと、自分の身が危ない。ぐずぐずもしていられないという場合、アリバイトリックを考えたりするのが普通であろうが、もし、そこに自分と同じように誰かを殺さなければ自分が危ないという似たような相手がいるとすれば、お互いに交換殺人を思いつくかも知れない」
そう、最初は、
「そんな偶然とはいえ、そんな相手が近くにいるわけもない」
と考えるかも知れないが、何か悪の組織化何かに狙われているのだとすると、同じような境遇の人がいてもおかしくはないだろう。
お互いに死んでほしい相手が一人であるとすれば、そこに知り合う機会があったとしても不思議ではない。
例えば、
「借金のかたに、風俗に売られた」
などという境遇の女性であれば、同じ時期に売られてきた相手もいるだろう。
「その借金取りさえ始末して、借用証書を奪ってしまえば」
ということさえできれば、いいわけである。
そうなると、お互いに境遇は似ているが、相手を殺す動機はないわけである。しかも、実行犯が別にいて、本当に殺してほしい人間は、犯行に携わるわけではないので、その間にいくらでも、鉄壁のアリバイを作ることができるのだ。
ただ、そのためにはいくつかの制約が持ち上がる。
一つは、
「殺したい相手を、同時に殺害することはできない」
ということ。
これはもちろん、アリバイトリックを作るためには当然必要なことであり、その殺人がまったく関係のないところで、捜査陣にこの殺人が少しでもかかわりのあることであると思わせてはいけないのだ。
そういう意味でいくと、まったく別のところで犯行が行われるのであれば、警察というものには管轄という縄張りのようなものがあり、ほとんど別の場所での殺人を一緒に捜査するということは、よほどの関係がその二つの犯罪になければありえない。つまり、そこから繋がることはほとんどないとも言えるのではないだろうか。
交換殺人では、それぞれの犯罪をたすきに掛けるという意味で、お互いに同じ立場でなければ、成立しないことだと言えるのではないだろうか。
そう考えると、ここで交換殺人が理屈的にありえないという側面が見えてくる。
何といっても、前述のように交換殺人は、アリバイを完璧にするためと、実行犯に対しては、動機がまったくありえない場合とをお互いに共有するものであることから、同じタイミングでの犯行はありえない。しかも、この二つの犯罪がまったく関係のないところで起こった犯罪だと思わせるために、なるべく時間も場所も離れていることを理想とするものである。
場所は問題ではないのだが、ここでの時間のずれが精神的に、決定的な立場の違いを二人の犯人の間に生むのだ。
なぜなら、
「相手が自分の殺したい相手を殺してくれるから、自分も相手が死んでほしい相手を殺す」
ということが、交換殺人の定義である。
しかし、先に相手に自分が殺してほしい相手を殺させてしまえば、自分が何もその人のために、義理堅く危険を犯して、相手の死んでほしい相手を殺す必要はなくなるのだ。自分にはその時点で、完璧なアリバイがあり、そのアリバイに守られている。しかも、殺した人も死んだ人間に対して利害関係はないわけだから、この事件がここで終わってしまえば迷宮入りすることは目に見えている。
ここで下手に自分が動けば、交換殺人という構図が見つかりやすくもなるし、何よりも、せっかく完璧な位置にいる自分が危険を犯す必要はないだろう。
確かに殺してもらった人に対しての後ろめたさはあるだろうから、気になるという人もいるだろうが、自分に危険がなくなってしまうと、完全にそれまでと気持ちが変わってしまうことだろう。あくまでも相手を利用したのは、自分の保身のためであり、せっかくできた完璧な保身を、自ら崩すようなことはできない。最初から何もなかったかのように思うことで、ここからの危険な行動は普通ならしないだろう。
相手だって、実際に手を下したのは自分なのだから、どこにも訴え出ることはできない。完全に裏切られたというだけで、自分のバカさ加減に気づかされるだけだ。ただ、そうなってしまうと、完全にその人は不幸のドン族に叩き落されたことで、もう一人の主犯に復讐を企てないとも限らない。
だから、実際の交換殺人なんて、最初の計画の時点からありえないと言えるのではないだろうか。
もし、相手が自分に復讐をしないと分かっていれば、ここまでの計画を立てれば、ある意味完全犯罪を成立させることもできる。悪だくみともっと企てられる人であれば、復讐されそうになる相手が復讐できないような作戦も考えるかも知れない。
自分に誰か用心棒をつけるとか、相手が身動きできないような、自分を攻撃できないような鉄壁な何かをである。
