第41話
あはははは、と三人は笑って、そのまま、いってきまーす、と到着したエレベーターに乗り込んだ。
「やれやれ」
俺はため息をついて、美雨の残る女子部屋のドアを開けた。
備品も家具もぜんぶ同じはずなのに、不思議なくらいいい匂いがする。花や果物を思わせる甘酸っぱい香り。白いレースのカーテンから、さわやかな朝日が差し込んでいた。俺はアメニティの緑茶をいれて、寝息を立てる美雨を見るともなく眺めた。
「うーん……」
一時間ほどすぎたころ、美雨はおもむろに呻き声をあげた。ソファでくつろぐ俺に気づくと、寝ぼけまなこでジィーッと見つめて、それから「あっ、そっかそっか」とひとりで納得したように呟いた。
「おはよう」
「おはよう、みんなは?」
「もう行ったよ」
「ごめんね、中沢くんを巻き込んで」
「気にしないで。俺も美雨と来たかったんだし、ホテルでゆっくりするのも悪くないよ」
「そう? じゃあこっちに来て」
「それはちょっとまずくない?」
「べつに変なことするわけじゃないでしょう?」
美雨は横になったまま、俺を見つめて微笑んだ。
間違っちゃうといけないから、なんて言えるわけもなく、俺は高鳴る胸を抑えて彼女のベッドにあがった。添い寝する形で見つめ合ったあと、ふふ、と彼女は急に照れたみたいに笑った。
「なんだよ?」
「なんか変な感じだなあって思って」
「まあたしかにね」
「来て」
美雨は布団のはしを開けて、抱き込むように俺をなかに入れた。
「わっ」
「えへへ、あったかーい」
「ちょっと美雨?」
「動かないで。今日はずっとここにいて」
美雨は俺をぬいぐるみのように抱いて、幼い女の子みたいな寝顔を見せた。
「ああ、中沢くんといると安心するなー」
「俺はちょっとドキドキするけど」
「何か話して」
「眠たくないの?」
「動けないだけなんだ。ずっと眠っていられるわけでもないから、何かお話してくれると助かるな」
「むかしむかし、あるところに……」
「昔ばなし?」
美雨は目を瞑ったまま眉をひそめた。
「ダメ?」
「いいけど、できれば中沢くんの話がいい」
「質問でもいい?」
「どうぞ?」
「ずっと聞きたかったんだけど、出会ってすぐのころ、俺に技をかけたでしょう? 睨まれただけで動けなくなった。今思い出しても、不思議な感覚だった。あれはいったいどうやってやったの?」
「簡単だよ。不動金縛りの術って言うんだ」
「道場でも言ってたね」
「柔術にもいくつかコツがあるでしょう? 相手の関節の遊びを取って、重心を捕えて操作する。柔術は相手の体にかけるんだけど、浄土流の幻術は、それを心にかけるんだ」
「そんなことできるの?」
「やってみる?」
「平気なの?」
「信じて」
美雨は俺の胸元でささやいた。子供を励ます母親のように、俺の首元に手を触れて、ほんの小さく力を込める。
「心に直に触れるのは、誰にとっても難しいから、まずは自分の体を見つめるんだ。中沢くんの頬は温かい。シャツからは私の大好きな匂いがする。清潔なシーツが気持ちいい」
美雨はささやくように言った。
「でも体で感じたものを、心に映すことはしないんだ。たとえば夜道で物音がすると、嫌でも体が反応して、勝手に胸がドキドキする。そこで止まればいいんだけど、その反応は心に映って、オバケが出たらどうしようとか、ストーカーに襲われたらどうしようとか、いらない心配が膨らんでいく。そんな心の働きを、今度は逆に体が映して、さらに鼓動が早くなる。それをまた心が映して……、そうやって人の精神は、どんどん厚みを増していく。幻術をかける第一歩は、その循環を断ってしまうことなんだ」
美雨は俺の首元に唇を寄せて、まどろむように目を閉じた。
「自分の心がほどけていくと、他人との境界が曖昧になる。人だけじゃない、空も風もシーツだって、自分と大差ないものだと理解できる。そうなったら、あとは相手の心に触るだけ。中沢くんの胸のなかに、くるくると円を描く光が見える。私のとよく似ているけれど、ちょっとだけ違う色の光。大繩に入るみたいにタイミングを計って、ちょうど投げ技をかける要領で、相手の円に同化していく。上手く調和すると、主導権がこっちに移って、……ううん、こうなるともう『君』も『私』もないね」
「……美雨?」
不思議な心地だった。
俺は温かい水を感じていた。全身の力が抜けて、美雨の体か俺の体か、その境界が曖昧になる。体はすでに、その記憶を失くしてしまった。心地よいぬくもりに安心して、ああ、俺たちは抱き合ったまま、まるで温泉に浸かっているみたいだ。遠浅の夢のなかでまどろんでいると、次第に快いこそばゆさが膨らみだして、快楽の芯が、体を貫いて弾けようとする。
「……美雨、ごめん、ちょっと解いて」
「……嫌だった?」
「そうじゃなくて」
「……気持ち、いいの?」
「え?」
「わかるよ? ……私も同じだから」
「なっ……、美雨、……俺、もう」
「いいよ」
やがて大きな球が弾けて、俺たち同時に体を震わせた。
正気に戻った俺が腰を引くと、美雨は追いかけるように足を絡めてきた。
「美雨? 少しだけ離れて」
「どうしてそんなこと言うの?」
「汚れちゃうかも」
「そんなの気にしないよ」
美雨は優しく笑って、横になったまま俺の顔を覗き込んだ。
照れるとか気まずいとか、そんな騒ぎではない感情に堪えられなくなって、俺たちは見つめ合ったまま吹きだした。そうしてお互いの笑顔を見てまた笑った。
「ねえ、中沢くん? 私が死んだら悲しい?」
「急にどうしたの?」
「だって、ハートルームで会ったとき、私は君に、死に場所を探してもらおうとしてたんだよ」
「答えにはなってないかもしれないけど」
俺は体を起こして美雨に言った。「俺は今、死んでもいいと思ったよ」
美雨は目を丸くして、呆気にとられたように俺を見つめた。
「……ありがとう。聞いてよかった」
「そう? ちょっとシャワー浴びてくるね」
俺はそう告げてベッドを降りた。
美雨は無言で頷いて、背中を向けた。
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