第24話

目を覚ますと、間近に山下さんの顔があった。

幸せそうに微笑みながら、俺の顔を見つめている。


「や、山下さんっ!」

「みーうー!」

「……み、美雨」

「えへへ、どうしてそんなに照れてるの? 昨日は私にあんなことしたのに」

「へ?」

「……憶えてないの?」

美雨は赤面して肩を抱いた。


「えっ、えっ? ごめん! 俺なにした?」

俺があわてて訊くと、彼女は、うはははは、と吹き出して笑った。

「嘘だよ~。びっくりした?」

「……んにゃろ!」

俺が脇腹をくすぐると、美雨は高い声でけらけらと笑った。


「中沢くん、ギブ、ギブ!」

「絶対に許さん」

「……んっ、ひゃんっ」

美雨の口から、急に湿った声が漏れた。


「どうした?」

「その……、む、胸に当たってるから」

「…………っ!」

俺があわてて手を引っ込めると、美雨は取り繕うように口を結んで、澄ました顔をした。


「昨日はごめんね。病気の影響で、ずっと自分を演じてると、頭が熱くなってきて、最後には何も考えられなくなるんだ。昨日は楽しくてつい遅くなって、おまけに電車が止まっちゃって、それで時間切れに」

「そういうことだったんだ」

ころころとキャラの変わる山下さんの謎が、ようやく少し理解できた気がした。


「ねえ、中沢くん、ちょっとお願いがあるんだけど」

美雨は体を起こして、布団の上で正座した。

「何?」俺も起きあがって向かい合う。

「そのさ、今日は学校を休んでくれない? 一日だけ、私の彼氏になってほしいんです」

「カレシ?」

俺はオウムみたいに繰り返した。


「……嫌、かな?」

美雨が不安そうに俺を見つめる。

その切ない表情にやられてしまって、俺は後先を考えずに即答した。

「いいよ! 今日は学校を休んで美雨といる」

「ほんと? やったー、ありがとう!」

美雨はぱっと花が咲いたみたいに笑った。


俺は彼女の家の電話を借りて、父さんに学校を休む旨を伝えた。父さんは特に理由を追求することもせず、ただ「楽しんでこい」と言ってくれた。山下家の朝食にお邪魔して、再び部屋に戻ってくると、彼女は何やら絵の道具を並べはじめた。


「何してるの?」

「私の絵を描いてほしいんだよね」

「知ってるでしょう? 絵はやめたんだよ。こないだはちょっと付き合っただけで」

「わかってる。わかったうえでお願いしてるの。中沢くんの目に私はどう映っているのか、私はそれが知りたいんだ。私は君の描いた絵を見て、その印象を頼りに自分のキャラクターを編んでみたい」

美雨はいつになく真剣な表情で言った。

そのまっすぐな眼差しを前に、俺は首を横に振ることができなかった。


「……わかった」

「えへへ、やっぱり中沢くんは優しいなー」

「なんだか美雨といると、いつも絵を描いているような……」


カッターナイフで鉛筆を削って、画用紙の上にあたりをつける。絵の才能のこととか、挫折のこととか、過去の嫌な思い出とか……、些末な雑念は次第に遠巻きになって、俺は深い海に潜っていく。彼女のまばゆい印象をひたすらに集めて、それを画用紙に写していく。無我夢中で描き進めたが、お昼を過ぎても、納得できる絵には仕上がらなかった。


「ダメだ、やっぱり上手くいかないや」

「そんなことないよ。すごくよく描けてる」

「ありがとう。でも落ち込んでるわけじゃないんだ。久しぶりに心から楽しんで描けた。長いあいだ忘れてた感覚だよ。もしよければ、この課題は持ち帰ってもいいかな?」

自分でも驚くようなことを、俺は彼女に提案していた。


「もちろん! あはは、嬉しいな。完成を楽しみにしてるね」

美雨は目を細めて眩しい笑みを浮かべた。

彼女に対して抱くこのみずみずしい気持ちを、俺はあますことなく描きあげてみたいと思った。なんだか異様にワクワクして、今すぐ走り出したいくらいだった。


「午後からはどうする? せっかくだしどこか遊びにいくか?」

「中沢くんがよければ、ぜひ連れていきたい場所があるんだけど」

「どこだろう?」

ふふ、と美雨は意味深げに笑って立ちあがると、クローゼットから綺麗に畳まれた袴を出してきた。


「じゃじゃーん、私の通ってる道場の練習着だよ」

「そういや前に勝負した日に、道着じゃなくて袴だって言ってたね」

「中沢くんさえよければ、うちの道場に招待したいんだけど」

「ぜひ」と俺は言った。

それから五分とたたないうちに、俺たちは二人で道場へ出かけた。昼間から外をうろついて、補導されやしないかとヒヤヒヤしたが、二人ならそれもいいかと思い直した。


道場はわりに近所にあった。古色蒼然とした建物で、「道場」というよりむしろ「お寺」や「神社」に近い趣だった。木製の立派な門を通り、飛び石の上を渡っていく。生け垣に囲まれた玉砂利の庭。苔むした大きな石燈籠。小さな池には、朱色の鯉が泳いでいる。


「こんにちはー」

美雨は縁側の手前で靴を脱ぐと、廊下へあがってずかずかと進んだ。彼女の無遠慮な振る舞いに、他人である俺は内心ビクビクしながらついていく。門下生である彼女はともかく、連れの俺までこんなふうにあがっていいのだろうか。


「入って入って」

美雨が木製の引き戸をあけて俺を促す。なかには磨きあげられた稽古場が見えた。黒光りする板の間に、壁にかけられた杖や木剣、隅に吊られたサンドバッグ。正面には小さな祭壇があって、気のせいか線香の残り香を感じる。俺は礼をして板の間へあがった。


「よかったらこれを使って」

美雨は天袋から袴を出して、俺に渡してくれた。

「勝手に使って大丈夫?」

「ちゃんと許可はもらってるよ。さっき電話しておいたんだ」

「ならよかった。実はちょっと不安だったんだ」

俺がシャツのボタンに手をかけると、美雨はふいっと背を向けた。


「私も着替えるから、中沢くんも後ろ向いてて」

「あ、うん」

俺たちは背中あわせになって、妙な緊張を抱きながら袴に着替えた。

準備ができると、美雨の主導で稽古をはじめた。俺たちの使う技は、お互いに驚くほどよく似ていた。動作や理合いが近いだけではなく、技名そのものにも符号が多かった。


「ここはなんの道場なの?」俺は不思議に思って尋ねた。

「拳術だけど?」

「流儀名は?」

「北辰浄土流。私はその伝承者」

「伝承者?」


「まだ実力は足らんがな」

外から男性の声が聞こえて、ひとりの老人が入ってきた。白髪や皺にはたしかに年齢を感じたが、しゃんとした背筋や立ち姿には、オーラを思わせる壮健な気迫があった。


「先生!」

「やあ美雨、これは面白い子を連れてきたな」

「はじめまして、中沢です。いきなり押しかけてすみません」

俺が頭をさげると、先生は優しげに頷いた。


「ちょうどよかった、先生、中沢くんに北辰流の話をしてくださいよ」

「構わないけど、興味あるかね?」

「ぜひ聞かせてください」

俺が言うと、先生は、では手短に、と話しはじめた。

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