第25話

「浄土流不刀術の始祖、澁谷反象しぶやはんぞうについては中沢くんも知っているね。彼は江戸の後期から明治の初頭を生きた剣客で、生涯に三十五度の勝負をし、いずれも敗れなかったという逸話がある。幕末の動乱期、新撰組をはじめ、諸流派の名だたる剣士たちが、彼に真剣勝負を挑んだ。が、そのほとんどは彼を斬り伏せるどころか、刀を抜くことすらできなかった。伝承によれば、澁谷には相手の動きを封じ込める不思議な力があったという」


先生の話には俺にも聞き覚えがあった。けれど多くの伝承がそうであるように、その内容は大幅に誇張されたものだと思っていた。現に俺の通っていた道場でも、真に受けている人間などいなかった。


「当時の剣士たちは、誰もが澁谷の技の秘密を知りたがった。しかし当の本人は、誰にも術理を明かさなかった。そればかりか、彼は弟子の一人さえ取らなかった。さらに晩年、彼は剣を捨てて仏道に入る。その後の記録は残されておらず、技の神髄も、彼とともに藪のなかに消えた」

「その後、澁谷を慕っていた武芸者たちが、彼の技を究明する形で、浄土流を創始したんですよね? 僕も道場で聞いたことがあります」

先生は、その通りだ、と首肯した。


「しかしそのうちの誰ひとり、渋谷の境地には至らなかった。当時の浄土流は、廃刀令や文明開化の世相もあり、真剣での斬り合いを禁じていた。とはいえ元来、澁谷の技は殺人術であり――たしかに彼が刀を抜くことは稀だったが――その目的は殺人をおいてほかにない。そこで澁谷から数えて三世代目にあたる浄土流の範士・権藤八郎ごんどうはちろうは、技の神髄は命の取り合いにこそ顕れるとの思想から、浄土流不刀術の門下を離れたのち、独自に別派を創始した」

「それが北辰浄土流ってわけ」

美雨はおどけるように拳を掲げた。


「だから俺たちより攻撃的なんだ?」

「その通りだ。源流には禅の思想が色濃く影響しているのに対し、北辰流はどこまでも実戦的な殺人術。そしてもう一つの違いは、澁谷が使用したとされる幻術の解釈だ。源流では澁谷の気迫や慧眼の暗喩として捉えているのに対し、北辰流では、実在した奥義だと考えている。実際に浄土流の奥義〈不動金縛りの術〉を体得したと言われる権藤は、その秘密を書の形で遺している」

「それがこれ」

美雨は祭壇から、薄い和綴じの本を出してきた。


「こら美雨、気安く扱っていい代物ではないぞ」

「先生がそれを言う?」

「痛いところをつくな……」

先生はきまりが悪そうに呟いた。


「何かあったんですか?」

「私は前にこの本を読んだことがあるの。そして秘術を会得した。だけどその代償として、『自分』という感覚を失くしてしまった」

「技のせいだったんだ?」

「すべて私の責任だ。この書には一貫して、『技の神髄は言葉にはできない』という旨が記されてある。〈心身ともに脱落したのち、相手もろとも凝集すべし〉――こんな文を読んで、理解できる人間などいない。私はそう思っていたのだが……」

「天才にはわかるんだよねえ」

美雨は得意げに腕を組んだ。


「澁谷や権藤も、自己の感覚を失くしていたんでしょうか?」

先生は首を横に振った。

「おそらく彼らは、自己を完全に解体したのち、再編成する術を心得ていた。美雨ができたのは解体まで。それゆえ技はかかるが、自分を取り戻すことはできなかった」

「そういうことですか」

俺は美雨の顔を見つめた。


彼女はからっぽな目で、こちらを見つめ返した。

それから先生の指導のもと、美雨と組んで稽古をした。先生は見た目の印象から、勝手に厳しい人だと思っていたが――、どちらかと言えば褒め上手なタイプだった。いつぶりかの濃密な稽古に、俺は清々しい気持ちで汗を流した。


「その年でたいしたものだ。もし続ける気があるなら、西高に進むことをお勧めしよう。あそこにはいい指導者がいるし、私から推薦することもできる」

「推薦ですか?」

「これでも昔は偉ぶってたんだ」先生は歯を見せて笑った。「まあ、いくら推薦しても、こいつのような頭では仕方がないが」

「もうセンセー、私のこと見くびりすぎですよ!」

「検討させてもらいます」俺は笑いながら言った。


最後に掃除を済ませて、先生にお礼を言って道場を出た。

「ああ、今日も終わっちゃうなあ」

美雨は通りを歩きながら寂しげに言った。

「こんなんでよかった?」

俺は「一日だけ、私の彼氏になってほしいんです」という彼女の願いを思い出した。


「ん? 何が?」

「その、彼氏として?」

「ああ、うん! ありがとう。すごく楽しかった!」

美雨は目を細めてにっこり笑った。

山の向こうに夕日が溶けて、川の上を風が吹き抜けていく。遠くにそびえる団地から、五時のチャイムが聞こえていた。美雨は黙ったままスマホをタップするみたいに、とんとん、と指先で俺の手に触れた。俺は言葉を発さないまま、彼女の手を握りしめた。


「私さ、本当は死のうと思ってたんだ」

美雨はおもむろにそんなことを言った。

俺は驚いて相槌も打てなかった。


「私は学校にも行ってないし、ちょっと頑張ったとしても、八時間もすればフラフラになる。親にもきっと迷惑をかけ続ける。だからせめて綺麗な場所で、早めに命を終えようと思ってた。勝負したときに、君に綺麗な場所を尋ねたのは、死に場所を探してたからだったんだ。でも中沢くんといると楽しくて、もう一日だけ、もう一日だけ生きてみようって、その繰り返しの毎日だった」

美雨は遠い目をしたあとで、急に取り繕うように明るい顔をした。


「なんて、急になに言ってんだろうね」

「俺も美雨といると楽しかったよ」

「いいの、ごめんごめん、この話はもう忘れて」

「よくない。別れ際はいつも寂しかったし、離れたそばから、また会うときのことを考えてた。上手く言えないけど、今まで会った誰とも違う、美雨には特別な印象があった。言葉にはとてもできないから、だから俺は一生のうちに、なんとかそれを絵に描きたいと思ったんだよ」

美雨は不思議そうに俺を見つめた。それからふっと微笑むと、

「あーあ、修学旅行に行きたかったなあ」

大袈裟に肩を落として、繋いだ手をそっと離した。


「やっぱり来られないの?」

「東京には自殺向きの場所もなさそうだしね」

美雨はシニカルな表情で肩をすくめた。

「一日目は千葉のホテルだから、たしか稲毛海岸のそばだったはず」

「綺麗な場所なの?」

「写真で見た限りは絶景だったな」

「へえ、それは残念」

「お土産を買ってくるよ」

「それより写真を撮ってきてほしいな。私も一緒だった気になれるように」

「ほかには?」

「わがままな子だって思わない?」

「ただ俺がしたいだけだよ」

「えへへ、やっぱり中沢くんは優しいな。えっとね、できれば電話をしてほしいんだ。みんなが一生の思い出を経験してる夜に、自分だけひとりで家にいるのは、それこそ死にたくなっちゃいそうだから」

「死ぬ必要はないよ。ちゃんと電話を気にしてて」

「ありがとう」

美雨は目を細めて笑った。「君は最高の彼氏だったよ」

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