第171話 アングラ劇団と松本楼 🌇
夕闇が迫り始めた秋の日比谷公園野外音楽堂では、いましもアングラ小劇団の主演女優をつとめる従姉が蝶の羽を背負った妖精役で空中遊泳を開始したところだった。
遅れて到着したケイコと同郷のキヨミは、腰を屈めながら階段席の中ほどに進む。半裸に近い格好でワイヤーに操られ宙を飛びながら舞う従姉の姿に頬が熱くなった。
折しも一九七一年十一月十九日、日比谷暴動事件と呼ばれる沖縄返還協定反対デモで日比谷公園のレストラン松本楼に火炎瓶が投げられるほぼ一か月前のことだった。
ちなみに、戦後七年目の一九五二年五月一日、六千人のデモ隊と警官隊と衝突してふたりの死者を出した「血のメーデー事件」の顛末は、のちに本を読んで知った。
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下町の玩具工場でアルバイトをして学費を稼いでいたケイコとキヨミに学生運動に参加する余裕はなかったが、ぜひ観に来てという東京育ちの従姉の招きには応じた。
貧乏な地方出身学生には縁がなかったフォークやロックの人気スターのコンサートがこの会場で行われて「アーティストの聖地」と呼ばれていたことも知らなかった。
ケイコたちを驚かせた観劇から六年後に人気アイドルグループ・キャンディーズが「ふつうの女の子にもどりたい」と解散宣言を行ったのもこの音楽堂だったらしい。
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それから半世紀後の二〇二二年、同じ野外音楽堂で星空コンサートが開催された。
星空といっても都会のことゆえ知れているが、それでも新月の晩が選ばれて……。
澄んだシンセサイザーの音色が武蔵野の一画である東京の空に吸いこまれてゆく。
むかし、信州・御岳山の中腹で聴いた喜太郎のライブとはまた異なる趣きがある。
あのころ、アングラ劇団とはいえ主演女優の従姉に比べて垢ぬけない自分が引け目に感じられてならなかったが、よく考えれば、東京こそ田舎者の寄せ集まりだった。
憧れの従姉にしても、もとはといえば同じ地方の出身で、たしかに抜群に容姿端麗ではあったが、都会風の「ごきげんよう」の挨拶にも、いささか無理が感じられた。
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デモ被害に遭った松本楼の再建はそれから二年後のことで、かけそば一杯一五○円の時代に、オープン記念イベントとして「十円カレー」を売り出して注目を浴びた。
以後、定価八八〇円のハイカラビーフカレーを九月二十五日に限り先着千五百名に十円でふるまうイベントは恒例化し、客の上乗せの寄付は社会活動の義援金となる。
ちなみに、日比谷松本楼の創業は公園の開園と同じ一九○三(明治三十六)年で、夏目漱石の『野分』や高村光太郎の『智恵子抄』にも登場するなど有名になった。
最初、松本楼はケイコと同郷の信州・伊那出身の小坂駒吉氏が銀座で創業したが、日比谷公園開園に当たり、二男・梅吉さんが権利を落札して日比谷松本楼を開いた。
実業家で政治家だった梅吉さんは辛亥革命の指導者・孫文の支援者として知られ、そうした背景もあってか、松本楼は、かずかずの政治活動の舞台として有名になる。
関東大震災の復興後の『丸の内音頭』の制作記念に公園で盆踊り大会が行われた。
太平洋戦争では公園は軍の陣地となり、松本楼は海軍省の将校宿舎に宛てられた。
終戦後はGHQの宿舎として接収され、一九五一年晩秋にようやく解放されたが、それからちょうど二十年後、先述の沖縄返還協定反対デモの襲撃の憂き目を見た。
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そんな歴史を想い返しながら、武蔵野の西の中心、日比谷で聴くシンセサイザー。
幻想的という耳慣れた表現では言い尽くせない感懐が、身体の底から湧いて来る。
コロナ収束の目処が立つような立たないような微妙な段階なので、演者はともかく階段席に座る観客にはソーシャルディスタンスとマスク着用が義務づけられている。
感染症と音楽と星空とビル群と公園とレストラン&それぞれを取り巻く歴史……。
カオスを拒まず受け入れる、それしか、この国の未来への航路はないのだろうか。
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