第21話

舞雪は俺を置いて通りへ出た。

夜道をひとりで行かせるわけにもいかず、俺は黙ってあとに続いた。


「美雨とのデートはどうだったの?」

「べつに普通だよ」

「楽しかった?」

「まあね」

「私といるときより?」

舞雪はおもむろに俺の腕を取って絡みついた。


「ま、舞雪っ?」

豊満な胸の弾力、腕を撫でる髪の感触、なんとも言えない甘い香り……。時間が止まったみたいに静かになって、自分の鼓動だけが大きく響いた。


「……私、颯太を美雨に取られるのはやだからね」

舞雪は消え入りそうな声で言った。

そのまま倒れ込んできたものだから、俺は驚いて体を支えた。


「おい、どうした?」

「べつに躓いただけよ」

「なんか変だぞ? 酔ってるんじゃないか?」

「そんなことないってば」

舞雪は体勢を立て直して――、けれどまたふらりとよろける。


「ほら、危ないぞ」

再び体を抱きとめると、

「ちょっと座りたいな。悪いけど、公園まで連れてってくれる?」

舞雪は上気した顔で、俺の胸にしなだれかかった。


「やっぱり酔ってるだろ……」観念して抱きあげようとするが、お姫様だっこをするには、いかんせん彼女は長身で。「おんぶでもいい?」

「重くて悪かったわね!」

「俺が非力なだけだよ。舞雪は美人だしスタイルもいい」

俺は背負い投げの要領で、舞雪の体を持ちあげた。

お姫様だっこは難しくても、体の使い方によっては楽に持ちあげることができる。重たい鎧も身につければ、軽く感じるのと同じ理屈だ。


「わっ、ちょっと颯太?」

俺は舞雪を背負って、近くの公園へ歩いた。

女の子の体は想像より重くて、立っているだけでも正直しんどい。が、舞雪に恥をかかせるわけにはいかない。俺は歯を食いしばって歩を進めた。背中に大きくてやわらかいものが当たっているが……、気にするな! 今はただ公園のベンチへ!


「座れるか? ちょっと待ってて、飲み物を買ってくるから」

舞雪をベンチに座らせて、自販機へ行こうとすると、

「行かないで」

彼女は後ろから、俺のシャツの裾を掴んだ。


「どうしたんだよ? そんな甘えるような声出して」

「うるさいわね、いいから少しここにいてよ」

潤んだ瞳で見つめられて、不覚にもどきっとしてしまった。隣に座るが、なんだかそわそわして街灯を見上げる。


「暑いわね」

「暑い?」

「私だけかしら?」

舞雪はそっと俺の手を握った。

静かな夜に二人の鼓動が、次第に高まり重なっていく。


「舞雪さ、山下さんと喧嘩でもしたの?」

「聞きたいの?」

「差し支えなければ」

「美雨のことが気になるのね」

「今は舞雪のほうが心配だよ」

「調子いいんだから」

舞雪は、ふう、と体の熱を吐き出すみたいに息をついて、俺の肩に頭を乗せた。長い髪が柳の葉のように垂れて、俺の腕をくすぐった。


「美雨と私は、小学生のころまでけっこう仲がよかったのよ。私たちは二人とも天真爛漫というよりは、ちょっと皮肉屋なタイプで、それで気が合ったのね」

「皮肉屋か」

舞雪に関しては納得だが、山下さんのほうはいまいちピンとこなかった。


「でも突然、美雨は学校に来なくなった。本当に突然のことだったし、相談みたいなことも一度もされたことがなかった。もちろん心当たりもなかったわ。何度も家を訪ねたけど、美雨は一度も顔を見せてくれなかった。それから何度か、学校や近所のスーパーで、ばったり鉢合わせることもあったけど、美雨はそのたびに印象が違って、昔とはまるで別人みたいで」

