第23話

山下さんはリュックから小さなポーチを取り出すと、個包装の薬を出して、花の蜜を吸うように口に含んだ。なんの薬だろう、とは思ったが、俺は何も訊けなかった。


「ちょっと横になっていい?」

「もちろん」

俺が頷くと、彼女は横髪を耳にかけて、俺の膝の上に体を寝かせた。眠ったわけではなさそうだったが、彼女はそれきり口を利かなくなった。自分にできることが何一つ思い当たらなくて、本当に世界の果てに取り残されたような気分になった。

 

結局、地元の駅に帰れたのは、零時を過ぎたあとだった。

山下さんを起こして、電車を降りる。彼女の目はどこか虚ろで、表情も人形みたいに固まっていた。俺は約束した通り、彼女を家まで送っていった。


マンションに着くと、一人の女性が俺たちを出迎えた。どうやら山下さんのお母さんらしい。怒られるかな、とも思ったが、彼女は頭をさげてお礼を言った。

「あなたが中沢くんね。美雨が無茶を言ってごめんなさい。本当にありがとうね。私から親御さんに謝りたいから、電話番号を教えてくれる?」

「そんなに心配してないと思いますけど」

と俺は彼女に言った。背の小さいわりに、すらっとした体型の人だった。山下さんのどこか儚げで人を惹きつける瞳は、この人譲りなんだろうとぼんやり思った。


「でも一応、私から事情を説明させて」

「たぶん父か妹が出ると思いますけど」

俺はそう前置きして番号を告げた。てっきりケータイでかけるのかと思ったが、彼女は自宅の部屋に俺を招いた。固定電話から俺の家にかけて、平謝りに父さんに詫びた。


「もう遅いから、今日はうちに泊まっていって」

「えっ、でも」

「大丈夫よ。あなたのことは、いつも美雨から聞いてるわ。私たちも信頼してる」

彼女は優しく笑って、山下さんを連れてべつの部屋へ移った。


「まあ、そういうことなら」

俺はひとりで呟いた。そのあと風呂を借りて、山下さんのお父さんの部屋着に着替えた。階段をのぼって案内された部屋へ入ると、窓際のベッドの上で、山下さんが眠っていた。フローリングの床の上には、白い布団が敷いてある。


「あの、……ここで?」

「やっぱりまずいかしら?」

山下さんのお母さんは、神妙な面持ちで訊き返した。「美雨の希望なんだけど」

「山下さんの?」

「ええ、だからもし、颯太くんが嫌じゃなければ」


まあ、嫌なわけはないけど……。


結局、俺は素直に頷いて、音を立てないように布団に移った。山下さんのお母さんが扉を閉めると、部屋は途端に暗くなった。カーテン越しに外灯の光が、消え入りそうに明滅していた。


俺は音を立てないように、布団をめくってなかに入った。だんだん目が慣れてきて、部屋の様子が見えてくる。大人の書斎を思わせる簡素な机、うずたかく積まれたキャンバスの絵。大きな本棚には、数えきれないほどの小説が並んでいる。


「なんだこれ……」

俺は圧倒されてしまった。山下さんは会うたびに印象が変わる。けれど孤高の芸術家みたいなこの部屋は、俺の知るどの山下さんのイメージとも違って。


彼女は何を抱えているのか。

なぜ教室に来ないのか。

あの薬はなんだったのか。


ベッドの上で抜け殻のようになった彼女を見て、俺はたまらない気持ちになった。同級生の女の子の部屋にまで来て、こんなに寂しい思いをするなんて。はじめて相談室で見かけた日、武道場で決闘した日、一緒に水族館へ行った日――。

絵の具と本の匂いが綯い交ぜになった室内で、俺はうつらうつらと山下さんのことを思った。そのうちに眠っていたらしい。ふいにベッドの軋む音で目を覚ますと、


「……中沢くん、起きてる?」

山下さんは横になったまま、かすれた声で俺に訊いた。


「起きてるよ」

「ごめんね、こんなことになっちゃって。楽しくて、つい調子にのっちゃった」

「もう平気?」

「どうだろう?」

山下さんは少し困ったように言った。


「山下さんは不思議なことだらけだ。会うたびに感じが違ったり、超能力みたいな技を使ったり」

「急に糸が切れた人形みたいになったりね」

山下さんは自嘲気味に言った。「ねえ、少しそっちに行ってもいい?」

「……いいよ」

山下さんは猫みたいにベッドをおりると、俺の布団に潜り込んできた。


「六年生のときにね、ちょっとした病気になったんだ。自分と他人の境界が、わかりづらくなる感じって言ったらいいのかな。今でもこうやってくっついてると、中沢くんの体のなかに、身も心も融けていくような気がする」

山下さんは俺の胸に、自分の鼻を押しつけた。


「自分と他人だけじゃなくて、『自分』っていう感覚もわからなくなるんだ。知覚も思考も感情もぐちゃぐちゃになって、見える世界は、グロテスクに自壊していく。日常生活もままならなくなって、私はそれで不登校になった。そのころ舞雪に会わなかったのは、とても会える状態じゃなかったから。大袈裟じゃなくて、そのころ『私』は世界のどこにもいなかった。中沢くんはさ、会うたびに私が、別人になってるみたいだと思わなかった?」

「思ったよ」

「私は今でも心がバラバラになってるから、たくさんの小説や映画を見て、人間の振る舞いを勉強してるんだ。一向にキャラクターが定まらないのは、どれもしっくりきてないから。どんなに頑張っても自分って感じがしなくて、朝起きるたびに、洋服みたいに着替えてるんだ」

「俺はどの山下さんも好きだよ」

「私なんていない」

「ここにいるよ」

俺は山下さんの体をひかえめに抱いた。


「……名前を呼んで」

「山下さん」


言われた通りに呼んだのに、彼女はなぜか俺を睨んだ。


「なんで怒るの?」

「だって、中沢くん、ずっと名字で呼んでくるし」

山下さんは、いじけるように俺の胸で呟いた。

俺は自分を奮い立たせるように息を吸って、


「……美雨」

「もう一回」

「美雨」

「もう一回」

「美雨」

「もう一回」

「美雨」


俺は山下さんが眠りにつくまで、何度も繰り返し名前を呼んだ。

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