第5話

ムシャムシャとシガールを食べながら、一人きりで家路についた。 晩春と初夏のあわいの風が、川沿いの遊歩道に吹き抜けていく。


予定より、遅い帰宅になってしまった。陸橋の向こうの我がマンションが、遥か遠くに感じられる。風呂掃除と洗濯は、父子家庭のうちでは俺の仕事なのだが……、今日は疲労困憊だ。マンションを見上げて歩いている間に、行き倒れてしまいそうだった。


案の定、エレベーターに乗り込んで、上階へあがっている間にほとんど脳死。なんとか帰って部屋についた瞬間に、即、ベッドにバタンキュー。モワモワと湯気が立ち込めるように、夢の景色が広がっていく。


い、いかんぞ、このまま眠ってしまっては……。

舞雪の服も洗わなきゃだし。


「うっ、……動け、逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ」

俺は這うように通学鞄に手を伸ばして、ビニール袋に入れた舞雪の服を、とりあえず枕の横に置いた。これで忘れはしないだろう。

ついでに制服を脱ぎ捨てて、再びベッドに身を投げる。

マットレスに沈み込むように、夢の世界へ呑まれていく。


すまん妹よ。お兄ちゃんはこれまでだ。

今日の家事は任せたぞ。

 

――すごいね、颯ちゃん、一等賞だあ!

今よりも少しだけ若い母さんが、満面の笑みで俺の頭を撫でる。


――また一番だ。

と拍手をして、


――さすが颯ちゃん!

と褒めそやす。


――クラスでも一番だったの? ほんとに偉いねー。

褒められて嬉しいのに、なぜだろう? どんどん息が苦しくなる。


――98点? 惜しかったね。あと2点だったのに。

「……母さん?」


――もっと頑張って。もうちょっとで満点だよ。

「母さん?」


――そんな顔しないの。お母さんとお父さんは、これからはべつべつのお家で暮らすの。心配しないで。颯ちゃんはお家が二つになるんだよ。

「……母さん!」


――べたべたしないで! あなたはパパの子なんでしょう?

「母さん!」


俺は離れていく母さんを追いかけて、その背中に飛びついた。

その瞬間に、脈絡のない悪夢が醒めた。


「お、おにいちゃん?」

開いた扉の隙間から、妹の花憐がこちらを覗いている。ショーパン&ティーシャツのラフな部屋着姿だが、兄の俺から見ても、小五にしては大人びている。


「わるい花憐、なんにもやらずに寝ちまった」

「いいけど、……それ、何?」

「え?」

妹の向ける怪訝な目に、俺は初めて状況を理解した。

俺は持ち帰った舞雪のキャミソールに、顔をうずめて眠っていた。


「こ、これは舞雪の忘れ物で!」

「……えっ?」

「はっ」

「う、うわあああああああー! おにいちゃんが、おにいちゃんが性犯罪者にぃ!」

「違う、落ち着け! 頼むからいったん落ち着いて」

「そ、それキャミソールだよね? 舞雪ちゃんは知ってるの?」

「知らないけど」

「…………」

 

絶句した花憐の顔が、どんどん蒼白になっていく。


「……聞け、花憐」

「おにいちゃんの変態っ!」

部屋の扉が勢いよく閉まって、妹がリビングへ走り去るのが聞こえる。

やれやれ、と俺は体を起こした。

父さんにチクられる前に、なんとか誤解を解いておかねば。

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