第42話

美雨は無言で頷いて、背中を向けた。

俺は隣の部屋に移って、シャワーで体を綺麗に流した。文字通り頭を冷やすために冷水を浴びて、洗面所でドライヤーを当てた。時間にして、せいぜい三十分足らずだったと思う。女子部屋へ戻ると、美雨のベッドはもぬけの殻で、彼女の姿はどこにもなかった。


「美雨?」

舞雪での家の経験から、バスルームを覗くことは憚られたが……、しばらく待っても、彼女が部屋に戻ることはなかった。一階へ降りて食堂や売店も探してみたが、どこにも姿が見当たらない。


「どこ行ったんだろう?」

俺は途方に暮れて、部屋で一人ため息をついた。テレビでも見て冷静になろう、とリモコンに手を伸ばすと、サイドテーブルのメモ帳に、何やら書きつけてあるのを見つけた。


〈このままならない人生で、無条件に愛せる人に出会いたかった。死ぬまでにもう一度、大好きな人たちと手放しで笑い合える時間を過ごしたかった。自殺について考えるたびに、そんなことを思って泣いていました。でも君が、そんな私の勝手な願いを、一遍に叶えてくれたから、私はとても幸せな気持ちで、この世界にさよならできそうです。

本当にありがとう。最後になるけど、ねえ、中沢くん?

私は君が大好きだったよ。〉


血の気が引くのがわかった。

俺は裸足のままフロントに走って、美雨を見なかったか、となんの説明もなしにまくしたてた。受付の女性は、困惑気味に尋ね返して、最後に電話を貸してくれた。幸い、舞雪の番号は、ホテルのほうに記録があった。


「もしもし、どちらさまですか?」

「美雨がいなくて」

「颯太? どうしたのあわてて」

「どこか心当たりはないかな?」

「落ち着いて。いったい何があったの?」

「美雨がいなくなったんだ。俺が自分の部屋に戻ってるあいだに、姿が見えなくなって」


「散歩にでも行ったんじゃない?」

「そうかもしれない。けど様子がおかしくて」

「落ち着いて。颯太に心当たりはないの?」

「ずっと考えてるんだけど」

「もしこれが修学旅行なら、今日はたぶん自由散策よね? あの子、どこか行きたい場所があるとか行ってなかった?」

「どうだったかな……」

「よく考えてみて」

俺は目を閉じて深呼吸した。


――あーあ、修学旅行に行きたかったな。

――やっぱり来られないの?

――東京には自殺向きの場所もなさそうだしね。

――一日目は千葉のホテルだから、たしか稲毛海岸のそばだったはず。


「もしかして!」

「どこかわかった?」

「ありがとう、またかける!」

「ちょっと颯太?」


俺はフロントからロータリーに飛び出して、止まっていたタクシーに乗り込んだ。料金のことは考えていなかった。今はそれどころではない。行先を告げて、とにかく急ぐように運転手に伝えた。

 

移動中はとにかくもどかしかった。一分を一時間にも二時間にも感じた。

くそ、美雨はずっと悩んでいたんだ。

それなのに俺は――。


到着すると、俺は美雨を探して海岸のほうへ走った。

人生でいちばん早く走った。苦しいのに無限に走れた。

季節外れの海岸に、人の姿はほとんどない。

けれど白い砂浜の波打ち際に、ひとりで佇む姿があった。


「美雨!」


俺は喉が破れそうなほど大きな声で叫んだ。

美雨はこちらを振り返ると、少しだけ驚いたような顔をした。寂しげな微笑を浮かべて、沖のほうへ後ずさる。


「美雨!」


俺が叫んで走り出すと、美雨は目を眇めるようにして俺を睨んだ。

その瞬間――、

手足が急に冷たくなって、体の自由を失った。



不動金縛りの術……?



俺はがむしゃらに暴れて技を破ろうとした。が、体はまったく言うことを聞かない。


……美雨! ……美雨! ……美雨! 


何度も何度も叫ぼうとするが、喉がつぶれたみたいに声にならない。

クソっ! 動け、動け、動け! 

足が千切れたっていい。腕がもげたっていい。心がバラバラになったって構わない。動け! 動け! 動け! 俺は美雨を死なせはしない。俺は彼女が大好きだから。


「美雨!」


唐突に波の音がクリアになって、体がもの凄い勢いで前に進んだ。俺は地面に突っ伏しそうになりながら、もつれる足で沖へ走った。


美雨が目を見開いて俺を見つめる。


俺は勢いそのままに、彼女もろとも海へ突っ込んだ。

波間から顔を出した彼女が、水を飲んだのかケホケホとせき込む。それにも構わず、俺は彼女を抱きしめた。


「美雨がいてよかった。ハートルームで話してるときも、水族館に行ったときも、美雨が寝てるときだって、一緒にいるだけで、俺は本当に本当に幸せだった。もう一度、絵を描こうと思えたのも美雨のおかげだ。美雨がいなくなったら死ぬまで寂しい。俺はおじいさんになるまで泣き続ける。だから学校に行けないとか、役に立たないとか、そんなことで死ぬなんて言うなよ!」

俺は美雨に泣きついて、声がガラガラになるまで叫んだ。


美雨は呆気にとられたように、泣き叫ぶ俺を見つめていた。

「ごめんね。ごめんね。もう馬鹿なこと言わないから。だからそんなに泣かないで」

いつの間にか美雨のほうが、俺を必死になぐさめていた。

俺はそれでも泣き続けた。


 

ホテルへ帰ると、エントランスで三人に出迎えられた。

「ごめんごめん、なんかふらっと散歩に出たら道に迷ったらしくて、それを俺が早とちりしちゃって」

俺が出任せを言うと、一拍遅れて意図を汲み取った美雨が、えへへ、と頭に手をやった。

「お騒がせしました」

「バカ」

舞雪は美雨の体をきつく抱きしめた。


「ちょっと、……舞雪、痛いよ」

「帰ってこなかったら、今度こそ許さなかったわよ」

舞雪の声は細く震えていた。


「ごめんね」と美雨が呟く。

舞雪は美雨の体をそっと離すと、

「おかえり」

と目をこすって微笑んだ。

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