第9話 オオカミ少年

 実際に聴いてみると、やはり被害者が梶原奈美恵であると断言できるだけの証拠を示した人がいた。

 彼女の身体の特徴を覚えていて、それを言い当てたのだ。それを聞いた菅原は少なからずのショックを受けていた。

「そんな……。彼女は今まで身体を許すようなことはなかったんですよ。結婚するまでは清い身体でって言っていて、これが普通の恋愛であれば、信用できないかも知れないですが、僕にとっては出会いもお付き合いも新鮮だったこともあって、その言葉を信用できたんです。それなのに、身体を許している人がいただなんて……」

 と言っていたが、実際に身体を許したのはその男だけだったようだ。

 ただ、その男の方も実は悪い男で、彼の方では実はある程度騙されていうことを承知で、騙されてあげていたという。

「だって、俺一人だけではなく、他にも何人も騙して金を巻き上げていたわけでしょう? だったら泳がせて、金を搾り取るだけ搾り取った後で、自分がそれを頂けば、自分が払った分が何倍になって返ってくる。これほどぼろい商売ありませんからね」

 と嘯いていたようだ。

 なるほど、相手が悪い女であれば。こちらが騙されたふりをしていろいろ内情を知っていれば、いくらでも脅迫できるというものだ。

「上には上がいるということか」

 ということになったが、当然、彼女への殺人の疑惑はこの男に向いたのは当たり前のことだったが。実はこの時完璧なアリバイがあった。

 もっとも、アリバイでもなければ、こんなにボロボロと悪事を暴露できるはずもない。それに本人が嘯いているばかりで、誰にも訴えることができないことも彼を大胆にさせた。捜査一課ではあくまでも殺人事件だけの捜査で、詐欺や騙し合いなどに関しては関与していない。それに、彼が実際に何かをまだしたわけでもない。計画があっただけのことだった。

 というよりも、この男に彼女を殺す動機などないはずだ。バレてもめたというのなら分かるが、そうでもないのは分かっている。最初に彼が容疑者から外れたのは、意外といえば意外なことだった。

 とにかく、捜査はまだ始まったばかりだった。

 だが、一つ不思議なことがあったのだが、その時から被害届を出した菅原が、この事件の表に一切出てこなくなった。それが事件解決に大きな意味があるのだが、一体どういうことだったのだろうか?

 死体が発見された翌日、学校の帰りに、三郎少年は、日暮坂を通って帰った。さすがに昨日の今日では、夕方のあの人が現れる時間に通るのは怖かった。まだ日が高い時間、三時に学校が終わって、すぐに帰宅したので、坂を通りかかったのは、三時二十分くらいだっただろうか。まだ夕日とまで言えるほどではなく、昼下がりと言ってもいいくらいだった。

 三郎少年が気になったのは、自分が昨日見た祠が本当に幻だったのかということであった。

 確かに今まであそこを通りかかって祠を見たという記憶はなかったはずなのに、昨日は前から見ていたような気がしたように思えた。その証拠は、祠を見てビックリはしたが、驚愕の恐怖ではなかったことは確かだったのだ。

 その日は、普通に通り過ぎるつもりで坂のてっぺんに位置する四つ角を左に曲がった。

「やっぱり祠なんかないんだ。あれは幻だったんだ」

 と感じた。

 ホッとした気分になった。

 その場所は、警察によって立入禁止にされていて、中に入れないように、しっかりと強固な扉のようなものがつけられていた。その時間は、まだ人通りも少しはあり、誰もが気にしながらも、目を背けていたのは、その場所に対して痛々しさを感じているからであろう。

「ここで殺人があったんだ」

 と皆分かっていながら、直視できない。見てしまうと、何かに呪われる気がするのだろうか。

――中には、ないはずの祠を感じている人もいるかも知れない――

 と、何の根拠もない意識を三郎は持っていた。

 昼間に見ると、今は確かに仰々しい雰囲気なので目立つのだが、ここに何もなければ、誰もこの場所を気にすることもなく通り過ぎるような場所であった。もし、洞穴があったとしても、意識するまでには至らないような気がした。

