第3話 倉庫焼失の怪

 いつもよりも早く目を覚ました定岡は、その日が普段よりも少し涼しいような気がしていた。確かに普段よりも少しだけ早く目を覚ましただけなので、これほど気温の違いがあれば、少しは違うとは思えた。一週間もいれば、避暑地の気温の変化にも慣れてきて、朝の気温で昼がどの程度のものか、想像がつくようになっていた。

 元々、天気などには聡い方で、自分の体調で、翌日雨が降るかどうかまで分かるくらいだった。

 最初は、

「ただの偶然だよ」

 と言っていたまわりの人も、何度か的中すると、さすがに偶然とは思えなくなり、

「体感で天気が分かる、敏感な体質をしているんだろうな」

 と言われるくらいにまでなっていた。

 だから、その日も少し涼しいというのは分かった気がしたし、何よりもこの土地に来てから初めて見る朝もやも、気温の上昇にストップをかけるような気がしたのだ。

 さすが避暑地と呼ばれるだけあって、この土地の太陽は、都会とは違っている。

 同じ太陽による照射であっても、べたつくような気持ち悪さはなかった。東京と同じ気温でも身体の動きを鈍らせるような感覚に大きな違いがあった。汗の量も明らかに少なかったくらいだ。

 一つには、風が爽やかに吹いてくるということだ。暑さの中でも心地よい風が吹いてくると、気持ち悪さは半減する。それは東京にいても同じなのだが、田舎ではその風が汗をも吸い取ってくれるようで、気持ち悪い身体へのべたつきは次第に消えてくる。

 気が付くと心地よく身体が動いているようで、本当に暑い時にはまったくと言っていいほどなくなる食欲が、ここではさほど変わらなかった。

「こんな土地にずっと住んでいたいよな」

 と、松川は言ったが、まさにその通りだった。

「だけどな、夏が涼しいということは、冬は極寒かも知れないぞ」

 と言われた。

 冬のこのあたりの雪景色は、風景写真などでも有名になっているので、寒いのは分かっている。しかし、同じ暑さに見えても、実際には体感がここまで違うのを感じると、雪が降っていても、

「思ったよりも寒くないかも知れない」

 と感じるのも、無理のないことではないかと思えた。

 定岡よりも、実は松川の方が余計にそのことを感じていて。やはりスポーツなど、暑さに耐える練習などをしていると、分かってくるものもあるのかも知れない。

 一度中学時代にキャンプで避暑地の河原でキャンプファイアーなどをしたことがあった松川はその時の感覚をいまだに覚えていて、それが彼のアウトドアの感覚を作りあげていた。

 子供の頃はどちらかというと病弱だったのは、松川の方だった。

 社長候補としては、年に何度も風邪を引いて、発熱で学校を休むようであれば、少し将来に不安を感じた松川氏が中学時代の息子に、

「お前キャンプとか興味はないか?」

 と言って、話をしたのだった、

 元々病弱ではありながら、アウトドア系が好きだった松川は、父親の意外とも思える言葉に一瞬面食らったが、すぐに嬉しさがこみあげてきて、

「うん、興味ある」

 と言って、即決での参加になったのだ。

 運命というのは存在するものなのか、その時の指導の先生というのが、サッカー部の顧問で、顧問の先生の影響でサッカーをやってみることにした。

 最初は体験的な感じで、先生も油断していたが、やってみると、これが素質が十分であった。先生の先見の明もあってか、すっかりサッカーを好きになった松川は、あれよあれよという間に、サッカーにのめり込んでいったのだ。

 それは父親の遺伝もあったのだろう。松川大吾は、いかにも社長という恰幅で、椅子に座ると、所在なさそうなくらいにかしこまって見えるくらいの身体の大きさだった。それでも、社長用に、社長室の椅子は特注なのだが、会議室は特注と会ではいかず、それなりに大きめの椅子を用意しているのだが、それでもやはり狭く見える。

