第89話 いただきます 🍞



 冷たい雨が降る水曜日の朝、ふたつの国道が交差する抜群の立地のファミレスに客の影はありませんでした。隆盛期の老舗温泉旅館の大宴会場を凌ぎそうな広い空間にいつもどおりの音楽が静かに流れ、オレンジ色の温かな灯がともり……しています。


 いつもの男性スタッフはナイフの不得手なヨウコさんを承知していてくれるので「今日は洋風で」と告げるとセットで箸がついて来る手はずもいつもどおり。いつもの窓際の明るい席で文庫本を開くと、ミドルの女性グループが立てつづけにご来店。


 それぞれ慣れた口調でオーダーを告げるとドリンクバーに立つのですが、そのうちの何人かがバッグを手放さないのは近ごろの風潮でしょうか、以前は見かけなかったような気がします。あ、やっぱり行くの? オレンジジュース。すごい量の砂糖入りだけど大丈夫? 店長さんに耳打ちされたことはむろん胸のなかに収めておきます。



      🥗



 野菜入りチーズオムレツ、ウィンナー一本、ベーコン一枚、パセリ、フライドポテト数個、ミニのアサイーヨーグルト、バター&苺ジャムつきの半切りトースト二枚。真っ白なお皿ごと温められたワンプレートが届くと、腕時計で着地点を確認します。


 なんの着地かといいますと、五十回以上噛みの。涼しくなって心身のゆとりが出てから復活させたのですが、これがなかなかに味わい深いのです。口に入れると溶けそうなオムレツの五十回は無理と思いがちな胸を吹き抜けてゆくのはある小説の一節。


 信長に迫害された禅寺の高僧が、客人には濃い粥をふるまっても自身は水のように薄い粥を繰り返し咀嚼していた……そんな記述が心身に沁みこんでいまして、それに比すればオムレツごときに白旗を掲げるなど不遜の極みと承知するほかはなく……。


 

      🌠



 不遜といえば鮮烈によみがえるのは鷹やその手下にいじめられてとうとう空の星になったヨダカの、純粋といえばあまりに純粋な生命を食すことへの畏れ。その容貌や内向性からみんなに好かれない自分も虫の命をいただかなければ生きていかれない。


 自分という存在ひとりを生かすために、どれだけ多くの命が犠牲になっているかを生涯にわたって苦悩しつづけた宮沢賢治さんの分身でもあるヨダカの心情を思うと、胸の前で手を合わせての「いただきます」も、ゆめ疎かにはできなくなるのです。


 そうこうするうちに気づけば店内のbox席は老若男女で三割方占められ、スタッフさんは大忙しでひとりシフトをこなしています。この瞬間にもそれぞれの職場で仕事に従事している世代に「ごめんなさい」詫びつつヨウコさんは静かに席を立ちます。




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