第423話 姫子 🐕



 仕事時代、事務所へ出勤後のウォーキングが日課でした。零下十度に冷えこんだ真冬の早朝、分厚いダウンに毛糸の帽子&マフラー&手袋の重装備で住宅街を歩いて行くと、ふ~わり、見慣れないなにかが視線を横ぎりました。うん? 目を凝らしてもなにも見えません。錯覚かと思って歩いて行くと、またしても薄茶色のものが……。


 それが姫子との出会いでした。凍った家々のあいだをさまよう中型犬のボサボサの被毛から無数の太い氷柱がぶら下がっています。よろよろとぼとぼした様子から相当なお年寄り犬と思われます。「どうしたのかな? おいで」声をかけるとおとなしく近寄って来ました。汚れた首輪を確認し、スマホで会社のスタッフに連絡しました。


 営業車にリード代わりの紐や毛布を積んで駆けつけてくれたスタッフと一緒に事務所へ連れ帰り、とりあえず水と買い置きのお菓子を食べさせてヒーターの前で休ませると、すぐに穏やかな寝息を立て始めました。氷柱が溶けフロアに水たまりができるのを見ながら、ひと晩じゅう放浪していた子があそこにいてくれた縁を思いました。



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 なんとなく女子犬という気がしたので「姫子」と名づけ、保健所や警察、地元紙に連絡して飼い主が現われるのを待ちながらケージや食器、ドッグフードなどを求め、念のために動物病院に連れて行くと「推定年齢十八歳の雄」との診断でした。あら、あんた、男子だったの? でも、まあいっか~。姫子は事務所犬になりました。


 遅まきに飼い主さんがやって来たのは一か月ほど経ったときでした。そのころにはスタッフの一員としてすっかり定着していたので、別れるときはみんなで涙に暮れました。あるじがいなくなったケージがやけに広く見えて……捨てられなかった姫子グッズですが、訳あって会社を解散するとき机や椅子と一緒に収集してもらいました。


 いま読んでいる本に「犬や猫を保護するやつは偽善者」と言われたという獣医学部の学生の話が出て来ます。でしょうねでしょうねと思いながらヨウコさんは飄々淡々と読み流します。それはたぶん見て見ぬフリをするうしろめたさの裏返し、否応なく自分という人間の本質を突きつけられる事態がいやなのだろう、そう思っています。



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 かく言うヨウコさんにも古い疵があります。ちょうどいまごろの季節、仕事に出かけた先で、往来の激しい道路端をひとりで歩く中型犬を見かけました。あら、どうしようと思っているうちに信号が変わって車列が動き出し……空き地の月見草の花かげにちらちらしていた茶色い犬を置き去りにした罪の意識、いまだにチクチクします。


 もうひとつ。仕事関連のつきあいでヨウコさんの動物好きを知った高齢医師に「動物は黴菌の巣窟なんだよ。触るのはやめなさい」と言われたのです。大企業の産業医を長くつとめる端整な白皙のいかめしい表情、いまも忘れられません。それはそうでしょうけど、世の中、清潔だけが正しいわけでは……そんな思いは呑みこみました。




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