交渉は真っ先に除外される
俺は半壊した建物の二階で、ライフルを構える。
与えられた任務は、敵司令部が置かれている工場へと繋がる路地の一つを監視して、そこから逃げてくる敵兵を射殺せよというものだ。
もちろん工場は多くの兵士達によって何重にも包囲されているが、それでも撃ち漏らす可能性はある。
俺の監視する道は、車一台が通れる程度の狭い道だ。
流石に敵装甲車のようなのが現れたらどうしようもないが、そんな巨大な兵器を撃ち漏らすことは、まずないだろう。
相手はおそらく歩兵、それも一人とか二人とか、その程度の人数になるかな。
いや、そもそも包囲に参加する部隊に比べて圧倒的少数の敵兵は、撃ち漏らしなく殲滅される可能性の方が高い。
たとえ撃ち漏らしたとしても、逃げることに使える道は大量にある。その中からこの道が選ばれる可能性は、限りなく低い。
俺は、50万の兵を指揮する司令部を落とすという作戦の規模、重要性に対して、かなり気楽に構えていた。
深夜十二時、発砲音と爆発音が聞こえ始めてきた。
発光弾が撃ち上げられ、辺りを照らす。
工場を中の兵士ごと焼く炎の明かりが、ここからも見えた。だが、あまりに距離がありすぎて、それ以外の何かを見ることはできなかった。
だが、かすかに獣のような悲鳴は聞こえた。
深夜二時にもなると、炎は収まり始めており、発砲音も指示を飛ばす怒号も、散発的になってきた。作戦は成功したようだ。俺は、少し眠くなってきた。
大勢の人がいると、人は自らの責任が小さいと錯覚しがちだ。その現象が、俺にも起こっている。まずいな。
俺が寝たことで敵兵を撃ち漏らしたら、取り返しがつかない。俺は、腕をつねって強引に目を覚ます。
そして深夜三時頃、暗闇の中にある路地に人影が見えた。何かから逃げるような動きをしていて、負傷しているようにも見える。少なくとも、味方歩兵ではない。
曳光弾が撃ち上げられ、その兵士の姿が浮かび上がった。
酷く煤けた、敵国軍で採用している戦闘服。ライフルを構える腕にも、力はほとんど入っていない。
ヘルメットから、空色の髪がはみ出ている。
何より、あのワインレッドの瞳は見間違えようがなかった。
敵兵にして、同時に俺の友人でもある。
俺は、銃口を下ろして窓枠から離れると、きしむ階段を降りて外に出た。
氷真は出入り口をすでに通り過ぎていて、俺は後ろから声をかける形になる。
「氷真」
俺はライフルを構えて氷真に照準を合わせると、声をかけた。
氷真は立ち止まると、銃を構えてゆっくりと振り返る。氷真のライフルの銃口が、俺の心臓に向けられた、
「ファルアス君か。久しぶり」
氷真は、笑顔を浮かべてそう言う。澄んだワインレッドの瞳には、様々な感情が渦巻いていた。
「この後、どうするつもりだ?」
「包囲網を突破して自国に帰るよ。ボクの部隊は全滅してしまったから、新しい部隊に配属してもらわないとね」
俺は氷真の正気を疑いかけたが、彼女の能力を考えれば不可能ではないのかもしれない。
「俺は、お前を撃った方がいいのか?」
「人間の尊厳うんぬんかんぬんを唱えるなら、君はボクを殺す必要があるね」
氷真は、俺の心臓に向けられていたライフルの銃口を下ろすと、そう言った。
敗残兵として逃げ回っていれば、プライドなどすぐにズタズタになるか。
「まあ、人間もしょせんは動物だからな」
俺は、ライフルの銃口を下ろした。尊厳のために死ぬなんて、あるいは尊厳を守るために殺すなんて、馬鹿らしい。
「いや。人間の尊厳うんぬんかんぬんを最初に言い出したの君じゃん」
少し暗い表情だった氷真の口に、笑いが浮かんだ。
「じゃあ、始めるか」
「そうだね」
俺はライフルを地面に置いて、腰に吊っておいた
なんか、着剣したライフルではなくナイフで戦ってみたい気分だった。
氷真も、自らの銃を地面に落とし、腰の鞘からナイフを抜くと、構えた。
