第29話 まさかそんなことが
謎の人物は一歩また一歩とこちらに近づいてくる。真犯人が賢太の行動を察知したのかもしれない。
大きくなる鼓動は体を揺らし、潮騒のような耳鳴りは周囲の輪郭を曖昧にする。黒いシルエットはお土産コーナーとロビーの境目あたりで足を止め、カチャリという音と共に外套の裏から何かを取り出した。暗くてよく見えないが、筒状のようにも見える。先端がこちらに向けられて、思わず体がこわばる。まずい。体に力を入れると同時に、賢太は強い明かりに照らされた。
「誰じゃ!」
謎の侵入者が声を上げる。それは聞き覚えのある野太い老年の声だった。
「か、会長?」
賢太はおずおずと立ち上がると、声の主を懐中電灯で照らす。そこには、突然の光に少し目を細めている会長の姿があった。
「やはり、賢太くんだったか。鍵を貸して欲しいなんて怪しいと思って来てみれば」
「どうして、会長がここに」
「それは、こっちのセリフじゃわ!」
「僕はくわ助の調査がありまして」
会長が訪れるとして、こうもタイミングが合致するとは。
「その調査とやらの内容をなぜ頑なに教えん?」
会長の顔にあるしわは一方向からの光を受けて、深く影を落としており、ごつごつとした岩のようだ。会長から鍵を借りた際は先行きが不透明であったため、万が一のことを考え、目的を話さないでいた。しかし、こうしてくわ助の真相が明らかになり、そして会長が犯人である可能性が低いことを考慮すると、彼にくわ助暴走事件の顛末を話しても問題ないだろうと判断した。
賢太はタブレットの画面を見せながら、くわ助と思っていたアカウントが実は人間が運用する通常のLINEアカウントだったこと、またその犯人が観光協会職員である可能性が高いことを打ち明けた。
「ま、まさかそんなことが」
会長は驚愕としか形容しようのない表情で呆然としていた。ゴワゴワとした手で白髪をなでると、ふっと息を吐いた。
「そうか…… そうか……」
訥々と静かに繰り返す会長は哀感を帯びている。
「あとはわしに任せろ。身内の問題はわしが片付ける」
会長の瞳からは既に困惑が取り除かれていた。彼の言葉は自らが犯した過ちの責任を取るかのようだった。それは観光協会という組織の最高責任者として理想的な振る舞いに思える一方で、賢太はその結末を想像した。
容疑者は誠司、育、渡会の3人に必然的に絞られる。犯人が特定されれば、その人物は糾弾されるだろう。同僚や来訪者を裏切ったのだから、それは当然かもしれない。しかし、そのような光景は見たくないと直感的に思った。
「皆に知らせるのは少し待ってもらえませんか?」
賢太は考えるよりも先に口走っていた。策はなかったが、潔世市観光協会という組織を再び瓦解させたくなかった。観光協会で事務員同士の内輪揉めが発生した末、職員の大半が退職するという事件が起きたことを以前元職員の沢田から聞いた。
そのようなことはもう二度と起きて欲しくない。最近復調気味の育に不必要な刺激を与えたくはないし、誠司にもイサギヨライダーとしての活動を続けて欲しい。渡会は依然としてミステリアスな存在ではあるが、きっと隠された魅力があるはずだ。
「どうして?」
会長はムッとした様子で聞き返す。
「それは……」
賢太は頭をフル回転させて言い訳を探す。
「犯人を特定できていない状況でむやみに聞いて回っても、組織に亀裂が生まれる可能性があります」
「亀裂も何も、既に裏切り者がおるんだろう」
「そうですが…… まだ外部犯の可能性も残っています」
賢太は自分でも外部犯の線は極めて薄いと感じていた。くわ助のアカウントを入れ替えるなら勤務時間中に他者の目を盗んで行うのが最も容易な方法だ。仮に、深夜に侵入するという方法であったとしても、扉に損傷などがなかったことから犯人は鍵を使って侵入したことになる。そうなると、観光協会の鍵を手に入れられる内部犯の可能性は高まる。
「うーん、しかしだねぇ」
会長は聞き分けの悪い子供への対応で苦慮するように困惑していた。
「必ず犯人を特定しますから」
会長の瞳を直視して言う。相変わらずの眼力だがひるまないよう気合を入れる。
「そこまで言うなら待つが、しかし賢太くんが東京へ引っ越すまでだぞ。それ以降はわしが片をつけるからな」
会長は根負けしたといった様子で息を漏らす。会長からなんとか妥協を引き出すことに成功した。しかし、賢太自身、観光協会という組織にこれほど思い入れがあるとは思っていなかった。
「ありがとうございます! ちなみにここって監視カメラは付いてますか?」
賢太は早速、犯人特定への意欲をアピールするために質問した。観光協会の入口を映した映像があれば、タブレットの入れ替えが日中に行われたのか、深夜に行われたのか、の特定が可能だ。
「うむ。あるにはあるが、事務室にしかついておらんのだ」
「そ、そうですか」
事務室に監視カメラを付けて意味があるのだろうか。それでは、強盗が侵入した際にも役に立たないだろう。とはいえ、事務室の監視カメラも使い様によっては十分有意義な捜査ができるはずだ。
「ともかく、細かいところは明日以降にしよう」
会長は伸びをしながら言う。
「そうですね」
真夜中のこんな場所では名案も思い浮かぶはずがない。緊張が解けると、どっと眠気が襲ってきた。2人は建物から出ると、入口を施錠し鍵を会長に返却した。そしてそのまま、2人はそれぞれの帰路についた。非日常による心地の良い倦怠感を全身にかかえながら自転車をこぐ。興奮によって体が少し火照ったせいか、行きの時よりも風が冷たく感じた。
木浪川にかかる橋を渡っていると、下方からわずかに水の流れる音がする。水面は月光をわずかに反射するだけでほとんどが暗黒だった。堤防の間に横たわる深淵は神様がここだけ地面をつけ忘れたようだった。
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