第4話 五時の秘密

 五時になるとその人が現れるのは皆の周知になっていたが、だからと言って、さほど話題にすることはなかった。どこかタブーのようなところがあったのだが、その理由には、

「どこか奇怪な部分があるので、ウワサにすると、ロクなことはない」

 というところから来ているようだった。

 都市伝説の中には、そういう話も多いようで、昭和の時代であれば、先生から聞いた話として、

「口裂け女」

 というのが流行ったと教えてくれた。

 顔を完全にマスクで覆ったような女性が、学校帰りの子供に、

「私。綺麗?」

 訊くのだという。

 そう訊ねられた子供が、

「きれいです」

 と答えると、

「……これでも……」

 と言ってマスクを外すと、そこには、耳元まで口が裂けた女がいるという。

 恐ろしいのは、最初に、

「綺麗ではない」

 と答えると、包丁や銃で殺されるという。

 また、先生が言っていた話として、

「トモカヅキ」

 という妖怪がいるという。

 その妖怪は、いわゆる、

「ドッペルゲンガー」

 にゆえんするような話であるが、こちらは三重県の鳥羽や伊勢あたりに伝わる伝説で、海女さんがもっとも恐れる妖怪だという。

 海女さんなど、海に潜る人そっくりに化けて、人を暗い場所に誘ったり、アワビを差し出すという、その誘いに乗ってしまうと、海に引きづりこまれて殺されるというのが一般的にいわれていることである。海女さんはそんなトモカヅキへの魔除けとして、五芒星を模した手ぬぐいを身に着けているという。

 こんな恐ろしい妖怪の伝説に似たような話も、この日暮坂には残っているという。もちろん、トモカヅキは海の妖怪であるが、ここは坂の上。シチュエーションが違っているので、内容も違うのは当たり前であるが、それだけにトモカヅキの伝説を知らない人が多い中で、この話もいつの間にか風化してしまって、調べなければ出てこない都市伝説と化してしまっていた。

 一つ言えることとして、先生の話で、

「魔物が出る時というのは、それぞれに共通性があるようなんだ。ここでは夕方のいわゆる逢魔が時が多いと言われているけど、場所によっては違っていることもあるので、やっぱり調査は必要なんだろうけど、魔物が出る時間、そこに共通性があるということなんじゃないかって思うだよ」

 と先生は言っていた。

 だから、この坂に現れる髭を生やした人の正体が何なのか疑問ではあるが、次第に皆の中でタブーとして忘れ去られようとしていたのも事実だったであろう。

 だが、そうはさせなかったのは、意外なところでこの話が急転直下に一つの形を表したことに至るのであった。

 それは、年も押し詰まった時期の木枯らしが吹きすさぶような寒波が訪れた、年の瀬の時期であった。

 その年は十二月に入ることまでは例年よりも寒さを感じさせないほどの暖かな年で、

「今年は暖冬だ」

 と言われていただけに、いきなり訪れた寒波に、日本中が凍えている時期であった。

 年末というと、クリスマスソングにイルミネーションが賑やかではあるが、この街にいるだけであれば、それほどクリスマスへの印象は深くない。

 テレビのコマーシャルで、ケーキやチキンの予約などを宣伝はしていても、そこまで例年ほどの印象がないのは、やはり季節外れの暖かさが影響していたのだろう。

 家族と関係の薄い三郎であったが、クリスマスだけは、他の家庭のように、ケーキが用意されたり、チキンが食卓を飾ったりしていて、プレゼントも朝目が覚めると置いてあった。

――どうしてクリスマスだけなんだろう?