俺は、腰を落として姿勢を下げると、氷真の内ももへと斬りかかる。ちょうど太い血管が通っているところだ。
氷真は跳躍してそれを避けると、俺の首筋へとナイフを突き出してきた。
俺は、その腕を掴んで外側に捻る。
相手の武器を奪い、上手く行けば、相手を地面にねじ伏せることができる格闘術の技の一つだ。
氷真は、腕を大きく回して拘束から逃れると、間合いを取った。
相手が素人なら、これだけで簡単にねじ伏せることができるのだが。
まあ、そう上手くは行かないか。
今度は、氷真が大きく踏み込んできた。俺の胸にナイフが迫る。俺は体をひねりつつ後ろに跳んでそれを避けると、氷真の首筋にナイフを振り下ろした。
一部の隙も無く振り下ろされた俺のナイフが、氷真の皮を切り裂く。鮮血が飛び散ったが、致命傷には至らない。
氷真は、俺の腹部に蹴りを入れてよろめかせ、その隙に数歩下がって、間合いを取った。
驚いたような、それでいて嬉しそうな表情で自らの首筋に触れると、流れた血を少し舐める。
「強くなったね。まさか、ボクに傷を入れるとは」
「まあ、練習しているからな。それに、お前は怪我をしている」
俺は、殴られた腹部を押さえ、痛みをこらえながら答える。痛みのあまり、意識がぼやけてきた。上手く急所を殴られたのか。
首を負傷した状況で、恐怖にも怒りにも陥らず、冷静な判断を下す。
こんなことができる人間は滅多にいない。人間、というかほとんどの動物は、負傷すると冷静さを失ってしまう。
「怪我をしていることは理由にならないよ。殺し合いはゲームじゃないんだから」
「まあ、お前はまだ負けてないけどな」
「確かに、ボクは負けてないね。でも、ボクの軍隊は負けたんだよ」
氷真の瞳に、かすかに浮かんだ感情は、おそらく屈辱感だ。
彼女は理解しているのだろう。もう自軍に未来はないことに。自分たちが包囲され、殲滅されそうになっていることが、何よりの証拠だ。
「815人」
氷真が、ぼそりと呟いた。
「え?」
「ボクが今まで殺してきた数。815人。殺そうと狙った人間で殺せなかった人なんて、一人もいなかった。今までは」
815人。俺は、氷真のライフルを見た。一見すると普通のライフルだ。
いや、本当に普通のライフルだな。狙撃銃でもなければ、短機関銃でもない。
彼女は、格闘だけでなく、兵士としての実力自体が圧倒的に高いようだ。
「なんで君を殺せないんだろう?殺すチャンスはあったのに。なんで、何度戦っても、もう一度君と戦いたいという思いが、消えないんだろう?」
氷真は、戸惑うような顔をした。常に冷静で、圧倒的な実力を持って全てを上から見下ろす氷真に、その表情は似合っていなかった。
「さあ。俺には分からないな」
「まあいいか。じゃあ、また会おうね。ボクは逃げないといけないし」
氷真は、地面を蹴って一気に間合いを詰めると、俺の腕をつかむ。
次の瞬間、俺の体は受け身を取る間もなく、地面に叩き付けられた。肺から空気が抜け、俺の意識は叩き潰される。
氷真は、少し寂しげな表情をしていた。
俺が目を覚ました時には、すでに日が昇り始めていた。
俺は、あばらの痛みをこらえて体を起こすと、すぐ近くに転がっていた自分のライフルを手に取る。
市街地に、朝日に焙られた涼風が吹き抜けていった。
包囲されていた敵兵士50万の内、45万が戦死。4万8千人が捕虜になり、包囲網を食い破って逃走に成功したのは、2千人に満たなかった。
その2千人に氷真がいたかどうかは分からない。だが、氷真が殺されるようなことは無いだろう。
俺は、何故かそう確信していた。彼女を殺せる人間など、全世界探したって何人いるのやら。
俺は、再び氷真と相まみえる予感を胸に、ユールス共和国本土へと深く食い込んだ最前線へと、派遣された。
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