だが、それほほぼ難しいことであるので、結局、交換殺人を企てても、お互いにどちらが最初に犯罪の実行犯になった時点で、それまで対等だった立場が、天と地ほどの違いになることを、どこで気付くかということである。
計画を立てたところで気付くのか、実際に犯行に及ぶ場面で気付いたとすれば、そこで計画は頓挫してしまう。殺人を犯してしまえば、もうその時点で終わりなのだ、未然に計画をめちゃくちゃにできれば、最悪な状態は免れるだろう。
話は横道に逸れてしまったが、犯行を行った時点で、交換殺人は成立しなくなってしまうと考えれば、二つ目の犯罪は起こりっこない。それを行うのは、あくまでも小説やドラマの世界での話でしかないだろう。
交換殺人というのは、理論的に不可能と思われる犯罪であるが、別の意味で、
「これは現実にはありえないことで、小説やドラマの世界でしか見ることはできないだろう」
と思わることとして、何が他にあるかと考えると、思いつくのが、
「ダイイングメッセージ」
であった。
ダイイングメッセージというのは、殺人現場などに、謎の言葉や図形が残されていて、それは、被害者が犯人を指し示すために残したものだというものである。
これは、普通に考えただけで、
「こんなのって、不可能だろう」
と思うのではないだろうか。
被害者が誰かに追い詰められて、いよいよ殺されるということになり、相手が誰なのかも分かり、このままでは自分が殺されるということも分かるとしよう。
何をおいても考えるのは、
「どうすれば、殺されずに済むか?」
ということを全力で考えることだろう。
殺されると分かってしまった場合に、ひょっとすると、自分を殺す犯人が憎らしいので、
「どうせ死ぬなら、相手も巻き沿いにしてやろう」
と思って、書き残すこともあるだろう。
しかし、普通の殺人事件の場合で、そんな余裕がどこにあるというのだろう?
相手だって、自分を殺すことは、ある意味覚悟の上のことであり、警察に捕まりたくもないと思うに違いない。必死で自分を殺しにくるだろうから、死ぬ時は苦しむことになる。断末魔の状態で、どのようにしてメッセージを残せるというのだろうか?
さらにもう一つの問題は、
「犯人に分からないようにしながら、他の誰かが見れば分かる」
というような暗号でなければいけないということだ。
犯人に、
「これはダイイングメッセージだ」
ということが、バレてしまうと、自分を殺した後で、それも一緒に消してしまうはずである。
いかに犯人に気づかれないように書き残すかということも必要になってくるので、実際に殺されようとしているそんな断末魔の状態で、書き残すことなどできるはずもない。
もしできるとすれば、どこかに閉じ込められて、死ぬまでに時間がある場合だけであろうが、そもそも時間があるのであれば、その間に、必死になって市から逃れる方法を考えるのが先決だと思える。
それでも死から逃れることができないと分かった時、いくら時間があるからと言って、確実に市が迫りくる中で、自分の精神状態はどのようなものであろうか、
「殺すなら、一思いにやってほしい」
と考えるかも知れない。
徐々に死の恐怖が襲い掛かってくるわけで、ピークに至れば、発狂しかねない精神状態であろう、そんな状態で、果たしてダイイングメッセージを残せるだけの精神的余裕があるだろうか。
犯人がそんな時間的余裕を作るというのは、決して優しさなどからではない。むしろ相手を徐々に苦しめて、苦しみぬいて殺すという、究極の憎しみから来ている者だろう。それを思うと、恐ろしさから思考回路は早い段階からマヒしてしまい、自分がどんな精神状態で死を迎えるかなどという思いが及ぶはずもない。
そうなってくると、被害者である自分は、死を待つだけの考えることもできない、人間と呼べるかどうか分からない存在になっているのかも知れない。
そんなことを考えていると、ダイイングメッセージというのは、前述の交換殺人のような、
「理論的に不可能」
という考えではなく、
「確かにこちらも、理論的な矛盾を抱えてはいるが、それ以前に物理的に不可能だ」
と言えるのではないかと思うのだった。
探偵小説がフィクションだというのは、そのあたりからも言えるのではないかと思う。特に謎解きやトリックなどを全面に押し出した、
「本格派」
と、言われるような探偵小説であれば、実際の犯罪としては成立しないような場合が多い。
まだ猟奇的な殺人の方が、リアルに近いのではないかと思われるくらいで、どこかホラー色があるから、探偵小説としても、面白く読めるのであろう。
「事実は小説よりも奇なり」