 と思ったが、その理由は子供の三郎には分からなかった。

 ただ、正月になると、完全に家は引きこもってしまう。友達の家に行こうとしても、

「正月くらいは家にいなさい」

 と言われる。

 初詣も出かけたことはない。クリスマスにあれだけ他と同じようなイベントをするのに、正月はまったく何もしない。それは正月くらいはゆっくりするという両親の勝手な思い込みのようだった。考えてみれば、クリスマスがおかしいだけで、他のイベントというイベントには何もしない家庭ではないか。

 年賀状も親には一束くらいは来ていたが、それが多いのか少ないのかもよく分からない。父親は、面倒くさそうに年賀状の返事を書いていたが、本当にその態度は面倒臭そう。そんな親の姿を見るのは、これほど嫌なことはなかった。きっと親の考え方としては、

「正月ほど面倒臭いものはない」

 と思っているのかも知れない。

 今年の年末も同じようにクリスマスまでは感情が右肩上がりになるが、クリスマスを過ぎると、一気に急降下するだろうということは分かっていた。

 奇しくもクリスマスが終わってから冬休みに入るというのに、自分だけがテンションダダ下がりになってしまうのは、おかしな気がしていた。

 そんなクリスマスを目の前に控えた十二月中旬に差し掛かった時期。襲ってきた寒波は全国的に猛威を振るっていた。木枯らしというには強い風に自転車はひっくり返っていて、歩いていて耳が痛くなるほどの寒波は、昨年の冬にもなかなかなかったものだったような気がした。

 そのせいか、公園に来る人も少なくなってきた。空も薄暗くなっていて、

「いつ、雪が降ってきてもおかしくないな」

 という感覚になっていたが、雪は降ってはこなかった。

 その分、暗くなった空のせいか、風の強さを煽っているようで、風を避けようとする素振りが余計に寒さを誘うようで、皆背筋を丸めたように歩いている。猫背になっているせいで、視線は自然と下を向いてしまい、薄暗い中ではあるが、中には自分の影を意識している人も多いに違いないと思わせるくらいだった。

 コートのポケットに手を突っ込んで、背筋を丸めて歩いている姿は、毎年見る光景だが、何となく寂しさを感じさせる。

 そのために、夕方の西日が差し込んでくる時間はないと思われがちだが、そんな日であるほど、夕方の一瞬だけ、雲が晴れて、光が差してくる時間があることを知っている人はいないに違いない。

 しかし、そんな時間を見ることになる三郎少年は、

「あの夕方にしか出てこない人がいるから、夕日が差し込む時間が一瞬だとはいえ、できるんではないだろうか?」

 と感じた。

 その時初めて、それまで興味はあったが、あまり接触したい相手だとは思わなかったその人に、違う意味での興味が生じた。

――この人の正体ってどんな感じなんだろう?

 と感じさせる。

――この人を意識しない人はいないとは思うが、その正体を知りたいと思う人は実際にはいないだろう――

 と思わせた。

 だが、その正体を知ろうとするのは、前述のようにタブーとされていた。知りたいと思う人が多いことで、タブーとしていたのかも知れないが、人々の間では、

「アンタッチャブル」

 という言葉とともに、無視するわけにはいかないが、必要以上に意識をしないようにしようとも思っていたのであろう。

 しかしここに一人冒険心の強い少年がいることを誰が意識していただろう。大人ですらアンタッチャブルになっているのだから、子供には余計に意識していないと思うのは、大人の勝手な解釈であるに違いない。

 三郎少年は、最初、その人が五時ちょうどに現れるということを知らなかったので、その人が現れるのを、

「夕日が沈むタイミング」

 として意識しなければいけないというのを考慮しなければいけなかった。

 夕日が沈んでしまうと間に合わないと思っていたので、寒風吹きすさぶ中で待ち続けなければいけないのは、実に辛いことだった。

 その日は、偶然というわけではなく、その人を見つけることができた。ちょうど光が雲の合間から差し込んでくるのだが、その人に後光が差して見えるとは聞いたことはあったが、