 三郎もその時は意識していたが、立ち止まることなく、横目で現場をやり過ごした。まったく振り返ることもなく、その場を立ち去ると、翌日からは意識することもなくなったのだ。

「やっぱり、祠なんてなかったんだ」

 という思いを抱いていると、その日の夢に、祠が出てきたのだった。

 次の日も次の日も、日暮坂を、そしてあの殺人現場を気にしながら帰った。そんな状態が一週間ほど続いたが、一週間たてば、時間帯も後ろにずれるようになり、またしても夕方の時間帯に差し掛かってきた。

 前よりも少し日の入りが微妙に早くなっているのか、意識していた時間に最初来た時は、坂に差し掛かった時は、すでにあたりは真っ暗だった。

 翌日からは普通に西日が残るくらいの時間になってきたが、何かが起こるという感じもなく、ただ、通り過ぎるだけだった。

 だが、事件が起こってから三週間くらいが経っていただろうか。あの事件のことをウワサする人もなくなり、気にはしているのかも知れないが、話題に挙げることはしないような、一種緒タブーの時期に入っていた。そんな頃に三郎も、意識の中で事件を忘れかけている自分がいるのに気が付いた。

 いつものように、防空壕の前を通りかかると、すでに警察の立入禁止の札もなくなっていて、その場所には工事現場のように、黄色い衝立が置かれていた。わざわざ乗り越える人もいまさらいないだろうが、それは殺人があった場所ということで気持ち悪いという意識からであろう。一番意識として強く持っているのは、何と言っても第一発見者である三郎に違いなかった。

 その日は、いつものように坂を歩いていると、前を歩く人が気になった。

「あ、あれは」

 そう、その人は例の髭が特徴の「ファイブオクロック」ではないか。

 三郎はその人を追いかけた。そして三週間前の出来事がいまさらながらにフラッシュバックしてくる。

 その人は前と同じように、坂のてっぺんの角を左に曲がった。三郎も前の時のように急いで追いかけたが、やはり角を曲がると誰もいなかった。

 前の時のようにまたしても、防空壕の方を見ると、そこにはないはずの祠があるのが意識できた。

「また幻を見たのか?」

 と思い、急いで防空壕の中に入った。

 今回は懐中電灯を持ち歩いていたので、中に入る時に懐中電灯を灯して中に入ったが、そこにはまたしても、死体があった。

 今度の死体は男だった。そして、同じように首を絞められているのか、首筋に赤い紐が結び付いていた。

 急いでケイタイで交番に電話をしたが、交番では誰も出なかった。急いで交番まで駆けつけると、ちょうど警らから帰ってきたのか、増田警官が交番の中に入るところだった。

 今回の三郎は、なぜか前回死体を発見した時に比べて、慌てていた。本来なら、現場を離れることなく、前のように一一〇番に掛ければよかったはずなのに、どうしてそんな簡単なことができなかったのか、それはあとから考えると、自分が何かに焦っていたとしか思えなかった。

 何に焦っているというのか、状況判断を誤るほどに焦る必要がどこにあったのか、子供だからということであろうか? 三郎はいろいろと考えていた。

「また、あの場所で死体があったんだ」

 と言って、急いで警官と現場に戻ったのだが、最初に驚いたのは、さっきは明らかにあったと思った祠が、またしても消えていた。

 いや、祠がないのは最初から分かり切っていることなので、本当であれば、祠が見えた最初がおかしかったのだ。その時の三郎はすでに前後不覚状態に陥っていて。増田警官にくっついていくしかなかった。

