第11話

武道場を使う部活には三つあって、柔道部に剣道部、それから我らが空手道部だ。

柔道部と剣道部は、ともに学校の創立当初から続く由緒正しい部活だ。一方、空手部は、創設以来、廃部と復活を繰り返してきたややマイナーな部。仮に団体ごとに地位みたいなものがあるとすれば、間違いなく最底辺だろう。

 

肩身の狭い空手部員は、武道場が使えない日に限り、ピロティに集まって稽古をしている。そのため着替えや道具の置き場として、物置のようなプレハブ小屋が、部室にあてられていた。が、実際には着替えは空き教室でことたりるし、空手に使う道具などたかが知れている(なんたってカラ手なのだ)。俺たちはいつからかその部室に、小さなモニターやゲーム機を持ち込んで、秘密基地みたいに使うようになっていた。


俺は帰りのホームルームが終わると、保健委員の雑務をこなし、少し遅れて部室へ向かった。ある程度の人数が集まるまで、部室で雑談やゲームに興じるのが、部員たちの密かな日課だった。稽古中は厳格な岩じいも、これについては黙認している。曰く「いつでも集まれる場所があるのは大事なことだ」とのこと。


「わりい、遅くなったー」

引き違いの戸を開けてなかに入る。埃っぽい匂い、カバーのかかったままのモニター、誰かが貼ったアイドルのポスター。部員の姿はまだなかった。


「おかしいな……」

ピロティにも人はいなかったはずだが。

俺は仕方なく床に座って、ひとりでゲームの電源をつけた。久々のマリカーに夢中になって――、ふと気がつくと、雨の音が聞こえていた。どうやらまた降りだしたらしい。きっちり閉めたつもりの戸の隙間が気になって、ゲームを止めて立ちあがる。

入口の前に行って引き戸に手を伸ばすと、


「おわっ」

 

唐突に戸がスライドして、驚いて声をあげてしまった。

外には雨に濡れた斜森さんの姿があった。

「ごめんね、驚かせちゃった?」

斜森さんは緊張気味に首をかしげた。

「どうしたの?」

「あのね、今日は臨時の職員会議の関係で、部活はみんな中止になったんだって。ホームルームのあと、すぐに先生が戻ってきて言ってたんだけど……、中沢くんはもういなかったから、もしかしたら知らないんじゃないかなって思って」

「まったく知らなかった! 今日は委員会の仕事で、石鹸の補充をしなくちゃで、部活に遅れないように急いでたから。わざわざ来てくれてありがとう」

「いえいえ、それなら私も来たかいがあったな」

斜森さんは嬉しそうに目を細めた。


するべき会話はそれで済んでしまって、俺たちは早々に話題を見失った。

沈黙を強調するように、急に雨脚が強くなる。


「降ってきたね。よかったら入る?」

「え?」

斜森さんは呆気にとられたように目を丸くした。まっすぐな瞳で見つめられて、ちょっとどきっとしてしまう。


「その、そこだと濡れちゃうから」

「でも私、空手部じゃないし」

「今日は休みなんでしょう?」

俺が冗談っぽく微笑みかけると、斜森さんは安心したように、ふふ、と笑った。

「ならお邪魔しちゃおうかな」

「タオルもお茶も出せないけど」

俺は戸をめいっぱい開けて、斜森さんをなかへ通した。


「おじゃまします」

斜森さんは入口で靴を脱ぐと、遠慮がちにカーペットにあがった。スカートの裾を押さえながら、ヘリが着陸するみたいに体育座りする。眩しい生足に吸い込まれそうになって、俺はハッと目を逸らした。


「うぅー、濡れちゃった」

斜森さんは顔をしかめると、紺色の靴下を脱いで裸足になった。 


……え? ちょっと待って。

……何この状況? 


見過ごして風邪をひかれても困るし、咄嗟になかへ入れたけど…… 

考えてみれば放課後なんだし、傘をさして帰ればよくない?


え? もしかして、これって誘ったみたいに思われてる?

入れよ、今日は誰もいないから、――的な?