 学生時代には柔道をやっていたという。なるほど、体格の良さは武道から来るものだったようで、息子が、

「サッカーをやりたい」

 と言った時も、

「本当は武道に走ってほしかったのだが……」

 と複雑な心境であったが。病弱だと思っていた後継者が、サッカーができるほどに回復したことを、社長も素直に喜んだ。

 だが、そのうちに息子のサッカーセンスが抜群だったことで、選手としてちやほやされるようになると、

「サッカーで身を立てたい」

 などと言われるとどうしていいのか悩んだほどだった。

 下手をすると、

「もし、貞夫がサッカーに走ったりすると、秘書にと思っていた哲郎を社長に据えなければいけなくなってしまう」

 とも考えた。

 しかし、それはなかなか難しいところでもあった。なぜなら社長を貞夫にして、秘書を哲郎にするというやり方を最初から推し進めていたので、秘書としての英才教育から、途中で社長としての帝王学を学ばせるというのは、ある意味酷であった。しかも、哲郎には、優秀な秘書になる人物がいない。ここからまた、世襲ではない秘書を一から育てるとなると、難しくなってくる。

 そうなると、残った手は、

「外部から引き抜いてくるしかないか」

 とまで考えていたほどだった。

 しかし、幸か不幸かか、貞夫はサッカーの道を断念した。その本心は分からないが、人のウワサでは、プロからも誘いがあったというではないか、サークルの方としても、やきもきしたに違いない。

 だが、

「私には、社長業を継ぐという使命がありますので、サッカーの世界にはいきません」

 ときっぱりと断ったという。

 選手としては、これまで通りに活躍していたので、彼がプロから誘いがあったという話も、プロを断ったという話も、一部の人間しか知らない。もし、この話が他に漏れたとすれば、マスコミがこぞってやってくるだろう。

 松川コーポレーションの子息が、サッカー選手として有名になっただけでも記事になるのに、プロから誘われたとなると、その心境を知りたいのは、サッカーファンなら誰でものことであろう。しかも、その去就となると、世間を騒がせるだけのニュースになる。しかし、それらをすっ飛ばして、水面下での交渉の末、プロを断ったなどとマスコミの取材陣が知れば、さぞや、地団駄を踏んで悔しがることであろう。

 しかも、最近のサッカー界には、これと言ったニュースもなく、多くな記事をすっぱ抜いて、サッカー界の人気を引き戻そうというサッカー担当の記者が、目を光らせている中で、誰も気づかずに出し抜いたというところが、面白い。本当はこのこと自体を記事にすれば、雑誌や新聞も大いに盛り上がるに違いなかった。

 サッカーで培った運動神経は、貞夫をなかなかの好男子に作り上げてくれたようだった。哲郎のように容姿端麗ではなかったが、貞夫の小麦色に焼けている肌は、スポーツマンとしての精悍さは、容姿端麗に勝るとも劣らなかった。

 本人は、おくびにも出さないが、容姿端麗な哲郎に少なからずの嫉妬心を抱いていた。それも仕方のないことで、その理由は、貞夫が好きになるタイプの女性は、皆哲郎の容姿端麗さに惹かれてしまう。哲郎もそんな彼女たちのことを好きであれば、それでもいいのだが、どうやら、好みのタイプではないようだ。

 貞夫の気持ちを知ってか知らずか、哲郎は、恋の悩みを打ち明ける相手を、貞夫にしていたのだ。

「僕に言い寄ってくれる人がいるのは嬉しいんだけど、僕の好みではないんだよね。うまくお断りするにはどうすればいいんだろうね?」

 などとぬけぬけと言ってくる。

 哲郎にはそういうところがあった。

 人の気持ちを忖度し、気を遣うことには長けているのだが、いざ自分のこととなると、まさか相談している相手が自分に嫉妬しているなどと思ってもいないので、責めるわけにもいかず、いつも貞夫は苦笑いをしながら、彼なりに真剣に考えて答えている。すると、そんな貞夫に対して、

「やっぱりお兄ちゃんだ。的確な回答、いたみいります」

 とばかりに、本人とすれば、照れ隠しもあるのだろうが、少しおどけて答えるのも、貞夫にとっては、辛いところであった。

 そんな時貞夫は、

――こいつは、俺の大切な弟なんだ。弟が兄貴に真剣に相談してくるんだから、それに答えてやるのは当然だ――

 と感じていた。

 さらに、貞夫には優しいところがあり、社長の座は自分で揺るがない。そのために、絶対にナンバーワンになれない弟の運命をかわいそうだと思っていた。

――あいつも、この家にさえ生まれなければ、あいつくらいの頭がよければ、自分から叩き上げて、立派な社長になっていたかも知れないのにな――

 と感じ、さらに、

――あいつをライバルにして、お互い切磋琢磨しながら、この業界を支える二大巨頭の会社の社長として君臨するというのも面白いのかも知れない――

 とも思っていた。

 兄がそんな風に考えているなど。弟は知っているのだろうか?

