第29話
短い廊下を歩いて、階段をおりる。突き当りにトイレとおぼしき個室、階段下には収納スペース。奥には広々としたキッチンとダイニングが見えるが、舞雪の姿はどこにもなかった。
「舞雪?」
バスルームのほうから、水の音が聞こえてくる。
「大丈夫かー?」
と呼びかけながら、俺は半開きになったままの脱衣所を覗いた。
「……舞雪?」
一向に止まらない水の音。
洗濯カゴはからっぽで、洗濯機のなかにも衣服はない。
何かがおかしい。
「おい、大丈夫か?」
返事はない。ふいに先ほど流れていた、映画のシーンが脳裏に浮かんだ。あの女性は浴槽のなかで、手首を切って死のうとしていた。映画と目の前の光景が重なって見えて、急に背筋が冷たくなった。心臓がバクバクと早鐘を打つ。
「聞こえてるなら返事しろ! 三つ数えたら開けるぞ?」
返事はない。
いーち、にー、さーん……。
「入るぞ?」
俺は戸をスライドした。
白い湯煙が広がって、水の音が大きくなる。舞雪はシャワーの前に立って、裸で湯を浴びていた。すべらかな白い背中、くびれた腰、弾けんばかりの白い尻。彼女が振り返ると、水をはじく果実みたいに、大きな胸がとぷんと揺れた。彼女は髪をかきあげて怪訝そうに目を細めると、
「きゃあああああっ!」
瞠目して悲鳴をあげた。
「ごめん、ごめん!」
俺は叫ぶように言って戸を閉めた。
「颯太っ? あんたなに考えてんの?」
舞雪は磨りガラス越しにくぐもった声で言った。
「呼んでも返事がなかったから、心配になって」
「シャワーを浴びてて何が心配なのよ」
「……変な映画を見たせいかな」
「あんた馬鹿なの?」
「わるい」
シャワーの音が鳴りやんで、きまずい沈黙が訪れる。
肌色の人影がこちらを向いて、磨りガラスに手のひらを重ねた。
「悪いこと言ったと思って、頭を冷やしてたのよ。私は自分のことばっかりで、美雨の気持ちを考えてなかった。颯太が怒るのも当然ね」
「それにしても長すぎだよ。さすがにちょっと心配になる」
「あんたに濡らされた服を洗ってたのよ」
「わるかったよ。あの、俺はもう戻るな。舞雪も早くしろよ。みんな心配してるから」
「もう行くの?」
「一緒に入るわけにもいかないだろ」
「あら、ばっちり裸を見たくせに」
「からかうなよ」
「ご感想は? コンディションは悪くないと思うけど」
「知るか! 湯気でまったく見えなかったよ」
俺は叫ぶように言って脱衣所を出た。
「どうだった?」
部屋に戻るなり大地が尋ねた。
「べつになんともなかったよ。すぐに戻るんじゃないかな?」
「怒ってた?」斜森さんが首をかしげる。
「もう平気みたい」
俺は二人の向かいに腰をおろした。
舞雪はすぐに戻ってきた。
それからは気を取り直して、勉強を再開した。
「うー、そろそろおいとまするか」
日の傾きはじめたころに、俺は大地に言った。
「悪いけど、先に帰っててくれるか? ちょっと舞雪に話があって。颯太は斜森さんを送ってやってくれるか?」
「え?」
舞雪に視線を投げると、彼女は苦笑して肩をすくめた。
「なんかそういうことらしいから、向陽もごめんね」
「私はいいけど、中沢くんはそれでいい?」
「もちろん。状況はイマイチわかんないけど」
俺は斜森さんと連れ立って、舞雪の家をあとにした。夕焼けに染めあげられた道路に、二人の影が長く伸びる。俺はゆっくりと自転車を押して、無言のまま斜森さんと歩調を合わせた。
「なんか追い出されちゃったね、私たち」
長い沈黙に、斜森さんは照れたように笑った。
「今ごろ説教されてるのかな?」
「えっ、なんで? 絶対に違うよ!」
「じゃあ何してるんだろう?」
「中沢くん、本気で言ってる?」
「うん?」
「もう、ほんとに鈍いんだから」
「え、え? どういうこと?」
「告白するんじゃない? 横島くん、ユキにさ」
「大地が舞雪に?」
「私はそう思うけどな」
斜森さんは夕空を見上げた。
「告白か」
「中沢くんはよかったの?」
「何が?」
「中沢くんはさ、ユキのことが好きなんじゃないの? それともやっぱり山下さん?」
斜森さんは神妙な顔で俺を見つめた。
「あんまり考えたことなかったな」
「あー、はぐらかしたー」
「べつにそういうわけじゃ」
ふふふ、と斜森さんは笑った。それから冗談っぽく俺の肩を小突いて、
「まあ、私じゃないことはたしかだね」
と寂しそうに苦笑いした。
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