という言葉もある通り、確かに現実でも小説並みの奇抜な犯罪が行われることもある。
しかし、それらはどんなに策を弄したとしても、小説とまではいかない。なぜなら、小説は登場人物を作者がすべて掌握していて、内容をいかようにもできるからだ。
しかし、事実においては、人それぞれに考え方も感じ方も違ってくる。最初の計画通りにいかないことが多い。逆にそれが、事件を複雑にすることがあるからなのか、そのせいで、
「事実は小説よりも奇なり」
という表現になるのかも知れない。
そうやって考えると、実際の犯罪は生き物であり、小説には絶対に適わない部分もあることだろう。
小説と事実とでは、そもそも次元が違っているので、単純に比較することなどできるはずもないのだろうが、探偵小説、ミステリーというジャンルの小説がある以上、どこかに接点はあるだろう。
小説を模倣して、実際の犯罪に利用するということもあるのだろうが、どこまで利用されているのかを考えると、不可能な部分もあるだろう。
前述の交換殺人であったりダイイングメッセージなどというものは、最初から探偵小説の中で生まれたものなのか、それとも実際に起こった犯罪の中での一こまを、小説として継承されていたものなのか分からない。
殺人事件というものは、練りに練った犯罪ほど、どこかにほころびが生じ、そこを手掛かりに事件を歩も解いていけば、意外と簡単に分かるものだという小説での格言もあったりした。犯罪計画は、理論的に組み立てられ、できた計画を全体から見て考えた時に、綻びや矛盾がなければ、それを犯行に使うことだろう。しかし、どこかに穴があり、その穴から犯行が露呈するなどという発想は考えないだろう。
要するに、
「犯罪を考える側と、解く側とでは、目の付け所が最初から違っているのだ」
と言えるのではないだろうか。
そういう意味で、完全犯罪というのはありえない。
逆に、
「小説やドラマにはあるが、犯罪計画としての小説にはあまり見かけない」
というものもあるのではないだろうか。
小説にあるとしても、それは犯罪計画というものではなく、犯人の心理であったり、犯人側に視点を置き、犯人側に同情的な考えとして、小説を描く時にあることであり、そこには、
「犯罪計画」
というものがないという理屈であった。
それは、いわゆる法律上の話であり、
「違法性阻却の事由」
と呼ばれるもので、
「違法性を否定するもの」
であり、その種類として、三つが考えられる。
「正当防衛」
「緊急雛な」
「自力救済:
などがある。
正当防衛というのは、相手が自分を殺そうとしている相手がいた場合、何もしなければ殺される時に抵抗し、それで相手を殺してしまった場合などである。
緊急避難というのは、例えば、客船に乗っていて、船が座礁や嵐に巻き込まれて沈没の憂き目に遭ってしまった場合、生き残った数名が救命ボートに群がった時、五人の定員のところに五人以上が来た場合、五人目以降を見殺しにしないと、自分たちまでも一緒に共倒れになってしまうという時、五人目以降を助けなくても、それは罪に問われないというものである。
倫理上の問題は別にして、刑法上は罪に問われないというものだ。
実際には、正当防衛や、緊急避難を装って可燃善犯罪を目論む人はいるかも知れないが、なかなか小説やドラマでは、見ることができない。
やはり、倫理的にあまり許されないことなので、テーマとしての映像化などは難しいということなのか、まったくないとは言わないが、映像化となると難しいのではないだろうか。
昭和以前であれば分からないが、今の時代では放送禁止用語も厳しくなっていることだし、倫理的に問題のあるおのは、難しいのではないだろうか。
探偵小説を書く人が一度は目指してみたいものは、きっと、
「完全犯罪を書く」
ということかも知れない。
しかし、実際の完全犯罪というのは、犯行が露呈なかったり、被害者が見つからないなどという根本的なものでなければ、結局はトリックを解明できないということであったり、法的に裁かれないということになってしまう。
法的に裁かれないというのは、それこそ、前述の正当防衛であったり、緊急避難に値するのだろうが、これも倫理としては難しいところである。
そういう意味で、やはり小説と現実の間にはれっきとした結界のようなものがあり、それが実際には見えないものであって、小説家は、
「それをいかにして埋めようか?」
と考えるのではないだろうか。
今回の犯罪を見ていると、
「まるで小説のようだな」
と考える捜査員も多いようだった。
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