 いや、弟は弟で兄をしっかりと敬っていた。

 それは父親に対しての恩義もあった。さらに、父親の正妻である鮎子夫人にも感謝していた。

 普通なら、妾の家族を家に入れるなどというと、正妻のプライドから、嫉妬に燃えて、もし受け入れたとしても、まるで奴隷扱いのような態度を取られても仕方がない。取り巻きの連中だって、正妻の味方であろうから、苛めがあったとすれば、自分たちに勝ち目はまったくなかっただろう。

 まるでテレビドラマのような展開にはならなかったことで、哲郎は、社長を始め、奥さん、さらには息子である貞夫に対して、並々ならぬ恩義を感じているのだ。

 しかも、兄は、

「お兄ちゃんと言って慕ってくれると嬉しい」

 と言ってくれた。

 年齢的には二つしか違わないが。哲郎にしてみれば、小さい頃から、

「まるd絵大人と子供」

 というような関係であったように思えていた。

 兄がサッカーで活躍している時、何をおいても、競技場まで応援に行った。

「病弱だとまわりが思っていたのに、あんなにも躍動するなんて」

 と、本当に尊敬を態度で示してくれた兄に、弟は尊敬の念と、親しみをさらに感じるようになった。

 だから、

「自分はいくら頑張っても秘書止まり」

 という運命を呪うようなことはなかった。

 むしろ、その相手が兄のような人であって自分は幸福だとまで思うようになっていたのだ。

 最初は、本当に、

「お兄ちゃん」

 と呼んでいいのかと思っていた。

 子供の頃であれば、それも仕方がないが。どこかのタイミングで、

「貞夫様」

 であったり、

「松川様」

 と呼ばなければいけないとなると、呼ぶ分にはそれほど抵抗はないのだが、照れ臭さが出るような気がして、それを自分のやっかみであったり、屈辱感から出ているものであるという勘違いをされるのが、一番つらかったのだ。

 しかし。貞夫は、

「これからもずっとお兄ちゃんでいいからな。俺も哲郎としか呼ばないから、それでいいよな?」

 と言ってくれた。

「うん、そう言ってくれて、本当に嬉しいよ」

 と、涙が出るくらい嬉しかった。

 二人の異母兄弟はお互い切磋琢磨しながら成長していることを自覚しているようで、それをまわりも分かっているように思えたのだった。

 あれは、研修が始まってから八日目くらいのことだっただろうか? 二人が研修を行っているK支店で最後まで仕事をしているのは、総務部の木下課長だった。木下氏は、ほぼ毎回最後になり、カギを閉めて帰る。営業社員が最後に帰社してからの清算をその日のうちに終えるためだった。

 社長からは、定時までに帰社できない営業の清算は、翌日回しでもいいというお達しが出ていたが、昔気質でキチっとしていないと気が済まない木下氏は、自分の仕事もあることから、最後の営業社員を待っていた。社長とすれば、なるべくブラックにならないように、社員の残業を減らしたいと思っていたのだが、まだまだ残業をする社員も残っているようで、社長もそのことは気にしていた。

 木下課長は今年、四十歳になったあたりで、自分くらいの年齢の社員が、現場を動かしているという意識を持っていることで、朝は一番に出社し、帰りも一番最後にカギを閉めるということに、一種の誇りのようなものを持っていたようだ。

 仕事を終えてから、社員駐車場までは、今利用している倉庫の向こうにある、初代の本部が使っていたプレハブの大型のような倉庫を横切っていくので、少し遠いところにあるのが少し難点だった。

 その日も駐車場までの道のりをいつものように歩いていると、真っ暗な中に二つほど影が蠢いているのに気が付いた。

「おや?」

 と思って影のある方を見てみた。

 夏とはいえ、さすがに午後八時を過ぎてしまうと、あたりは真っ暗であり、通路と言ってもほぼK支店の敷地内と言ってもいい通路なので、街灯はあっても、粗末なものだった。しかも、私道に近い道なので、会社関係者以外の人が通ることは稀であろう。明るい時間などであれば、近くの中学生、高校生が近道にと利用することもあるだろうが、ここまで暗くなると人がいることも怪しいものだ。