「本当に、後光が差しているようだ」

 と感じた。

 雲の合間から差し込む日差しは、幾線にも境目を持った光となって見えることが、

「これこそ、後光ではないか」

 と思わせた。

 そもそも、後光というと、お釈迦様にしかないものだという偏見のような思いがあったのだが、それが本当のことなのかどうか、よく分からなかった。

 お釈迦様というと、思い出すのは、西遊記の話であった。

 テレビドラマにも何度もなっているので、あまりにも有名な話ではあるが、その中で印象に残っている話として、孫悟空の驕りを戒めるという意味で、お釈迦様が、御供に言った、

「お前の力がどれほどのものか、見せてみよ」

 という言葉に対して。

「じゃあ、世界の果てまで行ってくる」

 と言って、雲に乗って猛スピードで、一直線に飛んでいく。そうすると、そこに雲の上に浮かぶように垂直の柱が数本立っているのだが、その柱を孫悟空は、

「世界の果て」

 だということで、そこに自分の名前を書いたのだ。

 その足で、また雲の上の同じ道を通って、お釈迦様のところに戻ってくるのだが、孫悟空はいう。

「俺は今、世界の果てまで行ってきた」

「それでは証拠があるのか?」

 と訊かれて、

「そこに柱が五本立っていたので、そのうちの一本に、自分の名前を書いてきた」

 というと、お釈迦様は一瞬考えたようになったが、次の瞬間、ニタリと笑うと、

「お前のいう世界の果てあった五本の柱というのは、どんなものなんだ?」

 と訊かれて、

「天にも届きそうな細長い柱で、等間隔に立っているものだ」

 というではないか。

 するとお釈迦様は、

「お前の書いた名前というのは、これではないのか?」

 と言って、孫悟空を自分の掌の上に乗せると、掌の指を徐々に狭めようとする。

 押しつぶされまいとする孫悟空であったが、その時に何気なく見たお釈迦様の指の先に、見覚えのある文字が書かれていた。

 それを見た時、孫悟空は何かで脳天を叩かれたような驚愕を覚えた。

「こ、これは……」

 とでもいったであろうか、

「どうだ? お前の力というのはそんなものなんだ」

 とお釈迦様に言われて、孫悟空は自分がいくら逆らっても、お釈迦様には適わないと思ったことだろう。

 その時に、お釈迦様と同じくらいの力を持った者が他にもいるというのを知ったかどうか、少なくとも慢心が打ち砕かれたのは間違いのないことだったであろう。

 そんな時に見たお釈迦様の後光の眩しかったことは、孫悟空にとってはひとしおだったに違いない。

 お釈迦様には孫悟空の慢心をいさめるということだったのだろうが、孫悟空とすれば、お釈迦様への忠誠心が生まれた瞬間だったかも知れない。ドラマであり、お釈迦様が万能の神でもあるかのように描かれているが、実際には、どこまでが本心なのか分からない。お釈迦様とすれば、そこまで孫悟空の自由を奪うという気持ちはないかも知れないが、忠誠心を抱いた側の方が気持ちとしては大きかったのかも知れない。

 そんな孫悟空の話もあるのだが、それを思い出すくらいに、その時に見えたその人の後光には驚かされた。

 だが、実際にその後光がお釈迦様のように、

「ありがたいもの」

 というイメージで考えていたら、とんでもないことである。

 あの人にはお釈迦様のようなお慈悲があるわけではなく、

「慈悲などありえない」

 と言える存在なのではないだろうか。

 そう思いながら、見つけたその人を追いかけるように歩いていた。自分では思ったよりも早く歩いているつもりだったが、なかなかその人に負いつくことはできない。相手も早歩きをしているわけではないのが分かっているだけに、自分の早歩きがまるで、雲の上でも歩いているかのようなもどかしさになってくる。

 足元を見ながら歩いているのであれば、それも仕方のないことかも知れないが、歩いているのは、相手の後ろ姿を見ながらであった。それは、まるで孫悟空が、お釈迦様の掌ぬうえで転がされているかのようであった。