「理由はわからないの?」

「見当もつかないわ」

舞雪は寂しそうに足元の石を蹴った。


「つらかったろうね。もし舞雪に同じことされたら、俺もそうとう傷つくと思う」

「私はそんなことしないわ」

「何か理由があったのかな?」

「颯太は? 本当に何も聞いてないの?」

俺は首を縦に振った。


「美雨が舞雪を嫌ってるとは思えないけど」

「でも実際に避けられてたのよ」

「たしかにね」

と俺は言った。それで話は行き止まりになった。「水を買ってこようか?」

「ありがとう、お願い」

俺は頷いて、近くの自販機に水を買いにいった。大小の二台が並んでいて、白い光に吸い寄せられた羽虫が、透明なプレートに張りついている。俺は水を買って、舞雪のもとへ戻った。


「はいよ」

「ありがとう。いくらだった?」

「また今度アイスでも買ってよ」

「わるいわね」

舞雪がペットボトルのふたを捻る。が、上手く開けられず、困ったように眉根を寄せた。


「かして」

「べつにかわいこぶってるわけじゃないのよ?」

「わかってるって」

俺はキャップを開けて、容器を舞雪に返した。艶めかしい唇が飲み口に触れて、ごくり、ごくり、と喉が音を立てる。なんだか直視できなくて、俺は逃げるみたいに隣に座った。


「飲む?」

舞雪は飲みかけの容器を掲げて首をかしげた。

「少しもらおうかな」

俺は水を受け取って、なるべく何も考えないように口をつけた。

「……ん?」

なんだか視線を感じて横を見ると、舞雪がとろけるような顔でこちらを見ていた。


「なっ、なんだよ」

俺が目をそらして、もう一口、飲もうとすると、

「颯太はさ、キス、したことあるの?」

「……ブッ!」

俺は水を吹き出した。


「な、なんだよいきなり」

「私はまだしたことがなくて、その、颯太はどうなのかなって。もしかしてもう美雨と」

「してないしてない!」俺は食い気味に否定した。

「でも時間の問題でしょう? だったらいっそうその前に……、私のはじめてが颯太なら、素敵だなって思って……」

「本気なのか……?」

「うん、たぶん」

舞雪は恥じらうように顔をそむけた。


「二年のとき、颯太にしつこく空手部に誘われて、もともと仲はよかったけど、どうしてそこまで必死になるんだろうって思ってた」

舞雪は俺の表情をたしかめるように見つめて、また訥々と話しはじめた。

「あの少し前に、颯太の道場の先生が亡くなったんだよね? 流派は問わないから、練習できる場所がほしい――ただその一心で走り回る颯太が、私にはとても輝いて見えた。まさか自分が誘われるとは思ってなかったから、はじめは戸惑ったけど、本当はすごく嬉しかった。何度も断ったのは、そのたびに颯太が、あきらめずに私を呼んでくれたから――、まるで自分が、颯太にとって大切な存在になったような気がして」


「ぜんぜん知らなかったな」

「はじめて言ったもん。だから単なる思いつきじゃないし――今日はちょっと酔っちゃったけど――これは気の迷いじゃなくて正直な気持ち」

舞雪は間近に顔を寄せて、身をゆだねるように目を閉じた。


間近に迫った美しい顔に、つかの間、俺の頭は真っ白になった。

気づけば舞雪の唇に、自分の唇を重ねようとしていた。が、結局、俺たちはキスをしなかった。あと数センチで触れ合うというところで、眩い光に照らされたのだ。

はっとして顔を離すと、光のほうには大地がいた。薄手のスポーツウェアを着て、額に汗を浮かべている。彼は呆然自失の表情で、俺たちの足元を照らしていた。


「……大地?」

俺は立ちあがって、さりげなく舞雪から離れた。


大地は俺の呼びかけには応えずに、素人みたいな大振りの突きで、俺の顎を打ち抜いた。視界が揺れて、波打つように回転する。俺はその場に立っていられず、地面に倒れた。


その気になれば、避けることもできたはずだ。が、実際にはそうしなかった。大地の気持ちを知っていながら、俺はそれを踏みにじったのだ。


「ちょっと大地!」

舞雪が咎めるように声をあげる。

大地は何も言わずに、俺たちのもとから立ち去った。

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