「あっ」

斜森さんが出し抜けに体勢を変える。ムッチリとした白い内腿の狭間に、てらてらと光る黒いスパッツが見えて、――頭の血管が切れそうになる。


「ゲームあるんだ?」

「えっ! ……あ、うん、斜森さんが来るまでマリカーやってた」

「マリカか」

斜森さんはごそごそとツーコンを探して、モニターの前に正座した。


「やりたいの?」

「……うん」

「じゃあ、やる?」

「うん」


俺たちはそんな具合に、最低限の会話でゲームをはじめた。俺が易しいルールを選ぼうとすると、斜森さんは俺の制服の袖をひっぱって、黙ったまま首を横に振った。


「えっと、もっと難しいほうがいい?」

「うん」

「これでいい?」

「もう少し」


結局、ルールはいちばんエクストリームな設定に。キャラの選択やマシンのカスタマイズも、終始、迷いのない様子の斜森さん。


「もしかして、けっこうゲームやるの?」

「弟が好きで、よく一緒に遊んでる」

「斜森さんって弟がいたんだ」


読み込みが終わって、いよいよゲームがスタートする。

よりにもよって、初っ端から最難関のコース。さすがに無茶なのでは? という俺の懸念は、ものの数秒で吹き飛ばされた。斜森さんのゲームスキルは尋常ではなかった。重量級のキャラの強みを活かして、敵のマシンをガンガン削っていく。


「わっ、ちょっと斜森さん!」

「へへっ」


普段、教室にいるときとは違って、砕けた感じの斜森さんの横顔。家で弟くんと遊んでいるときは、こんな感じでお姉さんをしているのだろうか。なんだか妙に和んでしまう。

気がつけば時間も忘れて、二人でゲームに没頭していた。


「やばっ、斜森さん、もうけっこうな時間だ!」

「うそー? 早いなあ!」

二人して、窓の向こうに視線を向ける。

「真っ暗だな」

「やっちゃったねー」

俺と斜森さんは、見つめ合ってくすくすと笑った。

「怒られないうちに早く帰ろう」

「だね、遅くまでお邪魔しました」


部屋を片づけて、二人で戸口に立つ。いつもはむさ苦しいこの部室も、斜森さんと過ごしたあとだと、こんなにもいい匂いがする。花やかで甘酸っぱい女子の匂いだ。


外へ出ると、湿った夜の空気に包み込まれた。

電灯のそばには霧のような雨が見えるが、傘をさすほどではない。

斜森さんと二人で、自転車置き場へ歩いた。


「斜森さんは歩き?」

「中沢くんは自転車だよね」

すっかり打ち解けた感じで、斜森さんは言った。


俺は自分の自転車を探して、スタンドを弾く。

「それじゃ、また明日」

「……あの、中沢くん?」

「うん?」

自転車に跨りかけた姿勢で、俺は斜森さんのほうを振り返った。


「服、選んであげよっか?」

「フク?」

「ああっ、ごめんね、ちょっと偉そうだったかな。お昼休みに、山下さんとお出かけするって言ってたから」

「ああ、服か」

「迷惑じゃなければ、その、土曜か日曜に」

「えっ!」予想外の展開に、頭のなかが真っ白になる。「……あっ、その」

「ごめんごめん、いきなりすぎたよね、とりあえず気にしないで」

斜森さんは取り繕うように言い足すと、またね、と手を振って走りだした。


「ちょっ、斜森さん、待って待って」

背後から咄嗟に呼び止める。思ったよりずっと大きな声が出て、自分でもちょっとびっくりした。


「うん?」

斜森さんが、立ち止まって振り返る。


「行こうよ。服、斜森さんに選んでほしい」

「本当?」斜森さんは晴れやかに笑って、小走りでこちらに戻ってきた。「じゃあじゃあ、今週のご予定は?」

「土日は両方あいてる」

「なら土曜にしようか。中沢くんってケータイは持ってる?」

「まだ買ってもらえなくて」

「じゃあ駅で待ち合わせよう」

「一時とかでいいかな?」

「決まりだね。ありがとう、楽しみにしてる」

斜森さんはまた手を振ると、学校の前の横断歩道を渡って、今度こそ向こうの路地へ消えた。

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