 そういえば、先生が面白いことを言っていたのを思い出した。

「掌の上で踊らされるという言葉と、転がされるという言葉、微妙にニュアンスが違うんだが、どういうことだか分かるかい?」

 と言われた。

 さすがに小学生の四年生には難しいことなので、

「分かりません」

 と答えると、先生が教えてくれた。

「掌の上で踊らされるというのは、うまい言葉に乗せられるというような意味になるんだ。つまりうまい具合に操縦し、自分に有利な形に導くというのが、踊らされるという場合のことなんだよ。逆に転がされるというのは、完全に相手の操縦する通りに動かされるということであり、完全に相手に支配されているということを示すんだよ」

 と教えられた。

 すると孫悟空の場合などは、

「掌の上で転がされた」

 ということになるのだろう。

 相手に対して優越感を示したかった人にとっては、出る杭を折られたようなものであろう。

 それを考えると、しっかりと相手を見ているはずなのに、自分の意思通りにいかないことを、相手に踊らされていると考えるか、転がされていると考えるか、その微妙な感じ方によって、相手に対しての自分の立ち位置が違っている。

 孫悟空とお釈迦様ほどの差が、同じ人間同士にあるとは思えないので、踊らされていると考えるか、転がされていると考えるかは、その人次第なのではないだろうか。

 その人の背中がなかなか大きくもならないし、小さくもならない。

 近づいているのは間違いないが、相手が次の瞬間にはその距離を広げているということなのかも知れない。

 お互いに呼吸が合わないだけで、こちらが動いていると相手が停まっていて、こちらが停まっていると相手が動いているという、まるで次元の違いを感じさせるものだった。

――まさか、前を歩いている人って、自分なんじゃないかな?

 と感じた。

 その頃には、ドッペルゲンガーなどという言葉は知らなかったので、ただ、

――自分と同じ人間がいれば、それは怖い存在だ――

 と考えているだけだった。

 しかし、これも先生と話をした中で、

「自分と同じ人間が、同じ時間の同じ次元に存在しているというのを見たという人が今までの歴史の中にはあって。そんな人はことごとく、見たという近い将来に死んでいるんだよ」

 と言われた。

 それをドッペルゲンガーというのだということを後になって知ったが、ドッペルゲンガーという言葉は、それまでにどこかで聴いたことがあったような気がしていたのだ。

 先生が言っていたのは、

「世の中には自分に似た人が三人はいると言われているんだけど、自分と同じ人間は、似た人ではなく、自分そのものなんだよ。だから、ありえない状態で存在しているから、それを見ると、死んでしまうという考えもあるんだよ。ただね、医学的に、あるいは、科学的に別の見地で解釈する考え方もあるので、それをどう解釈すればいいのか、考えるべきなんじゃないかな?」

 ということだった。

 その時の三郎少年は、何か怖いものを聞かされたという意識があった。

 何が怖いのかというのは、ハッキリとした言葉で証明できるものではない。

 それだけに、今回得体の知れない人物を追いかけることに、恐怖がないわけではない。本当であれば、足が竦んで歩けないほどの恐怖を感じているはずなのに、

「今回ばかりは、自分でその正体を突き止めないわけにはいかない」

 というような考えが頭の中にあるのだった。

 さらに少年は、その人を追いかけていった。

 なるべく見つからないようにしようとは思いながらも、何しろ、逃げるところがないだけに、気付かれて、後ろを振り向かれれば、気付かれるのは分かっていた。だが、気付かれた時は、知らんぷりをすればいいだけだと分かっていたので、逆に、自然体の方が、追いかけているという意識もなく、相手も追いかけられているという思いもないので、いいだろうと思ったのだ。

 実際に住宅地という場所からなのか、道もそこまで広いわけでもなく、路肩に歩道があるわけでもない。ただ、その場所は知っている人は知っているというところで、目立つこともなく、人から言われなければ分からないという、実は全国的にも数か所しかない貴重な場所であった。