 そこは、ちょうど角になっていて、影はその角から伸びていたので、角の近くまで行かないと、影の正体も、その先にあるものも見えない状態だった。

 影の正体を見つけようと、木下課長は、足音を立てないように近づいていく。すると、夏なのに、真っ黒いパーカーを来た二人の人物がフードまでかぶって、向こうを向いていた。二人が見ているのは、本社があった時のプレハブ倉庫だったのだ。

 見ているだけで何かをしているわけではない。二人は何もするわけでもなく、すぐにその場を立ち去ったので、

「何か変だな」

 と思いながらも、その日は何も考えずに車に乗り込んで、退社したのである。

 翌日になると、そんなことはすっかり忘れてしまった木下課長だったが、その日も前の人同じように、最初の営業が帰社してくるのを待っていた。

 最後になる営業社員はいつも決まっていて。

「お前、いい加減に、もう少し早く帰ってきたらどうなんだ?」

 とたまに小言をいうことがあっても、その人の営業範囲は他の人に比べて遠いところが多く、それだけに市街中心部からはどうしても離れる関係で、一件一件が遠いところが多かった。そういう意味では帰社が遅れるのはしょうがないとも言えるのであって、木下課長もあまり強く言えない立場にあった。

 それでも、課長として言わなければいけないことはいうことにしていたので、ひょっとすると、その営業社員は、木下課長を、

「小うるさい上司」

 という風に感じていたのかも知れない。

 そもそも、営業と管理部というのは、どこの会社でも大なり小なりいざこざが絶えないもので、K支店も類に漏れなかった。

 その日も、まったく前の日と同じような状況で、いつもの営業社員が帰ってきたのは、定時を少し過ぎていて、結局最後カギを閉めるのも、午後八時半を少し回ったくらいになっていた。

 その日は、前の日と違って残業があったわけではなかったので、待っている時間がいつもよりも長く感じられた。そのため、まだ八時半すぎくらいなのに、十時にでもなっているかのように感じられたのだった。

 いつものように駐車場に向かって歩いていると、何とも不思議なデジャブを感じた。

「これは……」

 それは昨日と同じように、プレハブ倉庫の方から伸びる二本の細長い影が蠢いているのを感じたからだった。

――今度こそ、声をかけてやる――

 とばかりに、音を立てないようにゆっくりと角に近づき、プレハブの先が見えるくらいまで来ると、そこから一気にその角からプレハブ倉庫の方を見ると、何と今まで見えていたと思った影が消えているではないか?

「気のせいだったのか、幻を見たのかな?」

 そのどちらかしかないと思った木下課長だったが、

「今日は昨夜に比べて疲れているのと、昨日の印象がセンセーショナルだったので、また今日も見えるんじゃないかと勝手に思い込んでいたことが、幻を見せたんじゃないだろうか?」

 と感じたのだ。

 少し頭を整理するかのようにその場に立ち尽くした木下課長だったが、妙にその日はプレハブ倉庫を見ていたいという衝動に駆られていた。

 木下課長が入社した時は、もう昔の倉庫は使われておらず、今の会社になっていたので、正直、プレハブに入ったことはなかった。

 営業書類の古いもので、法的に保存期間を過ぎた書類の一時保管に、ここを使っていた時期があったので、本部の管理部員がやってきて中に入ることはあったが、支店には支店で回さなければならない日々の業務があるので、手伝うこともなかった。そのため、中に入ることはなく、カギは保管しているが、一種の、

「開かずの扉」

 のようになっていた。

 そのカギは、別に厳重に保管されているわけではなく、事務所に入出できる人であれば、誰でもが触ることができるもので、しかも、毎日、カギがあることを確認することもなかった。

 つまりなくなっていても、何かがない限り、紛失したことを知らないままということになるだろう。

 倉庫の中には、別になくなって困るものがあるわけではない。昔の書類の束が段ボールに収められているだけで、盗み出すにしても、相当の重さなので、人知れずというのは難しいのではないだろうか。

