第214話 おばちゃん、かわいそう…… 🚍
三十代の母の白粉の匂いをいまだに思い出せるような気がする。装いとは無縁の農家の主婦が華やかな薔薇色のビロードの覆いを上げた鏡台の前で、じっと自分の顔を覗きこんでいる。その非日常性がうれしくて幼児は仔犬のように浮き立っていた。
きれいに化粧してよそ行きの着物をまとい、古めかしい旅行鞄を持った絵のような母親とバス停に立ったときの昂揚感をどう表現したらいいだろう。鎮守の森かげから現われたバスが止まる。ガソリン(or軽油だったか)の匂いにも文明を感じていた。
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停留所にして十余り隔たったところにある母の実家は地名が示すとおりの窪地で、生活用水沿いの集落の最奥の釣瓶井戸には年代物の木通の蔦が絡んでいた。その先の山の洞窟(戦時下の防空壕)に、☆◇の父子が住んでいると聞いたような気がする。
祖父はすでになく、寡婦の祖母にとってヨウコは初孫だったので、それこそ舐めるように可愛がってくれた。丹念に縫われた人形の着物をいまもありありと思い描くことができる。生まれついての甘え下手を、子ども心にひどく申し訳なく思っていた。
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八人きょうだいの総領だった母の里帰りには全員集合がかかったのか四人の叔母(なぜか叔父たちの記憶はない)の顔が揃うのが習わしで、滞在の数日間は煮物やら精進揚げやらおはぎやらのご馳走三昧、お祭りのような時間を夢うつつに過ごした。
その輪からいつもぽつんと放っておかれる女性がいた。特攻隊の生き残りの叔父の妻で元結核療養所の看護婦さん。この家でただひとりの他人。ずんぐりむっくりのDNAとは明らかに異なる華奢で瘦せぎすな細面、薄い肩がさびしげなひとだった。
「優秀な兄さんにはもっといいひとがいたはずだよ」「なにもあんなひとを……」茶の間の叔母たちの聞こえよがしをよそに、モンペの嵩が薄いひとは台所でひとり黙々と働いていた。おばちゃん、かわいそう……。身内への批判の目の事始めだった。
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儚げなイメージを裏ぎって小姑たちのだれよりも長生きしたおばちゃんは、いま、介護施設に入所している。大事に育てた息子の嫁に疎まれ、はた目にも気の毒なほど邪険にされていたので、認知症気味の同年代たちとの生活が安寧なのかも知れない。
ヨウコの老母が同じ施設にいたころ、訪ねて行くと、ロビーの車椅子から満面の笑みで手を振ってくれるので「おばちゃん、元気にしてる~?」と振り返していたが、施設の職員さんによると外からの訪問者全員に同じ歓迎をするということだった。
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