 懐中電灯を照らして中を伺っている増田警官だが、

「おや? おかしいな」

 というではないか。

 増田警官の後ろに隠れていた三郎が前に引き出されるような形で前面に出ると、あら不思議、先ほどはあったはずの男性の死体が消えていたのだ。

「どういうことだい? 君は確かに見たんだろう?」

 と言われて、

「ええ、見ました。確かに男性の死体があったんですよ。じゃあ、あれは幻だったということなのか?」

「死体を触ってみたりしたかい?」

「いいえ、以前とまったく同じ感じだったので、てっきり死んでいると思って。通報を急いだんです。すると、連絡がつかなかったので、急いで交番に駆け込んだら、ちょうど増田さんが帰ってこられたというわけです」

 と、三郎は答えた。

「ひょっとすると、その人は死んでいるわけではなく、ただ意識を失っていただけで、意識が戻って、それで帰ったんじゃないのかな?」

 と増田警官は言ったが、その表情を見る限り、犯行時代も最初からなかったのではないかと言いたげであった。

「じゃあ、一応、犯行が行われたかどうか、きちんと調べてくださいね」

 と言って、それ以上は突っ込めなかった。

 とにかく、転がっているはずの死体がないのでは、何を言っても同じだった。

 言われてみれば、時間が経つにつれて、自分も本当に死体を見たのかと言われると自信がない。一度犯罪が行われたその場所で、まったく同じような犯罪が行われるというのはどういう心理なのだろう? 普通は考えにくいと思うのは、三郎の思い込みだろうか。確かに増田警官が調べてくれたように、その場に争った跡もなく、死体があった形跡もないようだ。最初の事件での祠といい、今回の実際の死体といい。三郎少年は、いつも何かを見失いようだった。

 それからしばらくして、事件と関係のないところで、同じようなことがあった。

 学校で、誰かの給食費が盗まれるという事件があった。給食費がなくなったと一人が騒ぎ出したのだ。

 体育の時間に教室を開けてしまった時、うっかりとカバンの中に給食費を入れたままだった。着替えを終えたままの私服が机の上に散乱した状態で教室にカギも掛けていない。そんな実にセキュリティの甘い状態だった。

 誰かが忍び込んで盗みを働いても分からない。その日は少しお腹の調子がよくなくて、三郎は何度もトイレに行っていたが、その時も我慢できずに教室の前を通ってトイレに向かった。

 ちょうどその時、教室の中に誰かがいたような気がして、一度通り過ぎてから戻ったが、もう誰もいなかった。

「気のせいか」

 と思ったが、急いでトイレを済ませて、また表に戻った。

 体育の授業が終わって教室に戻ると、一人の生徒が、

「給食費の入った袋がない」

 と言い出した。

 そこで、

「誰か怪しい人が教室の中にいた」

 と三郎がいうと、いうと、とたんに、

「犯人外部説」

 が浮上してきた。

 クラスのみんなは、一歩間違えれば自分が疑われることになると躍起になっていたので、三郎が見たという犯人に対して誰も疑うものはいなかった。

 だが、先生だけは浮かぬ顔をしている。皆が犯人外部説をとっていることに苦み走った表情である。

 先生は、その後、給食費を盗まれたという少年を呼んで、何やら尋問しているようだった。神妙に聞いている生徒の様子が気になっていたが、翌日学校で、

「昨日はごめんなさい」

 と朝一番の授業の前に、皆に謝罪しているではないか。

「どうしたんだよ、一体」

 と疑問の声が上がる中、

「給食費、盗まれたと思っていたけど、実は探したらあったんだ」

 という話であった。

「何だよ、それ、俺犯人を捕まえようと張り切っていたのにな」

 とガッカリした生徒も何人かいた。

 ただ、実はこれはお芝居であり、本当は最初から盗まれたというのは狂言だった。彼の家は貧しくて、給食費もまともに払えないほどであり、しかも家では今世間で給食費を払わない人が増えているということを知っていたので、子供に給食費を持たせなかったのだ。盗まれたという狂言は、彼の苦肉の策で、切羽詰まったうえで、