 三郎少年も知らなかったが、その話は先生から聞いて知っていて、その話を訊いてから帰る時、実際に見てみると、間違いないことで、

「本当だ。先生の言った通りだ」

 ということで、思わず感動した場所でもあった。

 あくまでも、住宅街を中心とした地区だけなのであるが、電柱がすべて地下を通っていて、地上に出ていないのだ。だから、逆に隠れる場合に電柱の影に隠れるということができないのだ。

 そもそも大人であれば、あの細い電柱に隠れるということは無理でも、三郎のような少年であれば、隠れることも十分に可能である。そういう意味で、電柱という隠れるところがないというのも、この一帯の特徴であった。

 さらに、住宅街ということで、マンションの踊り場や玄関のような場所もなく、しかも、植え込みのような垣根があるわけでもない。場所によっては、ずっと石塀が張り巡らされているところもあり、後ろを振り向くと、自分に向かって歩いてくるのがまるわかりだった。

 午後五時のその時間、その男が坂の上を昇っていくという時、まわりに誰もいないというのも一種の魔法のようなものだった。

「そんなには、ただの偶然だよ」

 と言って、先生は嘲笑していたが、先生とすれば、理由を言わなかっただけで、その言葉の信憑性は根拠とともに実はあるのだった。しかしなぜその時先生がその根拠になるようなことを言わなかったのか、すぐには分からなかった。

 後になって考えれば、

――どうして何も教えてくれなかったおだろう?

 と思った。

 他のことは自分から聞かなくても先生が何でも教えてくれたはずなのに、どうして教えてくれないこともあるのかと考えたが、そういえば、今までにも何度か、自分に内緒にしていることがあった。それは皆、三郎のためだったと言ってもいい。そのすべてを三郎が理解しているわけではないが、そのほとんどは理解できていたので、他のことも、先生には考えがあってのことだと思うと、それ以上、必要以上な意識をしないようにしていたのだ。

 何とか、三郎少年は、その人の後をつけることに成功しているようだった。その人は一度も後ろを振り向かず、ただ前を見て歩いているだけだった。その先に何があるというわけではないのだが、坂野てっぺんを目指してあるいている。すると、徐々に真っ暗な坂のてっぺんだけが、何となくだが光っているように思えてきた。

 その理由は、地表の暗さに比べて、空はまだ若干の日の光の恩恵が残っていて、それぞれを見比べれば、坂のてっぺんを境に、明らかに層が違っているのが分かりそうなものだ。

 それは、地平線と同じであり、地平線も暗くなりかかった時に、地面と空の間を境目として映しているものであるということを、その時初めて三郎は知ったのだ。

 もちろん、そんなことまで考えるだけの気持ちに余裕があるわけではなかったのだが、なぜかその時の三郎は落ち着いていた。

 何かを考えていたような気がする。

 しかし、何を考えていたのかまでは、自分でもハッキリと分からない。ゆっくりと歩いているのだって、相手に合わせているからだ。もし、自分がいつのくらいに人に合わせて歩いていれば、とっくに追い越している。普段から、人と同じように道を歩くのが苦手だった三郎は、まわりの人がゆっくり歩いているのを見て。いつももどかしく感じているくらいだった。

 この日も、あの人を尾行していながら。最初の方では、

――何をあんなにチンタラチンタラ歩いているんだ――

 と思っていたに違いない。

 だが、それも最初だけで、相手の呼吸に合わせて歩いていると感じると、相手がどんなにゆっくり歩こうとももどかしく感じることはなくなっていた。

 相手の背中が大きくなることもなく、小さくなることもないと思っていたが、次元の違いのように急に大きくなったかと思うと、今度は小さく感じてしまうようになると、いよいよその人の正体を突き止めなければいけないという義務感のようなものに襲われてしまうのだった。

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