 ただ、防犯カメラが設置してあるわけでもないし、真夜中には、ほぼ人通りもないので、盗み出すことは可能だろう。もちろん、その必要があればの話ではあるが……。

 その日も、

「まるでキツネにつままれたようだ」

 と思いながらも、証拠があるわけではないので、誰にも言わずに、いよいよ、松川と定岡の研修十日目を迎えたのである。

 十日目というと、社長がやってくる日だった。

 社長は毎年、創立記念日になるとやってくるので、ほぼ皆顔も分かっているし、社長からねぎらいの言葉を貰う社員も結構いた。そういう意味では慣れているはずなのだが、研修の立ち合いというのは、当然初めてなので、ちょっとした緊張がK支店の中には漂っていた。

 研修の二人は社長のご子息であった。そのことは最初の日から分かっていたことだが、二人ともまだ大学生で、新入社員の研修とは勝手が違う。そういう意味で、ついつい二人の若者を社長のご子息だということを忘れがちになり、ため口で話をしている社員も結構いたくらいなのだが、さすがに社長が直々に来るというのであれば、勝手が違う。

 本部長クラスであると、却って、気さくな雰囲気が会社の印象をよくするという意味で、大目に見られていたし、歓迎もされていたようだが、社長を相手にさすがにため口もまずいだろう。

 二人の息子も、その日会社にきてすぐに、いつもと雰囲気が違っていることを悟ったのだが、その理由が父親である社長の来訪によるものだということに、すぐには気付けなかったのだ。

 それでも、何とか一日目を無事にこなした二人は、その日、仕事が終わって、社長が予約をした高級レストランでの会食を行った。そこには支店長も招かれて、名目は、

「二人の息子の研修の進捗報告」

 ということであったが、研修前半の慰労を兼ねていると言っていいだろう。

 何しろ、まだ二人は大学生のアルバイトなのだ。あまりかしこまったことをする必要もない。ざっくばらんに話してもらえればそれでよかったのだが、二人は緊張してか、ほとんど喋れなかった。それでも、食欲旺盛な二人は、すっかりご馳走を平らげ、社長もその食欲に満足したようだった。きっと社長としては、

――研修をやらせて正解だったな――

 と感じているに違いない。

 食事を終えたのが、午後九時を過ぎたくらいになっていた。哲郎は未成年なので、まだ酒を呑ませる店に連れて行くわけにもいかず、その日はお開きになった。

「明日もまた頑張って研修してくれ」

 という社長の一言に、二人は。

「はい」

 と言って挨拶をした、

 それが今生の別れになろうとは、その当人は夢にも思っていなかったことだろう。

 その日、プレハブ倉庫が火事になったと社長に連絡がきたのは、二人と別れてから支店長と一緒に飲みに出かけて、それから宿に帰って、シャワーを浴びてすぐのことだった。

 真夜中なのに、スマホが呼び出していた。時間は午前一時を過ぎていた。

「一体何事なんだ?」

 と思い、スマホを見ると、それはK支店長からの電話であった。

――先ほど別れたばかりなのにどうしたことだ?

 と思い電話を取ると、支店長の声は完全に上ずっている。先ほどまでの支店長とはまるで別人のようだった。

「どうしたんだい?」

 と聞くと、

「社長、K支店の近くにある旧倉庫なんですが、先ほど警察から連絡があり、昨夜から火事になったようで、そのまま焼失したという連絡を先ほど受けました」

 というではないか。

「あの倉庫には何か大切なものはなかったはずだが?」

 と聞くと、

「ええ、どうしても必要なものはなかったんです」

 という支店長に対して、

「じゃあ、明日一番で駆けつけることにしよう」

 というと、支店長は困ったような声で、

「それがそうもいかないんですよ」

 というではないか。

「ん? どういうことだい?」

 と社長が聞くと、

「どうやら、倉庫のまわりにガソリンが撒かれていたという消防署からの連絡がありました」

「何? 放火の疑いがあると?}

「ええ、しかもですね、その焼け残った後から、二つの焼死体が出てきたということなんです」

 と支店長がいうではないか。

 これを聞いた社長は、完全に酔いが冷めはしたが、逆に頭が回らなくなってしまった。なまじ酔っている方が、頭の回転がキレたかのように思えたのだ。

「分かった。じゃあ、すぐに現場に行ってみることにしよう」

 ということで、支店長と現場で待ち合わせることになった。

 社長は先ほど脱いだばかりのスーツをまた着なければならなくなったことに、まだ状況が把握できない自分を感じていたのだった……。

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