「盗まれたことにすれば、払わなくてもいい」

 と感じたからだった。

 だが、そんなことは担任には分かっていたのだろう。給食費はどうするかは別問題として教室での疑惑は収めなければならないということで、あのように、

「盗難はなかった」

 ということで丸く収めようとした。

 しかし、それが収まらなかった。

「あちらを立てればこちらが立たず」

 先生は、三郎が犯人らしき人間を目撃したということを知らなかった。

 盗まれたことがなかったことになってしまうと、三郎の見たという証言はどうなってしまうのだろう。

「三郎が余計なことを言ったので、俺たちはその気になって犯人を捜そうとしたんだぞ」

 ということになり、三郎がウソつき呼ばわりされることになった。

 三郎は、確かに見たと言い張ったが。それは説得力のないものだった。被害者が、

「犯行はなかった」

 というのだから、どんなに三郎が主張しても、それは無駄であった。

 後で分かったことだが、先生は被害者のように装った生徒の家庭の事情が分かっていたので、何とか穏便に済ませようと思ったようだ。そのために三郎が余計なことをまわりから言われるようになるなど思ってもみなかった。

「ウソつき三郎。お前はオオカミ少年だ」

 と言われるようになった。

 イソップ童話の中で、

「オオカミが来た」

 と言い続けて、それが狂言であることを遊び感覚で楽しんでいた少年が、最後に本当にやってきたオオカミに食べられるというお話で、最後にオオカミが来たと言って、叫んでもそれまでの素行の悪さから、誰も彼のいうことを信じるものがいなくなってしまうという戒めを込めた教訓のような童話である。

 三郎は、その中に出てくる、

「オオカミ少年扱い」

 されてしまったというわけである。

 ちなみにこの時の先生は佐久間先生ではなかったのだが、この先生もクラスメイトも、数日前の例の防空壕で、三郎が、

「死体を見た」

 と言っていたことを知っている人はいない。

 知っているのは増田警官と三郎だけだった。

 もし、このことを知られていたら、

「オオカミ少年」

 というだけでは済まなかったに違いない。

 まるで三郎には狂言癖があるかのように思われて、そのために、この程度の攻撃で終わるわけもなく、下手をすれば、苛めに発展していたかも知れない。

 三郎もさすがに、一度ならずも二度までも、同じようなことがあれば、

「ちゃんと見た」

 と言い張るだけの自信を自分でもつことができなくなってしまうような気がしてきた。

「俺って本当に狂言癖があるのか、それとも、幻を見てしまうのか、一体どうしたっていうんだろう?」

 と考えてしまう。

 最初は確かに自信を持っていたはずの三郎だったが、だんだんと自分が信じられなくなってくるようだった。

 何をやっていても自分に自信が持てないと、楽しくもないし、まわりが自分をどのような目で見ているのかということを考えると、そこに見えてくるのは、恐怖心だった。

 恐怖という言葉を思うと、思い出すのは、最初に見た殺人現場だった。あの恐ろしい断末魔の表情。あの表情を最初に見て、

「恐ろしい」

 と感じたが、その恐ろしさのピークはその時だった。

 次第に怖い表情を見ても、それほどの恐怖に思えなくなってきた。その証拠にこの間見たと思っていた死体だって、

「あれは本当に死体ではなかったのではないか?」

 という増田警官の指摘にもあったように、言われてみれば、本当に死体だったおかと自分でも信憑性がないようにも思えたのだ。

 さらにとどめに、給食費盗難事件。これは狂言であったが、確かに誰かが教室をウロウロしていた。子供だったのか、大人なのかすら曖昧ではあるが、誰かがいたということだけは分かっている。しかし、盗まれたという事実がなくなってしまうと、自分だけが高いところに上ったまま、梯子を外された気分である。もうこうなってしまうと、自分の正当性を示すためにも、見たことを幻だったということにしなければ、最後には自分が悪者で終わってしまうことになってしまう。

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